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第9話

「ここだよな」  行先も告げず貴弥の腕を引っ張っていた、相手の足がやっと止まった。目の前に広がる景色を見て、貴弥の体は硬直する。  それは、『事故』以来足を向けていない場所、町の中心に位置する緑地公園の中の池だった。池と言っても直径50メートルはあるそこそこの大きさで、深さは大人の頭を超えるほどだ。今でこそ高い金網で周囲を囲われているが、昔は子供でも楽に乗り越えられる簡単な木の柵くらいしかついていなかった。    中学に入学し塾に通うようになってからは、恭平と遊ぶ時間がなかなか取れなくなった。恭平も事情はわかってくれておりわがままは言わなかったが、やはり寂しかったのだろう、校門の前でたまに貴弥を待っているようになった。  貴弥を見つけると満面の笑顔で手を振ってくれる彼が愛しく、駆け寄って抱き締めたい衝動にかられたが、クラスメイトにからかわれるのが怖くて、わざとそっけない態度を取った。これから塾だから遊べないと言うと、恭平は可愛いタレ目を細め、泣きそうな顔をしながらも無理に笑ってみせた。おそらく貴弥を喜ばせるために一生懸命覚えてきたのだろう未熟な手品を披露し、貴弥の両手を紙吹雪やキャンディーでいっぱいにして、お勉強がんばって、と言ってくれた。 『今日塾が終わったら、公園の池で一緒に魚を掬おう』  恭平と遊べないことで精神的に限界を感じ始めたあの日、貴弥はそう約束した。以前から恭平が、池に住む透明な白魚を掬ってみたいと言っていたからだ。  約束の時間は午後6時。日の長い7月、日は西に傾いてはいたが、まだ十分明るさの残る時間帯だった。その日に限って長引いた塾の講義を途中で抜け出し、貴弥は公園へと駆けた。時計を見た。6時15分。約束の時間をもう15分過ぎていた。  自分が行くまでは池に近付かないように言っておいたけれど、大丈夫だろうか。木の柵をくぐって、先に水に足をつけたりしていないだろうか。魚を見ようと身を乗り出してはいないだろうか。  6時20分。息を切らせて公園に駆け込んだ。池のほとりに小さな後ろ姿が見えた。その体が木の柵の向こう側に立っているのを認め、全身から血の気が引いた。待ちきれなくて、先に魚を掬い始めていたのだろう。 『恭平!』  名を呼んだ。向日葵みたいな笑顔が振り向く。収穫物を入れた小さなバケツを持ち上げようとした体が、バランスを崩し揺らぐ。その一瞬後に水飛沫が上がり、小さな体は池に飲み込まれた。バシャリと水面に浮き上がった顔、びっくりしたように見開かれた目は、貴弥に助けを求めていた。  貴弥は駆けた。寸時も迷わず木の柵を乗り越え、池に飛び込んだ。病弱でプールにも入ったことのない自分が一緒に飛び込んだところで何の役にも立たないとか、全く頭に浮かばなかった。恭平が助けを求めている――貴弥にわかっていたのはそれだけだった。    それから後のことはほとんど覚えていない。気が付くと病院のベッドの上で、心配顔の母に見下ろされていた。  安堵の涙を拭きながら母が話してくれたところによると、たまたま犬の散歩に来ていた人が、溺れている二人をみつけて助けてくれたということだった。夏とはいえ冷たい水に沈み肺炎を起こしかけた貴弥の方が、日頃から丈夫な恭平より重症だったらしい。恭平は入院もせずに帰宅できたと聞いて、貴弥は心からホッとした。  危険な池で遊ぼうなどと小学生の子供を誘い、一人で待たせた貴弥にご両親は憤慨しておられたぞと、叱責と共に父が話してくれた。  父に叱られるのも、恭平の両親の怒りを買うのも、自分のせいなのだからそれは当然だった。ただ、恭平自身も怒っているのではないか、だから見舞いに来てくれないのではないかと思うと、心配でたまらなかった。    夜中寝苦しくて目を覚ますと、恭平がいた。あまりにも会いたかったので、夢を見ているのではないかと思った。恭平はベッドの脇に突っ伏して貴弥の手をしっかり握り、ごめんなさい、と繰り返していた。そんなに泣かないで、と言って頭を撫でてやりたかったが、まだ点滴が抜けず意識が朦朧としている状態では、声をかけることすらできなかった。  退院してから、恭平一家が東京へ引っ越してしまったことを聞いた。父親の仕事の関係で急だったらしかった。  最後の恭平の記憶が泣き顔だったことが、未だに貴弥の胸を苛んでいる。以来夢に出てくる恭平も、すべてが泣き顔なの だ。夢で、泣いている彼を見るたびに、貴弥もまた泣いてしまう。目が覚めると頬が涙で濡れている。  そんな朝を、未だに迎え続けている。  今、15年ぶりに池を目の前にし、意識せず頬に一筋伝った涙を貴弥はあわてて拭った。

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