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第10話

「戻って来てから、何度もここに来たぜ。あんたが俺に気付いてくれないのは、あのことも含めて全部忘れちまったからなのかもしれないと思ったけど、俺は忘れたくないんだ」 「忘れることなんか、できるはずない」  答えた貴弥を、恭平は瞳を見開き振り向く。 「僕のせいだ。あんなことになったのは……僕が、約束の時間に遅れたから……」  15年経って初めて、ずっと抱え続けてきた自責の念を言葉にした。  貴弥が遅れなかったら、恭平は一人で池に入ろうとはしなかったはずだ。塾の勉強で疲れた貴弥に綺麗な魚を見せてやりたいと思ったら、待っていられなかったのだろう。 「僕の責任だ。塾なんか行かないで、ちゃんと時間通りに来ていれば、君は……」 「馬鹿なこと言うな」  責める権利のある当の相手は、貴弥の身を切るような懺悔をあっさりと切って捨てる。 「あんたまさか、ずっとそんなこと考えてきたのか? 時計ばっか見てるのは、商売柄ってだけじゃないのか」  驚きと怒りを帯びた相手の声。顔が見られない。その通りだからだ。  あれ以来ずっと、貴弥は時間にがんじがらめにされている。予定時間に1分でも遅れると、不安が兆してくる。脳裏をよぎるのは、あのときの恭平の顔。助けを求める恐怖に強張った顔が、心のどこかにこびりついて離れないのだ。 「ったく……こんなことだと知ってたら、もっと早く会いに来るんだったよ」  恭平は深く嘆息すると、硬直したまま動かない貴弥の両肩を掴んだ。 「おい、こっち見ろ。ほら、顔上げろよ」  揺さぶられ、おずおずと目を上げる。昔はあどけなく無邪気だった瞳が、今は凛と自信に満ちた光を湛え見下ろしてくる。 「いいか、悪いのは俺だ。来るまで池に入っちゃ駄目だって、あんたちゃんと言ってたじゃないか。それなのに待ちきれなくて、俺が勝手に入った。カナヅチのくせにな」  怒るのではなく、優しく言い聞かせるように、恭平は語りかけてくる。 「その上池に落ちたとき、俺は反射的にあんたに助けを求めた。あんたが迷わず飛び込んでくることはわかってたのに、あのときは考えられなかった。あんたをあんな目に遭わせたのは俺だ。責任だったら、全部俺にある」    ごめんなさい、と何度も謝る泣き顔が蘇ってくる。 「君が夜中に病室に来てくれたのは、夢じゃなかったのか……」 「うちを抜け出して、こっそり忍び込んだんだよ。どうしても謝りたくて。そのときはもう引っ越しが決まってたから、あんたに会わずに行くのが嫌だったんだ」 「もう……君には、二度と会えないと思ってた……」 「俺も最初は悩んだ。誰よりも大事だったあんたを殺しかけて、どのツラ下げて会えるんだって思ってたんだ。もしかしたらあんたも怒ってるんじゃないかって、不安だったしな。情けなかったよ。一番大事なものを守れなかったどころか、自分のせいで危険な目に遭わせたんだから」    恭平は当時を振り返るように、悔しげに眉を寄せる。 「もうあんなのは二度とごめんだ。あんたに頼りにされて、守ってやれるような男になりたかった。まず覚えたのは水泳だ。今じゃあんたが暴風雨の中瀬戸大橋から飛び込んだって、助けてやれるくらいには泳げる」 「それは、さすがの君でも無理だろう?」  貴弥の天然の突っ込みに、難しい顔をしていた相手が思わず吹き出す。笑顔に胸が震えた。少し下がり気味の目元、柔らかそうな唇、成長して男っぽい魅力が加わったが、よく見れば確かにそれらは上原恭平のものだ。  その恭平が、笑ってくれている。 「あんたの前に胸張って再登場するのは、いっぱしの一人立ちした男になってからだって決めて、15年間いろいろがんばってきたよ。貴弥さん、あんたのことだけ考えてな」  肩に置かれた手に力がこもる。憂いがかった瞳が熱を帯び、貴弥の胸は我知らず高鳴る。  あのときから時を止めてしまっている貴弥を置いて、なぜ彼だけこんなに大人になってしまったのだろう。いつのまにか可愛らしさとは違う魅力で、貴弥を惑わせるほどに。 「おばさんに聞いたけど、あんた決まった相手はいないんだろ?」  唐突な問いに面食らう。 「え……?」 「仕事一筋で浮いた話は一つもなかったって言ってたぞ。本当か?」  ばつの悪さに思わず俯いてしまう。27になる男が恋人の一人もいなかったというのは、世間的にあまりみっともいいものではないのは自覚している。  実際は貴弥も人からの紹介で交際してみた女性が何人かいたが、誰もが皆例外なく、その時間に対する異常なまでの細かさに音を上げ離れて行った。デートの時間に3分遅れただけで帰ってしまう男と、一体誰が付き合いたいと思うだろう。 