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22話 悪童2人とお転婆仔兎

 穏やかな空気に水を差したのは、耳障りな罵声を響かせる訪問者だった。  鉄製の門を力任せに蹴り飛ばしたか、殴ったかするような音が、丘の上にある花園まで微かに響いた。その音がしばらく続くことから、気のせいではないことが明らかだった。   「なんだろう? お客さんかなぁ?」 「……だとしたら、随分と礼儀のなってない客だな」    ぽやん、と首を傾げる陽とは対照的に、睡蓮の眼差しは鋭く、音の方向を睨む。  三人はすぐに丘を駆け下りていった。    ***    門の近くで怒鳴り散らしていたのは、西校舎の生徒だった。同じく西校舎の制服を着た数名が距離を置いて立っているのも確認できる。  睡蓮はその男たちを一瞥して気付いた。その男は先日、発作に苦しむ睡蓮に真っ先に手を伸ばし、捕らえようとしたαの男だった。  男は睡蓮たちが降りてきたことに気付くと、先頭に立つ睡蓮を見て、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。   「〝芙蓉〟! この間の続きをしようぜ!」    男の欲望を剥き出しにした笑みとαの凶暴性を示すかのような鈍い光に、睡蓮は露骨に顔を顰めた。   「……礼儀知らずが……。同じ西校舎の生徒とは思いたくないな」 「あ……? ……睡蓮……か?」    男は驚いた表情を浮かべ、制服と睡蓮の顔を見比べて首を傾げていた。違和感を覚えたのかもしれないが、先日の本能に支配された記憶では、あの時の芙蓉が睡蓮であることは見抜けなかったようだ。    睡蓮の後ろから、芙蓉と陽がトンネルを抜けて出てくるとそちらに視線が集まった。  男の周りにいた生徒たちが、ああ、Ωだ、と色めきだつのがわかった。それでも睡蓮の存在があるせいか、先日のように迂闊に近づいてくることはなかった。  けれど、αの男は違うようだ。   「芙蓉、てめえ! 何度も何度もこの俺が相手してやろうってのに、逃げやがって! 今度は大人しくついてこいよ!」    可愛がってやるからさ! と欲望を剥き出しにして、男が芙蓉に近づこうとする。しかし、小さく震える芙蓉の前に、睡蓮が立ち塞がった。   「鼻息を荒らげて、まるで獣のようだな。……いや、獣達に失礼か。理性と知性を性欲に溶かされて、自分の身も顧みれない人間など、獣以下だ。恥を知れ」 「ああ?! てめぇには関係ねえだろ! 俺が呼んでんのは芙蓉だよ! なあ、おい!」    芙蓉がぎゅっと身を守るように自分を抱き締め、視線を逸らす。それを拒絶と受け取ったαの男はさらに顔を真っ赤にして、血走った目で芙蓉を睨んだ。   「てめえ……さんざん煽っておいて、Ωのくせに逃げてんじゃねぇ!」    男が口にしたその言葉に、睡蓮は先日の出来事を思い出して嫌悪と憎悪が込み上げてきた。  男がΩに向ける暴力的な眼差しや言葉は、睡蓮自身も他のΩに向けていた。今更、償えるとは思わない。  けれど、今の睡蓮にもはや許容できるものではなかった。矛先が愛する弟ならば、尚更だ。   「……そこまで言うなら、僕が相手をしてやろうか?」 「ああ?!」 「αでありながらΩの一人もままならない。その程度の男が芙蓉に近付こうなど……身の程を教えてやろう、と言っているんだ」    男は睡蓮の挑発的な言葉にギリ、と牙を覗かせた。それなりの体格の男だ。成長に見合った牙だが、睡蓮が怯むことはない。  しかし男は、にやり、と笑った。   「面白え……。てめえのことは前から気に入らなかったんだ! この際芙蓉でもお前でもどっちでもいい。その綺麗な顔ぐちゃぐちゃにしてやる」    男が睡蓮のことを知らないわけはなかった。今までどれだけの人間がその性別を超えた美貌に惹かれ、不用意に近づき、返り討ちにあってきたかということも、当然知っているだろう。  しかし、人数が多い分、男にも少し余裕があるらしい。芙蓉に向けていた剥き出しの情欲を、睡蓮へと矛先を変えた。    睡蓮はたかが数名を一人で相手をすることに躊躇はなかった。  ただ芙蓉と陽をこれ以上巻き込むわけにはいかない。睡蓮の最後の意地だ。自分だけで片付けたい問題だった。  僅かに不安を感じたが、睡蓮はおくびにも出さずに男を睨みつけ、陽や芙蓉を巻き込まないように2人の前に立った。    ……はずだったが、睡蓮がはっと気づいた時には陽は男に近づいていた。そしてその存在に男が気付くより先に、手に持っていたバケツの水を、男目掛けてぶちまけた。   「ぶあっ!? は!? な、なん……!?」 「こんにちは」    突然のことに目を丸くして呆然としている男に、陽は丁寧に挨拶をした。バケツを持ったまま、ニコリと微笑んでいる。   「今、睡蓮くんとお話してたのおれです。邪魔しないでください」 「は?!」    陽が門を指差し、「お引取りくださぁい」と続けると、我に返った男はワナワナと怒りに震えて、陽を睨みつけた。   「ああ?! またてめぇか!? 昨日も今日も邪魔しやがって! 引っ込んでろ!!」    男は叫ぶと、怒りに任せて陽を殴った。陽の小さな身体は簡単に吹っ飛び、地面に転がっていく。  睡蓮がそれを目で追ったのは一瞬だった。次の瞬間には、燃え上がるような怒りが全身を駆け抜けた。   「貴様!!」 「待って、睡蓮くん……!」    