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第5話

        ◆ ◆ ◆  緩やかな丘を二人と一頭の影が登っていく。その様子を眺めていた男は、ふっと小さく息をついた。 「あの気は間違いないと思ったんだがな……」  ぽつりと呟き、隠形で隠していた姿を再び現す。丘の上に漆黒の影を落とすと、男はまたもや解けかけていた髪の紐を鬱陶しげに外した。白い髪を風になびかせ、丘の向こうに消えていく少年をじっと見つめる。 「俺に気づかないということは、今生もまた記憶がないということか……」  もう一度ついた長いため息には、若干の諦めが込められていた。  あれからもう何年が過ぎただろうか。いい加減数える気も失せてくる。そろそろ潮時なのかと思いつつも、どうしても諦めきれなかった。そんな未練がましい自分がほとほと嫌になってくる。だが、少年はどこかで会った気がすると言ってくれた。それに一縷の望みをかけられないだろうか。  そう思いながら自嘲ぎみに笑っていると、腰に佩いている剣が微かに震えた。カタカタと音を立てるそれに目をやり、男はまた笑う。 「本当に諦めが悪いな、俺もおまえも――」  宥めるように布でくるまれた剣の柄を撫でた男は、少年が去っていった丘に目を向けた。  自分の諦めの悪さは自覚している。そうでなければ、こんなにも長い年月の間待ち続けることなどできない。  今度こそはと思いながらここまでやってきた。ようやく会えたと思ったら、尚の太子として生まれているとはいったいなんの冗談なのだろうか。そう思いつつも、先ほど会ったばかりの少年を思い出すと、何やら笑いが込み上げてきた。 「腹毛を撫でたい――か。天真爛漫というかなんというか……今回は随分変わった子どもになったもんだ」  ひとしきりくすくす笑い、男は再び姿を消す。後に残されたのは夕日で赤く染まった緩やかな丘だけだった。 第二章  太子リーレンが二十歳を迎えた年、尚の王都碧宿で加冠の儀式が盛大に執り行われた。  先祖を祀る宗廟で冠礼を終えたリーレンは、この日を以て尚国の正式な王位継承者となった。朝議への列席が認められ、発言も可能になる。  聡明なリーレン太子が正式に王位継承者になったことを、臣も民もことのほか喜んだ。尚国の繁栄と安寧はこれで約束されたと皆が歓喜したその熱も冷めやらぬわずか数日後に事は起きた。 「喬(きょう)が国境を侵したというのはまことか?」  玉座の上から家臣に向けてそう発言したのは尚王だった。朝議に集まっている家臣たちも今ひとつ状況が掴めていないらしく、丞相が口を開くのを待っている。 「王に申し上げます。二日前に喬との国境近くにある観陵城(かんりょうじょう)が落とされましてございます。観陵の城主と民は……喬軍に皆殺しにされたと……」  そのまま言葉を詰まらせた丞相の様子に、尚王、そして大殿に集まっている家臣たちが息を呑んだ。  喬は尚の南東に位置する国で、周辺の小国を次々に併合し、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで領土を広げている。喬王は残虐な王と名高く、兵を率いる将軍たちもまた同様だ。喬に攻め落とされた城の民は皆殺しの憂き目に遭い、落城の際はその骸が山のように積まれると聞く。その喬がいよいよ尚にも手を伸ばしてきたのだ。 「直ちに兵五万を向かわせましたが、喬軍の勢いは凄まじく、苦戦しているとのことでございます」 「喬の軍勢は今はどの辺りだ?」  尚王が尋ねると、大司馬が口を開いた。 「観陵を抜け、街道を通って東儀(とうぎ)へ向かっていると――」  東儀と聞き、その場にいた皆が一気にざわめく。東儀が落ちれば喬の兵は真っ直ぐに尚の王都まで攻め込める。東儀はいわば尚の国門ともいえる関塞だ。山間に聳え立つ巨大な城壁が唯一の狭い道の前に立ち塞がり、周囲は切り立った山々に囲まれている。ここを抜くのは至難のわざと言えるだろう。どこの城よりも備えは万全だが、万が一にも東儀が落ちてしまえば、尚の王都は丸裸にされたも同然だ。  玉座のすぐ側で丞相や大司馬の報告を聞いていたリーレンは、ちらりと父王に目を向けた。頭を抱えていた尚王が、その視線に気づいて口を開く。 「リーレン、何かあるのか? あるなら申してみよ」  加冠したばかりの若い太子が静かに前に進み出ると、家臣たちが皆そちらに目を向けた。  深い藍色の深衣を身に纏った長身の青年は、長い髪を背に垂らしていた。頭頂にある銀色の小さな冠が、彼が冠礼を終えたことを物語っている。  父ではなく美姫と名高い母に似たのだろう、秀麗な目鼻立ちはもとより、艶やかな黒髪に縁取られた顔は雪を欺くかのような白さだった。桃李のような色味の唇がその白さをいっそう引き立てている。  天の寵愛を一身に受けたような容貌だが、別にリーレンは女性めいているわけではなかった。長身で、むしろ剣を携える武官のような趣さえある。武装すれば廟に祀られている古の王シャオリンの像のような美しさだろうと、宮女たちが日頃から噂するほどだ。  ゆっくりと前に出たリーレンは、玉座の父王に向かって拱手した。 「父王に申し上げます。東儀の守りは万全かと思いますが、万が一の備えとして西の琅と同盟を結ばれてはいかがでしょうか」 「琅と?」  王はもちろん、その国の名を聞いた家臣たちが一斉にざわついた。 「どういうことだ、リーレン」

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