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第5話

「ねぇ、そんなことどうだっていいでしょ? 細かいことは気にしないで」  一瞬のすばやさで男の手が伸び、サイドにいる貴弥の腕を掴んだ。あわてて振りほどこうとしても、強い力で絡んだ指は離れない。 「レッスン始めましょう。90分会員なんでしょ? あと、1時間10分?」 「み、水に入っていられる時間は、正確には40分だ。離してくれ! 個人レッスンは不要と言ったはずだ。君が勝手に……っ」  男が笑う、と同時に腕を引かれた。抵抗する間もなく、貴弥は足からプールの中に落ちる。ついた足が底面を滑って沈みそうになり恐怖に声を上げた。 「大丈夫だ。落ち着いて」  力強い声と共に両肩を支え引き上げられる。 「大丈夫だよ」  しっかりと、言い聞かせるように繰り返す真摯な声。破裂しそうに打っていた鼓動が、次第に静まっていく。肩に置かれた手は宥めるように、貴弥の強張った腕をさすってくれている。そこには先日のような、セクシャルな意図は感じられない。 「落ち着いた?」  と、今度は多少甘さを含んだ声で囁かれ、我に返った貴弥は、脱力した背をすっかり相手の胸にもたせかけていたことに気付いた。あわてて離れようとするのを、手が許さない。 「ほらほら、また溺れそうになるぞ」  どこか楽しそうな響きを持った一言。 「離してくれと言ってるだろう」  今さらだが精一杯毅然とした口調で、貴弥は背後の男に告げる。腕をさすられるのが心地いいなんて、絶対気付かれてはならない。 「だって、まだレッスンしてないだろ?」 「だから、しないって……」 「いいから。力抜いて、水を感じてみろよ」  ふざけた感じの全くない真剣な声が届いた。 「緊張しないで。大丈夫、俺が支えてる」  正体不明の痴漢男のくせに、優しさのこもった力強い声は、パニックに陥りかけた不安定な気持ちに安心感をもたらす。  決められたスケジュール通りに整然と暮らしていれば、人間常に平常心でいられるものだ。だから大声を張り上げ暴れるなどという事態には、貴弥は絶対に陥らない。下手にそんなことをすれば、多大なエネルギーを消費してグッタリしてしまう。今がそれだ。  それ以上抵抗する気力も失い、指先一つ動かすのも億劫になって、貴弥はおとなしく男に身を預ける。下手に暴れて、また沈みそうになるのも怖かった。  貴弥が静かにしていれば、水も静かだ。今水面には波一つ立っていない。映った天井の照明の光がゆらゆらと揺れているのが、どこか幻想的でゆったりとした眺めだ。  腕を少しだけ動かしてみる。その分だけ優しい波が広がっていく。思い切って力を抜いてみると、強張っていた腕は不思議なほどあっけなく水面に浮かんだ。 「水と戦おうとしちゃ駄目だぜ。仲良くなろうと思えば、その気持ちが通じるんだ」  水と通じ合うなんて、そんな詩的なこと考えてみたこともない。でもこうしていると、その感覚がわからないでもない。  初めて水の中にいるのを気持ちいいと感じた。その不確かな表面に全身を預けることなんか到底できないと思っていたが、もしもできたらもっと気持ちいいのだろうか。 「なぁ、あんたって、興味のないことは頭からどんどん消えてくタイプか?」  いきなり意味不明の非難を向けられ、半分飛びかかった意識が戻ってくる。 「何……? 失礼な。自慢じゃないが記憶力には自信があるよ。大抵のことは忘れない」 「嘘だね。じゃあ2週間前のことは?」 「漠然としすぎてる。正確な日付と時間は?」 「2日の水曜日。昼の2時ごろ。北町の交差点」  頭の中のスケジューラから、明確な記憶を手繰り寄せる。 「確かにその日のその時間、僕は北町の交差点にいた。でも君とは会っていない。