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第12話

 恭平の自宅、『白亜御殿』には昔何度か遊びに来たことがあったが、その内装は記憶とほとんど変わっておらず懐かしさが込み上げた。  レインコートだけでは防ぎ切れなかった豪雨で、中の服までびしょ濡れになってしまった貴弥は、広過ぎる浴室にまず放り込まれた。他人の家の、それも豪華過ぎる大理石のバスはなんとも落ち着かず早々に上がり、恭平が用意してくれた彼のTシャツとイージーパンツを身に付ける。明らかにサイズがひと回り大きいそれらに、持ち主の成長の著しさを改めて感じさせられる。  居心地悪く身をすくめながらリビングに入って行った貴弥に、立ち上がった恭平がいきなり声をかける。 「さぁ、体が温まったところで、レッスン開始だ」 「君の家にはプールもあるのか?」  この豪邸ではあり得ないことではない気がしたが、恭平はまさか、と笑い飛ばす。 「さすがにそれは。代わりに結構自慢できるものがあるんだ。あんたにも体験してほしい。来いよ」  一体何を見せてくれるのか。昔から恭平がこういう顔をするときには、いつも何かびっくりするようなことを隠しているのだ。純粋な好奇心に、貴弥の胸もドキドキしてくる。  3階まで白い階段を上がり、恭平は一室しかない突き当たりの部屋の扉を開けた。 「さ、どうぞ」  貴弥を先に入れると、後ろ手にドアを閉める。中が暗くて目が慣れない。恭平がスイッチを入れると、淡いブルーのライトが広い室内を浮かび上がらせた。貴弥は目を見張った。  高い天井は総ガラス貼りだ。今夜は叩き付けてくる雨が怖いくらいだが、晴れた夜は星が綺麗に見えるのだろう。とにかく広い洋室の中央に置かれている家具はたった一つ、キングサイズのローベッドだ。 「おっと、どうしたんだよ?」  うろたえ踵を返しかけた貴弥の腕を掴み、白々しく恭平が問いかけてくる。 「ご、誤解しないでほしい。家についてきたからといって、僕はまだ君とそういう関係になることを受け入れたわけでは……」  視線をうつろわせ歯切れの悪い口調で言い訳すると、恭平はキョトンと目を見開き、すぐにくすくすと笑い出す。 「な、何がおかしいんだ」 「いやごめん、今日は一応、下心なしだから安心してくれ。レッスンだって言っただろ?」 「君のことだから、恋のレッスンだなんて戯言を言い出しかねない」  大真面目に言ったつもりが、くすくす笑いが大笑いに変わった。 「そりゃいいな。そっちがお望みなら、俺はいつでもOKなんだけど。や、だからそうじゃなくて、まぁ、いいから乗ってみろって」  恭平は言うなり掴んだ貴弥の腕を、そのまま振り回すようにして体ごとベッドの方に突き飛ばした。バランスを崩した貴弥は、見事にその上に倒れこむ。 「っ……?」  沈む感触があまりにも異質で思わず上体を起こした。体の触れている部分がやけにフワフワしている。スプリングが柔らかすぎるのとも違う。体にかかる抵抗がまるでないのだ。  この感覚はどこかで味わったことがある。そうだ、プールの水に脱力した腕を預けた、あのときだ。 「最新式のウォーターベッドだ。今度クラブのヒーリングルームに入れようと思ってる、試作品だよ」  貴弥の反応に満足したらしい、恭平の声が届く。 「あんたの感想が聞きたい。ちょっとモニターとして、横になってみてくれよ」  他人のベッドに横たわることに対するためらいよりも、素直にその浮遊感に身を任せてみたいという気持が勝った。そっと上体を倒すと、スプリングとは全く違う心地よい揺れが体を包む。凹凸のある体の抵抗を自然に包み込み吸収するそれは、水に浮いている感覚そのものだった。 「どうだ?」 「うん……悪くない、かな……」  本当は思わず瞳を閉じてしまいたくなるほど心地よかったのだが、正直に言うのがちょっとくやしくて、貴弥は小声で感想を述べた。 「気に入ってくれてよかった」  恭平は驚くほど真剣な口調でつぶやき、ベッドに近付いてきた。貴弥はあわてて端の方に体を寄せる。 「馬鹿、何もしないって」  苦笑交じりでベッドに上がってくる相手の気配。動揺し、目を合わせられない。背を向け横向きになった姿勢でも、ベッドは頑なな貴弥のすべてをゆったりと受け入れてくれる。  恭平の手が肩に触れ、硬くなっている体をそっと仰向けに倒した。全身がフワリと宙に浮くような初めての感覚に、溜まった疲れが一気に消えていく。 「どう? いい感じだろ?」  言いながら、故意にベッドを揺らす。