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21話-3 陽だまりの楽園
――2つの性を併せ持つ者がいる。
αの牙がある。優秀な頭脳と身体能力もある。
Ωの胎がある。他者を惹き付ける美貌と魅了 ある。
すべてを兼ね備えた存在を、神子として讃える文化も、今なお世界のどこかには残っているという。
しかし
それはつまり、暴力的な2つの衝動を、1つの体に抱えて生きていかなければならないということを意味していた。
睡蓮がぽつりぽつりと話し始めた〝秘密〟に、陽は静かに耳を傾ける。薬がようやく効いてきたのか、睡蓮の心身は落ち着きを取り戻しつつあった。
「……そうなんだぁ」
睡蓮がすべてを話し終えると、陽はただそれだけ、呟いた。ぽかん、とした顔は、まるで初めて聞きましたとでも言わんばかりだ。
「……ふん、白々しい。芙蓉から聞いたんだろ? だからお前は……」
「え? 初めて聞いたよ?」
「は?」
「芙蓉くんには『僕のふりをさせて、兄さんを助けて』ってしか聞いていませんので……そういうプライバシーに関わることはあんまり……興味ないし……」
「……………………は?」
陽は今まで、睡蓮からは睨まれるか、嘲笑われるかのどちらかの反応しか貰ったことがない。凛々しく隙のない立ち振る舞いと、鋭く研ぎ澄まされ澄み切った青い瞳が、陽の知る睡蓮のすべてと言えよう。
それが、今こうして、目を大きく見開いて、無防備な姿を見せている。
(……お目々まんまるだぁ)
睡蓮が黙っていることも気にせずに、陽は興味深そうにまじまじと睡蓮を見つめる。凛々しい眼差しがまんまるくなって、何だか可愛らしいような気がした。
雲雀と同じくらい綺麗な目とお顔だなぁ、などと考えていたら、突然立ち上がった睡蓮に胸倉を掴まれて、陽の身体はぷらん、と浮いた。
「ッ貴様!! 嵌めやがったな!?」
「えぇ~~!?」
今度は陽が目を丸くする番だった。
乱暴な扱いにもびっくりしたが、睡蓮の目元が真っ赤に染まっていて、ぱちぱちと目を瞬く。
「頭の悪い仔兎だと思っていたが……誘導尋問など、卑劣な真似を!!」
「えぇ……? 睡蓮くんが勝手にお話始めちゃったのに……?」
立ち上がった睡蓮と陽の身長差はほとんどなかったが、軽々と持ち上げられて、ぷらぷらと揺れながら陽は答える。睡蓮は、ぐっ、と一瞬言葉に詰まったようだった。
「それはッ……お前が……!」
「そりゃあ確かに途中で『あれぇ? これっておれが聞いてもいい話なのかなぁ?』ってちょっと思ったけど」
「そこまで分かっていながら何故止めない!?」
凄まじい剣幕の睡蓮を見つめて、陽はパチパチと瞬きを繰り返した。それから、にこっ……と静かに微笑んだ。
「…………とてもそんな空気じゃなかったから……」
「場の空気を読むタイプじゃないだろ貴様は!!」
「おやおや、随分見くびられたものですなぁ。おれだって空気のひとつやふたつくらい読めますよ。侮らないでいただきたい」
「五月蝿い!! 勝手に読むな!!」
「えぇ~~?? そっちこそ、勝手に喋っておいて……、…………」
「……?」
言い返そうとしていた陽がふと、口を閉ざす。
不思議そうに首を傾げる睡蓮をじっと見つめた後、ふぅ、とため息をつくと「やれやれ……」と困り果てたように、それでいて仕方なさそうに、曖昧に微笑んだ。
『今回はおれが引きましょう』と慈悲深さを装うような微笑みが、睡蓮を更に苛立たせた。
「大体貴様は…ッ」
