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第8話

 恭平を名乗る男はどこに行くとも告げず、貴弥の腕を掴んだまま街中を突っ切って行く 「き、君っ」 「何? タカ兄ちゃん」 「その呼び方はやめてくれ」 「どうして。昔はそう呼んでただろ?」 「あのときとは違う。僕も君も成長した」 「じゃあ、貴弥さん?」  それもなんとなく違和感はあったが、見上げるような立派な男に『兄ちゃん』と呼ばれるよりはましだ。 「実際のところ僕はまだ疑ってる。君は、本当に上原恭平なのか?」 「証拠がいるのか? なんならあんたが昔くれた自作の時計、まだ持ってるけど。さすがにもう動いちゃいないけどな」  15年前にプレゼントした、小さな目覚まし時計。壊れて使えなくなったいくつかの時計の部品を再構成し、組み立てたものだった。無事に秒針が時を刻み始めたときには感激したが、どうしても1日で1分ほどの誤差が出てしまいくやしかったのを思い出す。 「まさか……あれを、まだ持ってる? 本当に?」  驚いた。貴弥からすれば初めて作ったという思い入れはあっても、動かなくなった時計などもはやガラクタ同然だろう。しかし恭平は当然だろ、という表情で眉を上げる。 「あんたに初めてもらったプレゼントだぞ。捨てられるか。で? 俺が上原恭平だって信用するか?」  そこまで言われると、せざるを得ない。ただ、あり得ない事態に理解が追い付いてくれない。 「どうして言わなかったんだ。プールで会ったとき、知ってたんだろう?」 「あんたがいつ気付いてくれるのかって見てたんだよ。まさかあそこまで忘れられてるとは思わなくて、さすがに俺も傷付いたけどな」 「べ、別に、君のことを忘れてたわけじゃない。結びつかなかっただけだ」 「あまりにもかっこよくなってたからか?」  からかうような視線を投げてくる、男の手を払いのける。 「よ、予想外に大きくなりすぎていたし、昔とは比べ物にならないほど可愛げがなくなってたからだよ。それに君は……」  当時は、全く泳げなかったはずだ。  苦い思いで飲み込んだその一言を、恭平はあえて問い直してはこなかった。続く一言を、きっと彼もわかっているのだ。  途切れた言葉にはあえて触れず恭平は声を立てて笑い、懲りずに貴弥の腕を取る。 「じゃあ、昔は可愛かったんだな。あんたはいつでも忙しそうだったけど、俺のめんどうはよくみてくれてたもんな」 「それはまぁ、確かに……昔の君は素直で可愛らしかった。弟のように思ってたよ」  弟、と言いながら、それとも少し違うと感じる。身内に対する情愛よりも、もっと露骨な所有欲。そのつぶらな瞳を自分だけに向けていてほしいというような、強烈な独占欲を貴弥は恭平に対して抱いていたのだと思う。 『タカ兄ちゃん』と呼ぶ声が、今でも耳に甦る。呼ばれるたびに全身が満たされ、愛しさに胸が震えた。あれほど貴弥の心を動かした人間は、後にも先にも彼一人だ。 「俺も、あんたが誰よりも好きだった。家族よりも、どんな友達よりもな」  その一言にふざけた様子は全くなく、照れくさいほど真剣に聞こえた。腕を掴んだ手に力がこもり、貴弥はわずかに身じろぐ。  もしかしたらプールで会ったとき、本当はどこかで気付いていたのかもしれない。だから彼に対して、あれほど心を動かされたのだ。ただ、そんなことはあり得ないと決め込んでいたから、その可能性を無意識に否定してしまったのかもしれない。    そう、恭平とはもう、二度と会うことはないだろうと思っていた。  最後に残った記憶は、幼い彼の泣き顔だ。枕元にとりすがり、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくる真っ赤な顔。違うんだ、と、謝らなければいけないのは自分の方だと、言いたいのに、声が出ないもどかしさ。  誰よりも大切なのに、守ってあげられなかったから。そして、いつも笑っていた彼にこんなにも悲しい顔をさせてしまったから。  あのときの気持ちを思い出すと、今でも胸が引き絞られるように痛む。もう二度と会えないのだから、一人で墓場まで持っていく痛みだと思っていたのに。

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