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第15話

 壁に設置された大時計がちょうど10時を指すと同時に、合図の声がかかった。貴弥はあわてる。ただの遊びなのに、時間を切られると焦ってしまうという自分の性格を、恭平にはくやしいほど見抜かれている。  おっかなびっくりステップを降り、そろそろと歩きながら水上から目をこらす。赤、青、緑、様々な色のキラキラした石みたいなものが、プールの底全体に散らばっているのが見える。  手に取って見てみたい。だがそれには頭を水につけ、沈まなければならないのだ。  できない。まだ怖い。  顔を上げると恭平と目が合った。そうだ、今は一人ではない。強く成長した恭平がいる。何かあっても、きっと彼が助けてくれる。  大きく息を吸い込んで、1、2、3と弾みを付け、思い切って頭を水につけた。外界の音が遮断され、水が何かを囁いてくるみたいなコポコポという音だけが響く。  そっと目を開けた。初めて見る水底では水の動きに合わせて影が壁面に不思議な模様を作り、人工的でない美しい絵を描いていた。撒かれたきらびやかな色の石がそれに彩りをつけ、幻想的で美しい光景が広がっている。  ほんの5秒も潜っていないのに、息苦しくなった貴弥は水から顔を上げた。胸がドキドキしている。怖かったからではなく、新しい世界を見たことによる興奮からだった。 「貴弥さん、空気は口から吸って、鼻と口から吐くんだ。少しずつな」  恭平の声に励まされ、思い切ってもう一度潜った。二度目は最初より抵抗なくできた。  1メートル先にある、青い色の石に惹かれて手を伸ばした。届かない。思い切って体を折った。息苦しさを感じると、恭平に言われたとおり鼻と口から少しずつ息を吐いていく。伸ばした指先が、石に届いた。 「取れた……!」  顔を水から上げた途端、思わず言葉が弾けた。手の上には直径5センチくらいの、綺麗なビー玉が乗っている。  パチパチと手を叩く音がした。恭平が、本当に嬉しそうな顔で拍手してくれている。 「じゃあ第二段階な。これ持って、顔つけて、足、底から離してみな」  そう言って貴弥の手からビー玉を取り上げ、恭平が代わりに差し出したのはビート板だ。まだ泳ぎに慣れない人が、バタ脚の練習などに使っているのをたまに見かける。 「む、無理だよ、僕には……」 「大丈夫。昨夜の感じを思い出せよ。あれと同じだ」  全身を預け、すべてを任せる感覚。昨夜の今日だ。まだ体が覚えている。 「俺がちゃんとついてるから」  そのひと言で腹は決まった。  貴弥はビート板をしっかりと両手で握ると、思い切って顔をつけた。だが緊張して、脚を浮かすことができない。  胴体が何かにそっと持ち上げられた。隣に立っている恭平の脚が見える。支えてくれているのは彼の両手だ、そう思った途端余計な力が抜けて脚が底を離れた。体がフワリと水に揺れる。信じられないが、浮いている。  支えた恭平の手が、そのまま貴弥の体を導くように引いていく。水面を流されていく初めての感覚は、夢の中のように 心地いい。水底に沈んでいるビー玉の固まりが、まるで珊瑚礁みたいに綺麗だ。  苦しくなると顔を上げ、息を吸う。傍らの恭平を見上げると、そのたびに大丈夫だと笑って頷いてくれる。胸がじわりと温かくなり、不安はどこかに遠ざかっていく。  宝石みたいに綺麗なガラス玉の中に隠されている、目的の宝物を夢中になって探すうちに、いつしか貴弥は恭平の支えなしに自力で浮いていることに気付いた。ビート板からたまに片手を離し水をかき、一人で体を進ませて。  支えがないことに気付いてしまうと、また急に怖くなった。顔を横に向けると、隣に浮いていた恭平と水中で目が合った。そのまま力強い手に腕を取られ、引っ張られていく。  広いプールのちょうど真ん中に、ビー玉の群れに混じってキラリと銀色の光が見えた。 「っ……」  恭平の手が、貴弥の体をそちらに押すようにして離れる。流れていく視界の中、色とりどりのビー玉に埋もれた相棒が映った。数分ぶりに沈めた足を底に付け、貴弥はしゃがみこんでそれを拾い上げる。  完璧な防水加工を施したシャープクロスは、寸分も狂っていない。10時29分58秒、制限時間いっぱいだ。  水から顔を上げた貴弥を、待ちかねたように恭平が引き寄せ抱き締めた。 「やったな! おめでとう!」  人質救出だけではない。独力で浮けたことに対する心からの祝福だ。  本気で喜んでくれるその様子に、貴弥の胸も熱くなる。ゆるやかな憂いの中でただ時を過ごしていくだけの自分の人生に、これほどの純粋な感動が待っていたなんて、よもや思いも寄らなかった。  克服することは絶対に無理だと、どこかで諦めてしまっていたトラウマ。だが、心から信頼できる支えがあれば、どんなことでも乗り越えられるのだと知った。  そう、変われるのだ。この力強い手が、隣で支えてくれていれば。 「これで、君がレインボーブリッジから飛び降りても、僕も助けられるかな」  感極まって泣きそうになるのをごまかしたくて、らしくない冗談を口にすると、恭平は親指を立て、 「あぁ、バッチリだ。ビート板があればな」  と言って笑った。  水底から無事救い上げた宝物を、貴弥は感慨を持ってみつめる。長年寝食を共にしてきた相棒に心の中でそっと別れを告げ、恭平の左手首に巻き付けた。相手が瞳を見開く。 「お礼だよ。これ、時間は正確だから」 「え、でも、あんたの一番大事なものじゃ……」  一番大事なのは、今目の前にいる君だ――そんな気の利いた決め台詞は到底言えないけれど、言葉足らずの不器用なりに決意は伝えたい。 「君といるときは、もう時計を見ないことにする。これも、僕にとってはレッスンだよ」  ここでからかわれたら、再起不能になりそうだ。おずおずと見上げた相手の顔は、からかうどころかやけに真剣で、切なげに眉を寄せている。胸が変な具合に高鳴ってくる。 「ヤバイ、もう我慢も限界。俺からのご褒美、受け取ってもらうぞ」

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