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第3話

 ようやく落ち着いたのだろう、近づいてきた赤駿が小さく声を上げてリーレンに首をすり寄せてくる。 「背中が痛かったそうだ」  男にそう言われ、リーレンはぽかんとした。 「背中?」 「鞍が傷んでるんだ。背に何かが当たっていて、あんたが乗ったら痛かったらしい」 「えっ?」  驚いたリーレンは慌てて赤駿の背から鞍と下鞍を外す。鞍を見てみると、背に当たる部分の革の糸が解れていて角が出てしまっていた。リーレンが騎乗することでそれが赤駿の背に刺さっていたらしい。 「これが当たって痛かったのか……ごめん、赤駿。気づかなくて悪かった」  詫びるリーレンに、赤駿がまた小さく声を上げる。 「こっちこそ悪かった――だそうだ」  そう言った男をリーレンはまたもや呆然とした面持ちで見やった。  この男は赤駿と――馬と会話をしている。これを会話と言っていいのかどうか悩むところだが、紛れもなく意思の疎通ができているのはわかる。  暴れ馬に駆け寄って手綱を引き、宙に投げ出されたリーレンを難なく受け止めただけでなく、馬と会話をしている。いったいこの男は何者なのだろうか。  そんな疑問が表情に出ていたのだろう。小さく笑った男は、乱れた髪に絡みついていた紐をするりと解いた。  その瞬間、白糸のような長い髪がふわりと風に舞う。まるで薄い絹が空に広げられたかのようで、リーレンはその美しさに思わず目を奪われた。  肩に流れる髪を無造作に払い、男が破顔する。 「ああ、俺は獣人だからな。馬が何を言っているのかくらいわかる。力も中原の人間よりは若干強いんでな」 「獣人……」  ぽつりと呟き、リーレンは男を見つめた。  かつて尚にも獣人はいた。獣語の通訳ができる貉隷という官職があり、獣人が主にその役目に就いていたのだが、今はその職もなくなっている。リーレンが物心ついた頃には、もう獣人の姿を城で見ることはなくなっていた。  獣人だというのならば男の白い髪も青い瞳も納得がいく。だが、男の顔はどう見ても人間のもので、獣の耳もなければ牙も尻尾も生えていなかった。獣人は基本的に人間と同じく二本足で歩行するし、体つきもほぼ人間と変わらない。ただ、首から上が獣状態の者が多く、頭が獣、体が人間という者たちがほとんどだと聞いている。人間に獣の耳や尻尾が生えている半獣もいるが、この男のように髪と目の色だけが人と違っているというのはかなり珍しい部類だろう。人間界ではなく鬼界の住人だと言われても納得してしまいそうになる。  男の顔を相当無遠慮に眺めていたのだろう、乱れた髪を結び直していた男がふいにくすっと笑った。 「獣人が珍しいか?」  心の内を見透かされたように尋ねられ、言葉に詰まる。 「え……? いえ……」  そんなことはないと言いかけ、結局リーレンは素直に「はい」と答えた。 「すみません。尚には獣人がいないので、私も一度も会ったことがなくて。お顔をじろじろと見てしまって失礼しました」 「別に気にしなくていい。人に見られるのは慣れてるからな」  もう一度笑みを浮かべた男は、自分は琅国(ろうこく)の人間だと告げた。  琅は尚の西に位置する南北に長い国だった。尚に並ぶ古い国で獣人が多く住み、歴代の琅王も獣人だ。その王が率いる獣人兵は勇猛果敢と有名だが、基本的に他国に不干渉を貫いていて交流も少なく、謎に満ちた国でもある。男がその琅の民だと知り、リーレンは瞳を輝かせた。 「琅国の方なのですか?」  いきなり前のめりに食いついてきたリーレンに男が驚いたような顔をする。 「……それがどうかしたのか?」 「琅王様は白虎の獣人だと聞いているのですが、本当なのですか?」 「あ……ああ。そうだが――」  だからどうしたと言わんばかりの男に、リーレンは憧れが籠もった眼差しを向けた。 「私は武神月牙将軍を信心しているのですが、月牙将軍は神獣白虎を従えているでしょう? この丘の廟にも将軍と白虎の神像があって、古いものなのですがけっこう良い造りなので私のお気に入りなんです。将軍はもちろんなのですが、特に従えている白虎がとてもいい顔をしていて、それで――」  顔がいい、姿がいい、迫力はあるがよく見ると目元が愛くるしい等、放っておいたらいつまでも白虎の素晴らしさを語っていそうなリーレンの様子に、男がくすっと笑い声を漏らす。 「随分と白虎が好きなんだな」 「ええ、それはもう! でも、月牙将軍の廟は尚にはもうここにしかなくて……」 「今時、月牙将軍の廟が一宇でもある方が珍しいんじゃないのか?」  男にそう言われ、リーレンは肩を落とした。  男の言う通りだった。大昔に天界を追われた神仙を知る者など今はほとんどいない。追われた理由さえも人々は既に忘れてしまっている。日頃からそのことを憤っているリーレンは、思わず柳眉を逆立てた。 「月牙将軍は尚国の始祖王シャオリンを助けて天界を追われたんです。尚国の今があるのは将軍のおかげです。なのに皆はそれを忘れてしまっている……尚国の者が将軍を祀らなければ誰が祀るんでしょう。それに――」 「それに?」  続きを促した男にリーレンはまたもや瞳を輝かせた。 「私は月牙将軍のように昇仙して神仙になりたいんです」 「はぁ? 神仙に?」

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