2 / 6
第2話
「落ち着くんだ、赤駿!」
言ったところで馬が人語を理解するはずもない。こういう時、獣語の通訳である貉隷(らくれい)ならば馬と意思の疎通ができるのにと思いつつ、リーレンは再び手綱を引いた。だが、赤駿は後ろ足を蹴り上げて背に乗っているリーレンを振り落とそうとするばかりだ。
「まずい……」
このままでは確実に落馬してしまうだろう。暴れ馬から振り落とされて無事で済むわけがない。落とされる際に後ろ脚で蹴り上げられるか、さもなくば地面に落ちた途端に踏みつけられるかのどちらかだ。そうならなくても、疾走する馬から落ちれば間違いなく大怪我をする。
どうしたものかと思いつつ必死で赤駿を鎮めようとしていると、ふと前方に人影が見えた。赤駿は暴れながら真っ直ぐにその人物のいる方向に向かって走っていく。
「危ないッ!」
叫んだものの、そうしたところで赤駿が止まるはずもない。
進行方向に立っているのは若い男のようだった。男はその場から動こうともせずに狂ったように暴れる馬をじっと見ている。
このままでは赤駿があの人を弾き飛ばしてしまう――。
リーレンが思ったその時、男が叫んだ。
「手綱の片側を引け! 馬の首を横に向けるんだ!」
訳がわからないままリーレンは男の言葉通り右の手綱を引いた。馬首が右に逸れると、一瞬赤駿の動きが鈍くなる。
「次は左を引け! 左右何回か繰り返すんだ!」
男に言われるままリーレンは左の手綱を引き、直後にまた右側を引いた。立て続けに首を左右に振られた赤駿の歩調がわずかに緩む。次の瞬間、駆け寄ってきた男は赤駿の手綱を無造作に掴んだ。
「手綱から手を放せ!」
言われるままリーレンが手綱から手を放すと、赤駿が再び後ろ脚を蹴り上げる。ふわりと浮くような感覚がすると同時に、視界が傾いだ。見えるはずのない空が目に入り、リーレンは自分の体が宙に放り出されたのだとわかった。
落ちる――!
このまま地面に叩きつけられると思った瞬間、腰をぐっと抱き寄せられた。体を打ちつけられる痛みは一向に訪れず、代わりに背と腰に回された力強い腕がリーレンの体を強く抱き締める。
「大丈夫か?」
ふいに耳元で囁かれ驚いて顔を上げた。
「え……?」
目に飛び込んできたのは、蛍石のような透明感のある青い瞳だった。その薄青色の双眸がリーレンの顔を覗き込んでいる。
リーレンはぽかんとした表情で男を見上げた。
変わった目の色もさることながら、男の髪は雪山のように真っ白で、どう見ても中原に住む者の風貌とは思えない。いや、背格好や顔立ちは中原の人間のものなのだが、髪の色と目の色が明らかに違うのだ。
しかも、なぜかリーレンはこの男に見覚えがある気がした。こんなにも変わった色の髪と目をしているのだからどこかで会っていればかなり印象に残っているはずなのに、男とどこで会ったのかちっとも思い出せない。何より男の目を見ていると、体の芯が震えるような錯覚に囚われた。
自分は間違いなくこの男を知っている。ずっと……ずっと昔から――。
「大丈夫か? 怪我は?」
もう一度尋ねられ、リーレンははたと我に返った。どうやら地面に叩きつけられる寸前にこの男に抱き留められたらしい。いったいどれほどの膂力なのか、巨躯とは言い難いにもかかわらず男はリーレンを軽々と抱き上げていた。
それよりも、自分がすがりつくように男の首に腕を回しているという事実にリーレンは激しく狼狽した。これではまるで恋人同士が抱擁しあっているようではないか。
恋人同士の抱擁と思った瞬間、かっと顔が熱くなった。
十五歳は大人と言える年ではないが、子どもという年でもない。助けてもらっておきながらとは思うのだが、一応いっぱしの男のつもりでいるリーレンにとって、膝の裏と背に腕が回されたままの状態で男に抱かれているのはやはり恥ずかしいものがある。
「あ……あの、下ろしていただけませんか……」
「ああ?」
「わ……私は女人ではないので……その、こういうふうに抱かれているのはちょっと……」
「ん? ああ、そうか。それもそうだな」
苦笑した男が、リーレンを足下からそっと下ろす。ようやく地に足がついたリーレンは、ほっと息をついて正面に立つ男を見上げた。
こうして見てみると男は意外にも背が高くがっしりとしていた。やや開いた襟から見える胸元も、隆々とした筋肉に覆われている。そんな男の姿に、リーレンは自分にはまだ備わっていない『大人の男』を嫌でも感じさせられた。
兵士なのだろうか、男は腰に剣を佩いていた。柄は布で覆われているが、かなり大ぶりで少し変わった文様の鞘に収められている。その文様をどこかで見たような気がするものの、これもまたどこで見たのか思い出せない。
白髪碧眼の男、そして変わった文様の鞘に収められた剣になぜか郷愁のようなものを感じ、リーレンは首を傾げた。
「あの……私はあなたとどこかで会っていないでしょうか?」
ぽつりと言った後、まだ助けてもらった礼を言っていないことに気づき、慌てて言葉を付け足す。
「すみません、その前にお礼を。私はリーレンと申します。助けてくださってありがとうございました」
あえて身分は告げずに名だけを名乗ると、一瞬男が訝るような顔をした。尚の太子だと気づかれたのだろうかとも思ったが、リーレンという名はさほど珍しい名でもない上、こんなところに尚の太子が一人でいるなど誰も思わないだろう。男もそれ以上追及することなく、遠くからとぼとぼと戻ってくる赤駿に向かって手を上げた。
ともだちにシェアしよう!