睡蓮は男に向かって拳を振り上げるが、その手を掴む手に阻まれる。  睡蓮の腕を抱えるようにぎゅっと抱き締めていたのは陽だった。唇の端から血が滲み、目元には擦り傷ができている。   「貴様、ここまでされて黙ってるのか?! お人好しも大概に…っ」 「いいの」    傷を負った顔で、陽が微笑む。  睡蓮はその慈悲深い微笑みを前に、腕を振りほどくことなどもうできなかった。  奥歯を食いしばり、男たちを睨む。しかし、拳は陽の小さく柔らかな手に包まれていた。悔しげに赤煉瓦の敷き詰められた地面に視線を落とす。拳を収めようと、ゆっくりと力を抜いていった。   「〝睡蓮くんは〟下がってていい」    陽の言葉に、睡蓮くんは「……ん?」と首を傾げた。     「たった今、おれの喧嘩になりました」 「は……?」 「とぉ!」    掛け声とともに、陽が睡蓮の腕をぎゅっと抱き締めた手を放し、睡蓮の前へとぴょーん、と飛び出した。  一瞬後に、ゴヅッという鈍い音と、「ぐあっ」という呻き声が響く。男の身体は脆くも膝から崩れ落ちていった。  両手をついて、倒れることは避けたが、顔を抑えて「う、おぉぉ……!」と痛みに耐えている。    君影ルイとの会話が睡蓮に頭の中を駆け巡った。   『あの子はね、愛らしくて、歪みがない。健気で大人しく、純粋培養。清く正しい愛情をたっぷり注がれて育った、まだ穢れなき赤子のような、尊い子。    ……〝ややお転婆〟なのが玉に瑕だが……。    だからこそ愛される。慈しみ、大切にされる。  お前がいくら見目麗しく、狡猾で、淫靡でも……あの子には到底――』      どっ……どこがだ――!!?      回想の途中で、睡蓮は思わず心の片隅で絶叫した。    ――何が『ややお転婆』だ?! お転婆で済むのかこれが! あの男の目は節穴か?! ネチネチと偉そうに語っておいて、何もわかってないのはお前では?!    陽の渾身の頭突きは、男の鼻か歯に当たったのだろう。赤く染まった陽の額からたらり、と血が流れていた。  しかし、陽は両腕を腰にあて、フンッと小さく薄っぺらい胸を張っている。堂々と仁王立ちする姿は、『ややお転婆』などという言葉に収まる気などさらさらない。  仔兎のようだと侮っていた男の勇ましい姿を、睡蓮は呆然と見つめていた。    すると、遠くから猛スピードで迫る音と声に気がついた。   「待て! おい…ッ…やめろ!!」    校舎から、息を切らして走ってくる八千代の姿が見える。しかし、彼よりも先に、男たちに飛びかかってきたのは、   「まて、ちょっ、ストッ……雲雀!!」    八千代の叫びと同時に、前を走っていた雲雀が舞う。走ってきた勢いを拳に乗せて殴り掛かった。  陽の頭突きから立ち直りかけたばかりなのに、雲雀の拳を顔面で受け止めることになった男は「ブヘェッ」と妙な呻き声を残して倒れた。  それでもなお、倒れることなど許さない、とでもいうように、雲雀は容赦なく男の胸倉を掴んで無理矢理起こす。   「誰の顔に血ぃ流させてんだてめぇ!!!」 「雲雀ィ! 落ち着け! 死んじゃう!」    ようやく追いついた八千代が雲雀を羽交い締めにするが、それでも雲雀は止まらない。八千代の声など聞こえていないようだ。  美しい眼差しは爆炎のように燃え、形の良い眉がつり上がる。抑える気もない怒りを相手にぶつけている。  後から駆けてきた颯は陽をギュッと抱きしめて、庇っているようだった。しかし、庇うというよりはむしろ、兄に怯えて震えているようにも見えなくもない。    その光景を、睡蓮は静かに見つめていた。    ――なんだこいつ……腑抜けになったかと思ったが……変わらないじゃないか……。    ああ、でも、雲雀はこういう男だった、と睡蓮は思い出した。  そして、突然、気がついた。    ――……ああ、そうか。変わらなくてもいいのか。   「……ふふっ」    睡蓮は嬉しそうに笑った。   「に、兄さん?」 「……お前は下がっていろ」    睡蓮は芙蓉を下がらせると、正面から殴りかかってきた男を、優雅な動きで交わして見せる。交わすのみならず、足をかけて、バランスを崩した男の、少し低くなった顎に向かって長い脚を蹴り上げる。   「いでぇ……ッぐ、えっ?!」    睡蓮は倒れた男の頭を踏みつけて、残りの取り巻きたちを見回した。  彼の眼差しは鋭く、不敵な微笑みが口元を彩っていた。その美しさは、見る者を魅了し、息をのむほどだった。   「……頭が高いな。僕を誰だと思っている?」    冷たい高慢さが彼の声に宿り、自信に満ちた表情が顔に浮かんだ。    『また強い自分(睡蓮くん)になれる』    ――ああ、そうさ。これが僕だ。    何もかも許す必要はない。受け入れることもない。  降りかかる火の粉は、後悔させるほどに振り払うまで。        雲雀と睡蓮による一方的な大乱闘が続く中、茶々丸と颯を筆頭とした八千代組は少し離れて安全を確保し、陽と芙蓉を背にして守るように前に立った。八千代組の面々は両手に拳を握り、我らが大将に声援を送る。   「八千代さん頑張って!」 「二人を止めてください!」 「こ、この悪童二匹を同時にィ?!」    無茶言うな!! と怒鳴りながら、八千代は大乱闘の中へとその身を投じていった。

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