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第3話 紡がれる森
鬱蒼とした木々を掻き分けるようにして、ロンは森を進む。迷わないよう、ターミナル付近の木に結んできた糸を右手に持ち、彼は木の葉を踏みしめて歩いた。ロンが木の葉を踏んだ瞬間、それはぱっと光を放ち、暫くするとまた光を失う。その光は、この植物を食べる小型昆虫の天敵の光とよく似ていた。
「あ。シーザ、少し待て」
前を走っていたシーザが、立ち止まってロンを振り返る。ロンは右手に持っていた糸を、すぐそばの木に結んでから、また新しい糸を取り出した。
この糸は、オーティジアという街で作られる、特殊な糸である。暗い場所では発光する特性を持ち、釣り糸ほどの太さでありながらかなり丈夫で、焼く以外の方法では切断することもできない。その性能を活かし、旅人たちは、主にこれを目印として用いている。
同じ木に新しい糸を結んで、ロンはまた歩き出す。歩き疲れたらしいシーザが、彼の肩によじ登った。
暫く歩くと、川を見つけた。そばには"カンロジュ"という、甘い蜜を出す古い木が生えている。この蜜は、マダラヘンゲネズミをはじめとした、消化管の短い生き物たちが主食にしている。ロンはベタベタとした木の皮を少し剥ぎ、その蜜を容器に詰めた。
「良かったな、シーザ。これでお前は暫く食べ物に困らない」
シーザはキュイと鳴いてロンに頭を擦り付ける。ロンは蜜の入った容器をリュックサックへしまって、川岸に座り込んだ。
「おいで、シーザ。休憩しよう」
ロンが手を伸ばすと、シーザは彼の膝上に飛び乗ってきた。シーザの背を撫でながら、ロンは川をじっと見つめる。
「……綺麗なところだな」
目の前をさらさらと流れる清潔な川は、ロンたちの住んでいたブレウィズの街まで続いている。この川のおかげで、ブレウィズでも、汚染されていない綺麗な水が飲めるのだ。海がヘドロを噴き出す現代において、この水は、レイニャストの美しい森が生み出す奇跡の恵みである。
ロンは空を見上げた。からっと晴れていて、雨が降りそうな気配はない。太陽の光が弱いこの場所では、重たいフードを被っている必要もないため、ロンはローブを脱いで薄着になり、川の水に手を伸ばした。
「わっ!」
その時、突然、何かに驚いたような声が耳に届いた。ロンは慌てて顔を上げる。ニンゲンによく似た生き物が、対岸からロンを見つめていた。灰色の肌に、目立つ黒い歯と鋭い牙。頬には苔や小さなきのこを生やしていて、腕先は木の皮のようにざらざらとしている。
「あっ、待ってくれ、君!」
ロンの声に、逃げ出そうとしていた少年は立ち止まった。
「驚かせてすまない。俺はロンだ。旅をしている」
少年は、丸い瞳でじいっとこちらを見つめたまま、微動だにしない。ロンはなるべく彼を刺激しないよう、ゆっくりと写真を取り出した。
「ききたいことがある。この写真がどこで撮られたものか知らないか」
少年は写真を見ることなく、小さく首を振った。怯えた様子で、彼は少しずつ後ずさる。
「そうか。ありがとう」
ロンがそう言うと、少年は森の奥へ消えていった。
森は再び静かになった。時折近くまで飛んでくる虫の羽音と、水の流れる音以外には、なんの音もない。
ぼんやりと川を眺めていたとき、突然シーザがブワッと毛を硬化させた。
「どうした、シーザ……」
シーザを落ち着かせようと手を伸ばしたとき、身体を覆い隠すほど大きな影が落ちてきて、ロンは顔を上げた。そこにいたのは、六メートルをゆうに超えている、大きな生き物だった。
硬そうな皮膚からは多くの緑が生えていて、まるで山が一つ移動しているかのような威圧感だ。
「……フォレストメイカー…………」
ロンはぽつりと呟いて、その生き物をまじまじと見つめた。
フォレストメイカー。森を守り、森を作る生き物たちだ。彼らの身体は、なんと生きている内から腐敗していく。幼い頃は、ニンゲンと同じような見た目や大きさをしているが、成長するにつれ、腐れて剥がれ落ちていく皮膚の隙間から木々が芽生え、体内を這う木の根によって身体が肥大化する、かなり特殊な生き物だ。森を作る彼らの身体は、やがて森の土として、この森に還るという。
