37 / 46

23話-2 理事長とお転婆仔兎

 一番に駆け戻った雲雀は扉の側で身を屈め、部屋の中の声を聞こうと耳を澄ます。  だが、ほぼ同時に到着した睡蓮が同じ行動を取っているのに気付いて、露骨に表情を歪めた。   「……は? なんでてめぇまでいんだよ」 「お前には関係ない」 「あるだろ。俺の陽なんだから」 「うわぁ、言ったよこいつ」    後ろから八千代が小声で嫌そうに呟いたが、睡蓮と雲雀はなおも睨み合う。   「さっさ帰れよ。〝パパ〟にまた怒られるぞ」 「知ったことか。お前こそ大人しく帰れ、猫被り」 「は?」 「あ?」 「ねえ嘘でしょ? フツーこんな時まで喧嘩する? 一周回って仲良いんじゃないすか?」    呆れたように呟いた茶々丸は八千代の側でしゃがんでいる。二人が殺気立った様子で茶々丸を睨むが、部屋からの物音でハッとして口を閉ざし、意識を集中した。  雲雀が威圧するように睡蓮を睨む。   「……いいか? 絶対邪魔すんなよ」 「……わかっている」 「……?」    言い返すわけでもなく、憎まれ口を叩くわけでもなく、素直に睡蓮が頷く。雲雀はその姿にまた違和感を覚えて首を傾げたが、すぐに扉の向こうのやり取りに耳を傾けた。    一方睡蓮は、君影の言葉を思い返していた。   『あの子はね、愛らしくて、歪みがない。健気で大人しく、純粋培養。清く正しい愛情をたっぷり注がれて育った、まだ穢れなき赤子のような、尊い子。……〝ややお転婆〟なのが玉に瑕だが……。』    君影は確かにそう言っていた。    ――どういう関係なんだ?『お気に入り』などと言われているが、……君影のような男が友人の孫だからといって特別な扱いをするか……?    睡蓮は桃ノ木陽が心配なのではない。  桃ノ木陽に何かあれば、最愛の弟芙蓉が悲しむ。  だから、君影の意図を確認しておく必要があるのだ、と睡蓮は己に言い聞かせた。       『……はぁーもう』    最初に聞こえたのは、君影の声だ。   『せっかくの可愛いお顔に、なんてことを……。もっとよく考えて行動なさいといつも言っているでしょう?』 『ごめんなさぁい』    優美で気品で塗り固めたような彼らしからぬ、ため息混じりの声は、心底呆れ返っているようだった。幼い子供に言い聞かせるような君影の言葉の後、陽の間延びした声がゆったり響く。   『でもね、ルイさん。おれはよく考えました。よーく考えて、あ、この喧嘩は買うしかないな、と!』 『はあ、そうですか。君の実行力と決断力には驚かされるばかりです』 『ありがとうございます!』 『褒めてないんですよ?』 『?』    ここからは見えないが、薄い胸を張って堂々としているだろう陽の元気な声の後、君影のため息混じりの声が続いた。    扉の外にいた彼らは、困惑した様子で顔を見合わせた。   「どんな会話だよ……」 「俺もそう思う」    八千代の至極真っ当な感想に、雲雀も頷いた。雲雀は一度、君影と陽の二人の会話を聞いたことがあるが、やはりどこかすれ違っていたのを思い出した。あの時だけではなく、いつもそうなのかもしれない。  しかし、君影のため息が止まらないことからも、彼とてこの会話内容に満足していないだろうことは容易に想像できた。   『……君ねぇ』    君影は深いため息の後、呆れたような声で続けた。   『そうやってご自分のか弱さを省みずに事に及んだ結果、入学が遅れたんでしょう? 忘れたんですか? 春も近いとはいえ、まだ肌寒い時期に、雨の中、川を流されていく猫を見つけて飛び込んで、風邪を引いて、拗らせて、入院するなんて、耳を疑いましたよ』    君影に同情じみた感情を抱いていた彼らは、ハッとして顔を上げた。   「そんなことを……」 「あいつが……?」   「……」   「……まあ、やるだろ」 「やるんでしょうねぇ、陽くん……」    すでに桃ノ木陽という男をよく知っている彼らには、「とぉ!」と迷いなく川へ飛び込む陽の姿が鮮明に想像できてしまった。   『でもあれは、実に美しい、見事な飛び込みだったと月詠ちゃんに絶賛されたんですよ?』 『だからなんですか? 君たち双子はどうしてそうやってお互いを全肯定してしまうんです?』 『仲良く支え合って生きてきました! これからも頑張ります!』 