そのたびに体がフワフワと揺らいで、余計な力が抜ける気がする。 「わかるか? これが水に浮く感覚だ。あんたはもう浮けるよ」 「む、無理だ、そんなの。だって……」 「無理じゃない。体の力を抜いて、すべてを預けるんだ。この、浮く感覚だけでも覚えれば、後はすぐ泳げるようになる」 「別に僕は……泳ぎたいとは……」 「ごまかしても駄目だぜ。あんたがなんで柄にもなくプールなんか通い始めたのか、俺にはわかってる。俺と同じ理由だ」  それは、あの事件で刻み込まれたトラウマを克服したいから。  あのとき泳げさえすれば、助けを求める恭平を颯爽と救い出すことができたのに。そうすれば大人達だって貴弥を認め、引き離されることもなかったかもしれないのに。  ずっと、そう思ってきた。  クラブに通い始めた本当の理由には母でさえ気付かなかったのに、やはり恭平にだけは隠せなかったらしい。  運動音痴の自分が安くない会費を払い、無理してプールに通ったって、泳げるようになんかなるわけない。それなのにいつまでもこだわって、夢を見るたび助けたいと願って、あがいて。それでも現実は、年寄り連中と一緒に歩行者コースをたらたら歩くのが精一杯で。  その姿は我ながら滑稽なくらいなのに、恭平は笑わない。笑わずに認めてくれる。 「ありがとな。俺のこと、ずっと助けたいと思ってくれてたんだよな」  優しい声が、15年間傷み続けていた心を包み込んだ。 「あんたがどんなに勇気出してプールに入ってるか、見ててわかったんだ。ありがとう。俺のためにがんばってくれて」  込み上げてくるものに潤んでしまう瞳を見られるのが恥ずかしくて顔を逸らし、体を縮めた。温かい手が何度も二の腕を撫でてくれるたびに、心の傷が癒されて行く気がする。恭平の手はまるで、打ち付ける雨から部屋を守る、頭上のガラス天井のようだ。 「あのときの、夢を見るたびに、僕は……君が、どこかで泣いているような気がして……」  ずっと抱えてきた痛みを今吐き出したら、体の下のこの水は受け止めてくれるだろうか。 きっと、そうしてくれそうな気がする。体の疲れごと痛みまで、引き受けてくれそうな気がする。  水を優しいと、初めて思った。 「だから、助けたかったんだ。泳げるようになったら、きっと夢の中でも、君が笑ってくれるんじゃないかって……。その笑顔を見れば、やっと僕も熟睡できるんじゃないかって……」  涙が零れ落ちそうになる目尻に、柔らかく温かいものが触れた。恭平の唇だとわかったが、もう不安はなかった。あるのはただ、触れられるごとに募る嬉しさと安堵感だけだ。 「もうそんな夢、見なくていいんだ。俺はここにいる。あんたのそばに帰って来て、笑ってるよ。だから今度は、あんたが笑う番だぜ」  フワフワと揺れる水の上で、心地いい囁きを聞く。合わせるのが怖かった視線を上げた。恭平は微笑んでいる。いつもどこか泣きそうに見えていた瞳は、今は成長した分だけ強さと優しさを湛えて貴弥を見下ろしている。最初に再会したときは全然繋がらなかったのに、今はその面影がピタリと重なり合う。  ここにいるのは、上原恭平だ。何よりも大切な貴弥の宝物。また、戻って来てくれた。 「恭平……」  再会して初めて、名前を呼んだ。手を伸ばし、実在を確かめるように触れる。昔はなかった柔らかい栗色の髪に。憂いを帯びた目元に。大好きなふっくらした唇に。 「ああ……君は、恭平なんだね……」 「そうだよ。あんたの恭平だ」  触れる指を捕らえられ口付けられると、感動で身内が震えた。 「戻って来た……僕のところに……。もう、離れて行かないで……」  閉じた目尻からポロポロとこぼれ落ちてしまう涙を、恭平の唇が何度も拭う。 「一人にしてごめんな。大丈夫、もうどこにも行かない。絶対だ」  優しく触れて来る唇は目元から頬へと移る。 「ずっとあんたのそばにいる。昔みたいに、またあんたを笑わせてやるよ」  それが自分の唇に触れてきても、もう貴弥は抵抗しなかった。逞しくなった両腕に背を抱かれ、二人抱き合ったまま浮かんでいるような感覚に身をまかせる。もう少し彼を感じていたいと思っても、深い安堵に包まれた意識は意地悪な睡魔に引きずられて行く。    今、何時だろう――意識が途切れる寸前にふと気になったが、なんだかもうどうでもいい気がした。90分の残り時間は、きっとすでに切れている。でも、もう急ぐ必要はないのだ。上原恭平は今、確かに貴弥の腕の中にいるのだから。

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