確かだ」  背後の男が深く嘆息する気配が伝わった。 「ほら見ろ、忘れてる。あんたはな、信号待ちしてる俺の腕をいきなり掴んで、言ったんだよ。時計が進んでるって」  鮮やかな光景が脳裏に蘇ってきた。  最高気温が35度を超す猛暑の午後だ。熱せられたアスファルトから陽炎が立ち昇る暑さに、街中を歩く人はほとんどいなかった。  修理した時計を得意先に届けた帰りだった。信号待ちの交差点で、前に立っていた男の腕につい目が行った。  若者向けスポーツウォッチ専門の名門ドイツメーカー、ランゲン社のシフトベルグR7モデル。日本ではまだ都内の大手デパートでしかお目にかかれない最新型だ。ごつ過ぎないスマートなフォルムに比して頑丈なそのブランドは、正確さにおいても信用度が高い。特に仕事が丁寧なことでは、貴弥も一目置いているメーカーだ。  それだけにあり得ない許されざる事態に、貴弥は目を疑った。気がついたときには、男の腕を掴んでいた。 「失礼。君の時計は2分30秒進んでいる」  自分のシャープクロスと見比べる。 「現在の時刻は14時3分28秒だ。すぐにでも修正した方がいい」  とっさに掴んだ、しっかりとした硬さを持った男の腕は、酷暑の中だというのに汗ばんでいたりせず爽やかな柑橘系の香りがした。  歩行者用信号機が青に変わった。店番を頼んでいる母には、14時15分までには帰宅すると言ってきてある。あと12分以内に家に帰りつかなければならなかった。  貴弥は男の腕をあっさり離すと、横断歩道を速足で渡って行った。後ろで男が何か言ったようだったが、当然振り返らなかった。 「シフトベルグ、R7……」 「思い出したか。な? 会ってるだろうが」 「その時計をしていたのが君だというなら、確かに会っていることになるな。ただ、僕は時計しか見ていないから、あのときの人物が君だったとは断言できない」 「俺なんだよ」  男は再度の溜息付きで呆れた声を出す。 「なるほど。で、直したのか?」 「あ?」 「時計だよ。シフトベルグの新型が狂うなんてあり得ない。可能なら返品した方がいい」 「ああ、あれはわざとだ。俺よく予定の時間に遅れたりするから、日頃からちょっと進めてるんだよな」  愕然としてしまった。正確な時間にとことんこだわる貴弥にとっては、許せない蛮行だ。 「なぜそんな馬鹿なことを! いくら名品を持っていても、それじゃ意味がない。もしあのままだとすると、君の時計は今……」  自分の時計に目をやり、 「23時27分6秒を指して……あっ」  貴弥は思わず声を上げた。まただ。男の相手をしている間に、予定の時間を5分オーバーしてしまっている。 「き、君のせいでまたノルマがこなせなかった! 僕はもう上がる時間だからっ」  いつのまにか貴弥の体を後ろから抱き締めるような格好になってしまっている無礼な腕を振りほどき、水をバシャバシャかき分けながらステップへと向かう。 「おい、まだ話は途中なんだって!」  不満げな声が追ってくるが、無視してプールサイドに上がった。 「なぁ、あんたホントに俺のこと覚えてないのか? 俺はあのときすぐわかったぜ?」  その非難の声のやけに真剣な響きに、貴弥の足も思わず止まった。振り向くと、声同様に真摯な瞳がまっすぐ貴弥を見上げてくる。そのどこか憂いがかった下がり気味の目元に、ふいに既視感を覚えた。  だが、思い出せない。 「もう、待ち伏せしたりしないでくれ!」  それだけ言い捨てて身を翻すと、そのまま振り返らずにプールを出、更衣室へと足早に駆け込んだ。緊張が解けてホッとしたが、男のどこか切なげで真剣な瞳と言葉は、胸を騒がせたままなかなか消えてはくれなかった。

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