『……はぁ……』    君影から諦めに近いため息が溢れた。   『……陽くん、君はもっとご自分の立場を自覚なさい』 『立場?』 『そうですよ』    ゆっくりと言い聞かせるように、君影は続けた。   『君は日本有数の古くからの名家、桃ノ木家の長男で、αよりも更に希少なΩの個体。いずれは優秀なαの子を宿すという”使命がある”。大事な器です』 『……』 『それに、その不運な猫は君の飼い猫というわけでも何でもなかったんでしょう? 命懸けで救うほどの価値などありましたか? いつどこで野垂れ死ぬかわからない、何の役にも立たない、ちっぽけな存在に』    君影の声は静かなものだったが、雲雀と八千代、茶々丸の3人は身体を強張らせる。    ――なんだ……? 何か様子が……?    睡蓮には慣れた気配だったが、冷気にも似た不穏な空気が、部屋の外にまで漏れ出ているようにさえ感じられた。   『……価値、ですかぁ』    しばらく黙っていた陽がぽつりと呟く。   『ご理解いただけました?』 『……うーん』    小さく呻って、陽は考え込んでいるようだった。  君影の放つ冷たい威圧感の影響で、外の四人には沈黙が重く感じられた。   『……わかんない。けど』 『けど?』 『そんなこと言うなら、その猫ちゃんが産んだ仔猫ちゃん3匹のきゃわいい動画、見せませんからね』 『……』    陽は、少し拗ねたような口調で反論した。君影からの返事はない。  陽はさらに続けた。   『キジトラ、サバトラ、茶トラでみんな色違うのに、靴下は真っ白なの。お揃いなの。お母さんに似たの。その子たちがお母さんの後を3匹並んで歩いていくんです』 『……』 『今の発言を撤回してくれなきゃ見せませんからね。いいんですか?』 『……』 『お母さんはおれが座ると、仔猫ちゃん一匹ずつ咥えて持ってきて、お膝に置くんです。紹介してくれるんです。おれが歩くとついてくるの。お母さんと3匹が。見たくないですか?』    いいんですか? 見せませんよ? と陽が畳み掛ける。それが取引の材料になると信じて疑わない、生意気で強気な口調だ。  それでも、君影からの返事はない  しかし、少しして、はあ……、とまたため息を零した。   『……わかりました、撤回しましょう』     「撤回すんのかよ」 「なんすか、今の間。紛らわしいなーもう!」 「……」    君影の諦めに近いため息と共に、緊迫感はかき消えた。睡蓮以外は少しホッとした様子だ。ただ、睡蓮は緊張を解くことはできなかった。  じっと扉越しに睨んでいると、「さあ」と君影の声がよく響いて、二人は立ち上がった音がした。   『遅くなるといけませんね。今日はお帰りなさい』 『はーい』    二人が扉へと近づく気配に、4人は慌てて扉から離れた。  しかし。   「……陽くん」    やけに近くから聞こえた声の持ち主は、扉のすぐ側にいるのだろう。同時に、ぎしり、と扉が軋んだ。  扉の曇りガラスの窓には、長い指先、青白く大きな手がピタリと押し当てられているのが見える。  その奥には大きく長い影があって、扉と影の間で挟まれている小さな姿は、間違いなく陽だった。   「……君が来てから、何やら学園が騒がしいようだ。お優しい君のことだから、平穏を乱すのは本意ではないでしょう?  大人しく、いい子にしてなさい。あまり私の手を煩わせないでほしいな。  私は何もできない赤子のようにか弱い君が好きですよ」    ――? な、なんだ……?    睡蓮は、ぞわりと背筋に冷たいものが走る感覚に身体を強張らせた。  ねっとりと甘い声は、優しく穏やかに響いているというのに、這い寄る蛇を思わせた。   「君はただ、愛らしく美しくあればいい。愛でられる為だけに、在ればいい」    静まり返った空気に、ハッと我に返ったのは睡蓮だった。    ――なんだ今の……〝お気に入り〟じゃなかったのか?    それは敵意に近い、攻撃的な意志や呪いが込められていた。    けれど陽は「んー……」とまたゆったりと考え込む仕草を見せた。  小さな影が首を傾げて、ぱっと戻る。   「考えておきまぁす!」    元気よく答える陽に、また部屋の中から、はぁ、と小さなため息がこぼれていった。

ともだちにシェアしよう!