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第11話 不安しかないんですけど。

 次の日、祐輔は尻の違和感が拭えず、始業ギリギリの時間に出社した。それでも世間は思ったより自分に無関心で、ホッとして席に着く。 「おはようございます。何だか調子悪そうですけど……大丈夫ですか?」  声を掛けてきたのは鶴田だ。祐輔は曖昧に笑って誤魔化すと、鶴田はさらに身を乗り出してくる。 「無理しないでください。あ、そうだ……」  彼女は思い出したように自分のカバンを探り、中から栄養ドリンクを出して、祐輔の机の上に置いた。 「これ良かったら。あと、ダメそうなら言ってください、家まで送ります」  そう言った鶴田の表情は心配そうだ。気遣いに感謝しようとその小さな瓶を受け取ると、蓮香がこちらを見ていることに気付く。  何の感情も乗せない蓮香の顔は怖く、祐輔はそれを直ぐに自分のカバンにしまった。 「ありがとうございます、鶴田さん。本当にダメなら言いますね」  助かります、と笑顔を向けると、鶴田はまだ疑いの目を向けていたが、すぐに自分の机に向き直る。  祐輔は蓮香を睨む。このくらいで嫉妬してるんじゃない、と視線に恨みを込めて、仕事に取り掛かった。 ◇◇ 「あの、桃澤課長」  しばらくして、また声を掛けられたので顔を上げると、商品開発部の女性社員がいる。どうしたんですか? と聞くと困った顔で彼女は言った。 「近藤部長って、まだ出社してないです?」 「え?」  そういえば、と祐輔は営業部を見渡した。営業部はさすがに、もう外出していてほとんどいない。近くの社員に聞いてみても、見ていない、と返ってきた。 (まさか、もう筧部長が言ってたことが……)  そんなことを考えていると、その女性社員は苦笑しながらも、急ぎじゃないので大丈夫です、と言って去っていく。その先に筧がいて、こちらを見て小さく手招きしていた。  やっぱり、と祐輔は席を立ち上がる。筧に促されて会議室に入り、最近会議室にばかりいるな、と思う。 「近藤部長は、先程今日付けで自主退職したよ」  思った通りの話をされて、祐輔は短く息を吐いた。自主退職ということは、近藤自身は大事にしたくないと思ったらしい。  筧はふーっと息を吐いて、両手で顔を拭くような仕草をする。 「長年一緒に仕事をしてきた人を、疑いたくなかったな……でも、さっき聞いてみたら、逮捕するなら退職してからにしてくれと……」  祐輔は息を詰める。具体的な内容は聞いていないけれど、やはり警察が動くような事が起きていたらしい。  筧は疲れた様子で椅子に座り、背もたれに身体を預けた。  筧が言うには、話をした時にしらを切るようなら、警察のタイミングで逮捕になったそうだ。けれどそうしなかったのは、会社にこれ以上迷惑を掛けられない、という心が近藤にまだあったのかな、と彼は苦笑する。 「という訳で、来月から桃澤は人事課長だ。営業企画部は鶴田に主任をお願いする」 「……はい」  これで祐輔は、蓮香と違う部署になることが決定したのだ。もう少し、彼が仕事に慣れるまで見ていたかったな、というのが本音だけれど。それに、鶴田と笹川のこともある、中途半端に投げ出した感は否めない。 「まあ、いずれは桃澤を総務部に、という計画だったんだ。それが早まっただけだ……」  そういう筧も悔しいのだろう。人が十分に育つまで見てあげられないことを。そう考えると、筧と祐輔は人に対しての接し方や考え方が似ている。  そのあと、筧に缶コーヒーを奢ってもらい、ゆっくり今後の人事計画についての話を聞いた。鶴田には筧から話をするようで、早速今日から人事課の仕事を覚えるように、と指示される。  めちゃくちゃな指示だけれど、それだけ近藤の抜けた穴が大きいということだ。なぜ彼が犯罪に手を染めてしまったのか、考えても仕方のないことだけれど、少し恨めしい気持ちはある。  筧との話が終わり、デスクに戻ると何やら営業部が不穏な空気に包まれていた。慌てたような鶴田が駆け寄ってきて、二人を止めてください、と言う。  二人って誰だ、と見たら、不穏な空気の中心は蓮香と笹川だった。鶴田に絡めない笹川がイライラして、蓮香に当たったらしい。 (あーもう、蓮香も正直だから……)  大方蓮香が正面から、鶴田に絡むのを止めろ、とか言ったのだろう。そう思うのは、笹川が「もう一回言ってみろ」とすごんでいたからだ。  祐輔はすかさず間に入る。 「どうしたんです? そんなに大声で……」 「おい、営業企画課の人間は一体どうなってるんだ?」 「……と、申しますと?」 「顧客情報が足りないだろうから、親切に教えてやろうって言ってんのに、こいつが要らないとか言って……鶴田に言い寄るのは止めろとか、訳分からないことを……!」  祐輔は内心頭を抱えた。相手が逆上してしまえば、話し合いもできなくなる。本当に蓮香は、真正面からぶつかることしかできないらしい。 「大体逆だ、鶴田が俺に色目使ってんだ。だから俺は仕方なく……」 「はいはい! 仕事中ですので色目どうのこうのは今は置いておいて。顧客情報の追加があるんですね? ではそれを私にください」  あくまで自分が上位に立ち、恩着せがましくしたい笹川の意図を、祐輔はスルーする。こちらは一応立場的に上なので、笹川はブツブツ嫌味を言いながら、顧客カードを渡してきた。 「あれ? 入力したデータではないんです?」 「俺は忙しいんで、入力する暇がないんだ。言う通りにしたんだから黙って受け取れよ、桃澤課長」  ふん、と鼻息を出して、笹川は「行ってきます!」とオフィスを出て行く。これはもしかして、と祐輔は鶴田に尋ねてみた。 「笹川さん、パソコン使えないんですかね?」 「ええ。どんなデータも情報も、手書きで渡してきて『入力しておけ』と言われます」  そもそも、そういう事務は営業事務に頼めばいいのだが、笹川はわざわざ鶴田に持ってくるらしい。 (鶴田さんに絡みたい九割、入力が面倒一割かな……)  どちらにせよ、本来の業務でないことをやらされるのは問題だ。鶴田はできないと突っぱねたり、そっと営業事務に渡したりしているらしいが、それも要らぬ手間だろう。 (これ、俺が総務部に異動して、大丈夫なのか?)  そんな不安を覚えつつ、祐輔は蓮香を呼ぶ。 「オフィス内で喧嘩始める気ですか? 真正面からぶつかっては、ああいうのは反発するだけですよ」  できるだけ穏やかにそう言うと、それでも蓮香は不満だったらしく、不機嫌そうに視線を逸らした。 「……ああいうの、俺は大嫌いなんで」 「だからって、騒いでは周りのひとの仕事の妨げになります」 「桃澤課長、ありがとうございます。私は大丈夫ですから」  鶴田が割って入ってきた。そっと腕を彼女に触られたが、その瞬間、蓮香がこちらを睨んだのを、祐輔は見てしまう。 「そうですか……それなら良かったです」  そう言って話を終わらせると、それぞれまた仕事に戻った。  ただ、蓮香はまだ何か言いたそうにしていたけれど、祐輔はあえてスルーする。もう職場でバレるようなことはしたくないし、この程度でいちいち怒られていては、女性と話すこともままならない。 (……異動、不安しかないな……)  そう思って、祐輔は深いため息をついた。

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