睡蓮が口を開いた瞬間、コツコツ、と控えめなノックが扉から聞こえた。ハッとして睡蓮が震え、陽を手放した。
「……兄さん? いるの?」
不安で震えるような小声は芙蓉のものだった。躊躇う睡蓮の代わりに、陽がタタッと小走りで扉に向かう。そっと扉を開ければ、そこには不安そうに俯く芙蓉の姿があった。
「芙蓉くん、大丈夫だった?」
「陽くん!」
陽を見て、芙蓉が顔を上げる。沈んでいた表情は、ほっとしたように明るさを取り戻した。
「ありがとう、颯くんが人が来ないようにしてくれて、裏から回ってきたから、みんなには見られてないと思う」
「よかった。睡蓮くんも、ちょっと元気になったみたい」
「ほんとに?」
芙蓉の視線が、部屋の奥にいる睡蓮に向けられる。一瞬、瞳が潤んで揺れて、「兄さん!」と駆け寄った。
「兄さん、大丈夫?!」
「……お前……どうしてこんなこと……!」
「勝手なことしてごめんなさい」
一度小さく俯いた芙蓉は、それでも力強く顔を上げ、睡蓮を見つめた。
「……でも、兄さんがもし、〝こういうこと〟になったら……兄さんは絶対バレたくないはずだから……僕だったことにすればいいと思って」
「っ……!」
「制服のことまで頭が回らなかったけど、……性別に対する思い込みもあるのかな。うまくいったと思うから」
「……でも、それではお前が……!」
「僕は大丈夫」
芙蓉が力強く、睡蓮の手を握った。
未成年の未熟なΩが学校内や公共の場で|発情期《ヒート》になったなどという話は、珍しいことではない。けれど、だからと言って、今後好奇の眼差しに晒されないとは思えなかった。
弟のことを想えば、誤解された時点で否定すべきだったし、今からでもそうするべきだ。
だけど、睡蓮はそれ以上何も言えなくなってしまった。
いつもは不安そうに瞳を潤ませて、自分の後ろに隠れていた弟の、淡い優しい色の瞳が、いつになく強い光を宿していた。
「今日はもう帰って休もう、兄さん。僕を迎えに来たってことにすればいい」
「……芙蓉」
芙蓉は睡蓮の手を固く握って、睡蓮を連れて、扉の前に立った。
その途端、部屋の外での出来事が、睡蓮の脳裏にぶわりと蘇って身体が震えてしまう。睡蓮は芙蓉に悟られまいと、ぐっと奥歯を噛み、耐えるように目を瞑った。
「大丈夫だよ」
目を閉じ、心を鎮めていた睡蓮の耳に、ゆったりとした声が届いた。睡蓮はゆっくりと目を開け、顔を上げる。
睡蓮が鋭く睨んでも、陽はのんびりとした様子で、その眼差しを受け止めた。
「大丈夫、いつもの睡蓮くんだよ」
「……お前が僕の何を知ってるんだ」
「おれが知ってる睡蓮くんはねぇ、頭が良くて強くて凛々しくて、芙蓉くんの大事な、自慢のお兄さんで……」
少し目を丸くした睡蓮の目が合い、陽は少し考える。それから、にっこりと微笑んだ。
「威張りんぼうで、怒りんぼうないじめっ子」
「ああ?」
「兄さん! もう! すぐ怒るんだから!」
睡蓮は思わず陽の胸倉を掴んでいた。によによ、と笑みを浮かべているのがまた腹立たしい。すぐに芙蓉に叱られて、睡蓮は仕方なく手を離した。
その時、コツコツ、と、扉を叩く音が響いた。
近くにいた陽が扉に手を伸ばす前に、扉が開く。芙蓉と睡蓮がはっと息を飲んだ。
見上げるほどの長身のその人は、ゆっくりと扉を潜り、二人を見下ろした。
冷たく閉ざされた雪の牢獄のように、長く纏う真っ白な髪はその人を――君影ルイを象徴するかのようだ。
同じくらい冷たく暗い青紫色の眼差しからも、ぞっとするほど整った顔立ちからも、何の感情も読み取れない。ただ静かに、鋭く、重く、視線が二人にのしかかる。反射的に、睡蓮が芙蓉の前に立った。