「べ、別に……君には関係ないだろう」  俯いたまま小声で答えると、顎に指をかけられ、仰向かされあわてる。 「多いにあるね。俺が立候補するんだから」  意味がわからず絶句した貴弥に、恭平は強い瞳で語りかける。 「ずっとあんたのことだけを想ってきた。15年越しの恋だ。絶対に実らせるぞ」 「ば、馬鹿なこと……君は、幼馴染みに対する思慕を恋愛と混同してるんだよ」 「確かにガキの頃は自覚なかったけどな。離れて初めてわかったよ、この執着が恋愛感情だって。プールで生身のあんたに触れたとき、確信したね。あんたが欲しい。俺だけのものにしたい。あれが俺の正直な気持ちだ」    昔から、恭平は躊躇せず思ったことを率直に口にする。あれが好き、これが好き、でも一番好きなのはタカにいちゃん。そう言ってふくふくの唇でニコニコ笑ってくれた。自分の言葉が周囲にどう受け取られるかと十分考慮した上で慎重に発言する、子供らしくない賢さを持った貴弥とは正反対だった。  当時はそんな彼の素直な言動が愛おしく眩しかったが、今は惑わせられてしまう。そのまっすぐさを受け止めることが怖くて、逃げ出したくなってくる。 「ぼ、僕ならともかく、君に全く恋人がいなかったなんて信じられない。あ、あのときの……」  慣れた指の動き、こちらの感じる部分を高め官能を引き出していくデリケートな触れ方は、相当な経験を積んでいなければ無理だ。 「遊びなら結構遊んだぜ。本番であんたを思い切り悦ばせてやりたかったからな。修行みたいなもんだ。寝る相手は全部あんただと思って挑んだよ。本気になったヤツは一人もいない」  開いた口がふさがらない。そのへんの並の男が言ったら相当むかつくだろう台詞も、彼が言うとやけに様になってしまう。あの純朴で健康的な子犬がこんな生意気なフェロモン系に育つとは、全くもって想定外だった。 「貴弥さん」  熱を帯びた甘い声で名を呼ばれ、全身が震えた。逸らそうとする視線も、その誘引力に絡め取られてしまう。 「ここに戻ってきたとき実のとこ、あんたがあのことを忘れて幸せに暮らしてるなら、そのまま会わずに諦めようと思ってたんだ。でもあの日、偶然交差点で会ったとき、びっくりした。あんたは、下を向いて歩いてた。人の視線を避けて、俯いて、気難しそうに眉間に皺寄せて、時計ばっか気にしてた。俺のいない間毎日あんな顔してたのかと思ったら、泣きそうになったよ」    自分をことさら不幸だなどと思ったことはない。だが、幸福だと思ったこともない。それでいいのだと、それが人生というものなのだと、どこかで諦観していた。 「ずっと、放っておいて悪かった。あんたがあのことをひきずって、こんなに苦しんでるなんて知らなかったんだ。おかげで俺は全身無傷で、強くなって戻って来た。だから、もういいだろ? あのことで自分を責めるな」 「で、でも……」 「昔俺が馬鹿やるたびに、あんたはいつも嬉しそうに笑ってくれた。あんたの笑い顔を見ると、俺は幸せな気分になった。今でも同じだ。あんたを笑わせたい。昔みたいに、俺に笑いかけてくれ。昔も今も、誰よりもあんたが大事だ。あんたのことが好きなんだよ」    自分には一生縁がないと思っていた、熱い恋心の告白。ストレートにぶつけられる言葉は凍った胸を溶かし、甘いときめきで包み込む。戸惑いに勝る陶酔が、理性を酔わせ混乱させる。  顎を持ち上げた指先に、スッと唇をなぞられた。思わず息を吐き瞳を閉じかけた貴弥の耳に最悪のタイミングで届いて来たのは、聞き慣れた音楽だった。ドヴォルザークの『家路』、町役場の防災無線が流す5時の時報だ。 「じゅ、17時だ……!」  一気に、熱と血の気が引いた。貴弥は恭平の手を振りほどき、一歩退く。虚をつかれた恭平は唖然と目を見開いた。 「17時には帰ると言ってきた。僕はもう行くから」 「落ち着けよ。遅れても大丈夫だって。おばさんは何時でもいいって言ってただろ? それより、俺の話はまだ終わってないぞ」 「き、君と話をする時間は、僕の今日のスケジュールにそもそも組まれていない。またにしてくれ」  これではまるっきり強迫神経症患者だ。自覚はあるのだが、どうすることもできない。秒針が刻一刻と進んで行くごとに、不安が高まり心臓がドキドキしてくるのだから。 「貴弥さん!」  矢も盾もたまらず駆け出す背に、声がかけられる。 「また、木曜の22時40分にプールに行くから!」  逃げるようにそれだけ告げて、貴弥は足を速める。「絶対来いよ!」という声が後ろから届いてきて、騒ぐ胸をさらに甘く揺さぶった。

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