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26話 春の訪れを告げるのは、

 当時、桃ノ木家長男、桃ノ木陽5歳。    その頃の陽は、同じ年に生まれた菖蒲堂家長男、菖蒲堂雲雀と仲睦まじく暮らしていた。  陽の母桜花、雲雀の父鶫は兄妹のように育ち、雲雀の母美鈴もまた、桜花とは中等部より親睦を育んできた親友同士であった。  その子どもである陽、月詠、そして雲雀もまた、兄弟同然にひとつ屋根の下で暮らしていた。    やや成長がゆるやかな陽はいつでもにこにこと笑っており、それはそれは愛らしく、一方、雲雀もまた、幼いながらに凛々しい顔立ちで、賢く、少し生意気な子どもだった。  対照的な二人ではあったが、小さな手と手を取り合い、片時も離れない姿は、親戚一同の心を癒したという。    そんな穏やかな日々の中で、一つだけ懸念があった。    ある日から、雲雀が陽の白くぷにぷにとした腕やまるいほっぺたに噛み付くようになったのだ。  それは甘噛みと言われる程度のもので、陽が痛がったり嫌がったりする素振りはなく、残るのはよだれの跡のみというようなものであったが。  その日もまた、雲雀は陽の腕を、かみかみ、あぐあぐ、と噛んでいた。   「……こら、雲雀。やめなさい」    雲雀もまた無意識だったのか、父の声にはっとして、噛むのを止める。陽に「ごめんね、だいじょうぶ?」と謝って、噛んでしまった箇所を丁寧に拭いて、よしよし、と撫でる。陽はぽやぽやとしていたが、噛まれている最中は『すきなだけかむがいいのよ……』と慈悲深く微笑み、なすがままだった。   「んー……」    二人の両親が揃って、首を傾げる。   「まだ性別わからないけど、これは……キュートアグレッション……かも……?」    鶫が呟いた「キュートアグレッション」とは、α性を持つ者が好意を寄せている相手が可愛くて可愛くて食べてしまうという衝動だった。まだ第二性が判明する前のα幼少期でも稀に起こるとされている。    しばらくは様子を見ていた彼らだったが、問題が起きてしまう。  陽に他の子が近づくと、雲雀が駆け寄って追い返すようになったのだ。陽が大きなうさぎのぬいぐるみを買おうと抱きしめた時も、雲雀は急いで駆け寄ってきて、ぬいぐるみを放り投げ、陽に抱き着いた。「おれがいるだろ!」とぎゅっと抱きしめて、叫んだ。  陽はきょとん、と目を丸くした後に、にこっ、と微笑むと、雲雀を撫でた。    それがまた、両親たちを悩ませる。   「この子たちがやがて結ばれるというのなら、もちろん祝福する。……けれど、これは良くない」    日に日にエスカレートしていく雲雀の衝動と、それをすべて受け入れてしまう陽に、危機感を覚えたのは鶫だった。   「雲雀はこのまま成長したら陽くん独り占めにして監禁しかねない。陽くんは雲雀が何をしていてもされるがままだ。このままだと本当に雲雀がいないと何もできない子になってしまう」    αによる犯罪の多くは、Ωに対する異常な執着によるものが多い。そして、彼らに共通するのは、幼い頃から衝動や予兆があったということだった。  数日に渡る話し合いの末、彼らは苦渋の決断をした。   「この子たちを、離そう」        二人っきりのまま世界が閉じてしまう前に、もっと広く、もっと多くの人や世界と関われるように。  お互いだけが世界のすべてではないと、知ってくれるように。  それはきっと、いつか再会した時に、正しく二人を導いてくれるはずだと信じて。          ――おれがもっと雲雀みたいに強くて勇敢だったら。    幼馴染との突然の別れに、泣いて過ごしていた陽だったが、新たに歩み始める。  もう一度正しく出会ってやり直すために。    一方雲雀は、最愛の陽と離され、もう会えないかもしれないという絶望から、三日三晩熱で寝込んだという。  しかし、四日目の朝、回復した雲雀は陽のことを覚えていないようだった。  微かに残る記憶も、すべて夢だったのだとでもいうように、思い出は色褪せていく。    ただ、色鮮やかに広がっていく彼の世界の中で、そこだけはいつまでも埋まらず、空白のまま。  たった一人の、運命を待っていた。        幼き日の恋心は、静かに眠る。  12年後の再会を夢見て。

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