「……す」
「ルイさん」
ルイの薄い唇が開いた瞬間と合わせるように、陽の声が届く。
ルイはその声で初めて、二人以外の存在に気付いたようだった。ゆっくりと振り向いて、陽を視界に捉える。
薄い唇は弧を描き、眼差しを細めていく。いつもより時間をかけて、笑みの形に調整していった。まるで笑顔の作り方を忘れていたかのように。
「……おや、陽くん。こんにちは」
「こんにちはー」
「そんなところで何をしているんですか?」
「お友達の付き添いです」
「……もしかして、また君にご迷惑おかけしてます?」
「いいえ、大丈夫でーす」
陽がにっこりと微笑んで答えるが、ルイは芙蓉と睡蓮に視線を向けた。その眼差しに、睡蓮が身構え、芙蓉がびくりと身体を震わせている。
「芙蓉くん」
睡蓮と芙蓉が陽を見ると、にこりとまた微笑んでいた。
「芙蓉くん、お大事にね」
「……?」
会話の流れにそぐわない言葉に二人は首を傾げていた。
「……芙蓉?」
ふと、二人がルイに目を向けると、ルイもまた、訝し気に目を細めて呟いた。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
陽の言葉の意図に気付いて、芙蓉がはっとしてルイの前に出る。
「ぼ、僕が、|発情期《ヒート》になってしまって……! 陽くんにここまで連れてきてもらったんです……!」
「……お前が?」
芙蓉を見て、ルイがじっと窺うように目を細め、眉を寄せる。
その眼差しに芙蓉は一瞬息が詰まり、肩を揺らした。けれど、目を逸らすことはなく、ルイを見つめ返した。
「兄さんにお薬を持ってきてもらって、少し落ち着きました……ごめんなさい」
「……」
芙蓉は頭を下げて、そのまま視線から逃げるように俯いてしまった。
けれど、ルイの目はじっと細められ、芙蓉に向けられている。ルイの表情からは、笑みが消え失せていた。
俯いていても、疑うような視線に気付いているのだろう。芙蓉は、ぎゅっと睡蓮の手を握りしめて、震えていた。
そのか弱く白い手を、睡蓮はじっと見つめる。
――……怖いくせに。どうして。お前はただ、僕に守られていればいいのに。立ち向かう必要なんてないのに。
睡蓮が顔を上げると、陽が不思議そうにルイを見上げていた。けれど、睡蓮の視線に気付いて、きょとん、と目を丸くする。
それから、また、笑った。
『大丈夫だよ』と、笑った。……気がした。
「……っ」
睡蓮は、芙蓉の手を握り返した。
芙蓉が顔を上げて、不安そうに睡蓮を見つめる。大丈夫だ、と答える代わりに、微笑んで見せた。芙蓉にだけ見せる、優しく、少しぎこちない微笑みだった。
小さく、静かに、深く息を吸い込んで、睡蓮は君影ルイの正面に立った。怯まず、鋭く真っ直ぐ見上げる。
「芙蓉は僕が連れて帰ります。……ご心配お掛けして申し訳ありません」
「……」
ルイが目を細め、少しの間じっと二人と見下ろす。
けれど、またゆっくりと笑みを浮かべると、小さく笑った。
「……そうですか。……睡蓮」
ルイはゆっくりと長い腕を伸ばし、睡蓮に向かって手を差し出した。睡蓮は後ずさりしたくなる衝動に駆られたが、なんとか踏み止まり、受け入れる。
ルイの白く細く長い指先が、まるで睡蓮の両肩をじっくりと包み込むかのように、そして同時に、纏わりつくように撫でていく。
「……本当にお前は弟想いのいい子だ。……いいでしょう。車を呼んであげるから少し待ちなさい」
「……ありがとうございます」
肩を撫でる指先が離れて、睡蓮はほっと息をつく。
その様子を見つめてから、ルイは、くるり、と陽の方へ身体を向けた。
「ところで陽くん」
「はい?」
「その頬の傷、どうなさいました?」
ぎくり、と肩を震わせて、睡蓮は顔を上げた。
陽はきょとん、とした顔でルイを見上げていた。
「……これですかぁ? えーっと……」
「今朝も園芸部の部室が騒がしかったようですけど、何かありました?」
「……っ」
睡蓮は顔を背けた。嫉妬にまみれた惨めで無様な姿も、最上のαが手に入らない現実も見せ付けられた。その証が陽に傷として残っている。
顔を背けて俯く睡蓮と、いつものように含みのある微笑み向けてくるルイを交互に見比べて、陽は不思議そうな顔をしている。けれど、すぐに、にこり、とまた笑った。
「ごめんなさぁい、ルイさん。昨日片づけてる時に、おれが植木鉢割っちゃったんです」
「……おや、それは珍しいですねぇ」
ゆらり、と揺れるように、ルイは陽に近づいた。長い体を屈めて、陽を覗き込む。
「……〝君が〟割ってしまったの?」
ゆったりと目を細めて、大きな口を薄く開いて笑いながら、問いかける。
ルイの広い背を向けられているだけの睡蓮にはその表情は見えなかったが、それでもその甘く、粘度さえ感じるような声音にぞわり、と背中に悪寒が走った。
けれど、間近でそれを向けられているはずの陽は少しの間眺めてから、にこっと微笑んだ。
「そうなんです。お騒がせしてすいませんでしたぁ」
「……ふふ、そうですか。まあ、植木鉢などどうでもいいんですが、大事な君の身体ですから……気をつけてくださいね」
「はぁい」
にこにこと答える陽に合わせるように、ルイもまた微笑みを浮かべている。
「では失礼……。睡蓮、芙蓉、来なさい」
「あっ……は、はい!」
「……」
扉を潜っていくルイの後を、芙蓉が慌てて追う。
「陽くん……本当に、ありがとう」
「いえいえ」
お大事にね、と陽が笑う。
睡蓮はその様子をじっと睨んでいたが、やがて疲れたように視線をそらすと、芙蓉とともにルイの後を追った。
***
迎えの車は、正門ではなく裏手側に停まっていた。
周囲には生徒や教員の姿はほとんどない。
寡黙な運転手が、睡蓮と芙蓉の為にドアを開けて待っているだけだ。
「睡蓮」
芙蓉を先に乗せた後、ルイが睡蓮を呼んだ。
普段は舌が何枚あるのかわからないほど饒舌な男が、保健室を出てから一度も言葉を発しなかったことに違和感があったが、声を聞いたところで気持ちが晴れるわけでもない。
睡蓮は気付かれても構わない、と露骨にため息をついて振り向く。
鬱陶しそうな睡蓮の鋭い眼差しを、ルイはいつものうすら寒い笑顔で受け止めた。
「……今回は陽くんの優しさに免じて、見逃してあげよう。でも、これで少しは理解できただろう?」
「お前では到底」
「……失礼します」
ぬるりと纏わりつくような声を振り払い、睡蓮は車に乗り込んだ。
寡黙な運転手は、芙蓉と睡蓮が乗り込んだことを確認するとルイに一礼してドアを閉める。
車内からルイを見ても、ゆったりとした笑みを浮かべていた。
ゆっくりと、車が動き出し視界から消えていく。
『お前では到底――』
――……言われなくても、わかっている
ルイの言葉はいつも、いつまでも纏わりつき、離れない。それは睡蓮を蝕んで、心を擦り減らしてきた。
けれど、今はもう、以前ほど怒りを感じない。
『大丈夫だよ』
暖かく、柔らかい声が
陽だまりの香りとぬくもりと共に、微かに残っていた。
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