フォレストメイカーは、ゆっくりと身体を動かして、ロンに手を伸ばしてきた。ロンはびくりと肩をすくめる。すると、その後ろから、先ほどの少年が顔を出した。
「ニンゲン!?」
ぱっと笑顔を浮かべた少年は、ロンの手を取り、引っ張った。
「サンジァ、あぶないでな」
「なあなあ、ニンゲンだろうがな!?」
「あ、ああ。ニンゲンだ」
ロンはしどろもどろに答える。サンジァと呼ばれた少年は、にっと黒い歯を見せた。
「わーっ、ニンゲンだ、ニンゲンだ」
「すまない。この子は、ニンゲンが好きでな……」
「はは、坊や、ニンゲンが好きなのかい。珍しいね」
ロンはそう言って、サンジァの頭を撫でた。先程までの怯えた様子はどこへやら、サンジァはロンの右手を掴んで離さない。
ロンは左手を自分の胸に当てて、大きなフォレストメイカーに頭を下げた。
「私はクロバロン。ロンです」
「ニィジァだが。この子はサンジァ」
ニィジァはゆっくりと手を伸ばす。ロンはその、ポロポロと皮膚の崩れる手をそっと握った。
「ニンゲンを、見たのは、はじめてだが」
「そうでしたか。俺も、フォレストメイカーを見たのははじめてです」
「うん、うん、そうだがや……」
おもむろに二度うなずき、ニィジァは腕を下ろす。サンジァが、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねた。彼の背に生えた細い木がワサワサと揺れる。
「父ちゃん、このニンゲン、何か探してるだろうやって」
「なんだろうかな……?」
「この場所を探しているんです」
ロンは彼に写真を見せた。
「ああ……クォーツの川……」
「クォーツの川というところなのですか?」
ニィジァは微笑んだまま、こくりと頷いた。
「一緒に来なって」
「よろしいのですか」
「うん……サンジァが、ニンゲンがすきでな」
サンジァは、ロンを見上げてにっと笑った。
ロンが働くブレウィズの学校。中では、多種多様な生き物が、生きる知恵を学んでいる。ここでロンが教えるのは、比較的知能が高く、勉強に向いている生き物たちだ。彼らはいずれ、街の役人や外交官になる。ロンの友人であり、役人のレイジアも、元はロンの教え子だった。
真面目に黒板を眺め、ロンの書く文字を追う生徒。質問を繰り返し、理解を深める生徒。年齢層は幅広いが、生徒の種族にはやや偏りが見られる。そんな教室の中に、十五歳のニンゲン、ノアロはいた。
「…………ノアロ、お前どこ見てる」
「外が雨だぜ先生。森の近くまで行けば、ジュモクグモが動くところが見られるかも」
「授業を聞きなさい」
ノアロは不満そうな顔でロンの方を向き直した。
「それに、酸の雨の日に動くのはジュモクグモじゃない、シダグモだ」
ロンは淡々とそう言った。
ジュモクグモ、シダグモとは、どちらも雨雲を作る植物である。仕組みは解明されていないが、ジュモクグモは水の雨雲を、シダグモは酸の雨雲を作ると言われている。
「えっ? でも、この前の雨の日に動いてたのはジュモクグモだったけどな」
何気ない様子でそう言ったノアロだったが、ふと、黙り込んだロンの顔を見て、ごまかすようにへらりと笑った。
「お前……っ、また外へ出たのか!? 雨の日に外へ出るのはやめろとあれほど……!」
「だぁって、気になんだもん」
「だから、気になるのなら資料館に行けと……っ」
「死体と写真しかないんじゃつまらないだろ!」
ロンは拳を握りしめる。生徒たちは、こちらを見上げて心配そうにしていた。何人かは、ノアロのことを迷惑そうに見ている。ロンは一つため息をついて、黒板の前へ戻った。
「……っとにお前は……馬鹿な真似はやめなさい。……では、授業を再開する」
「先生、ノアロ外出ようとしてます」
「あ、馬鹿! ほっといてくれって!」
ノアロは窓枠の上から叫んだ。ロンはノアロのいる窓際に向かって歩いていく。
そのとき、焦ったのか、窓枠に乗っていたノアロの足がするりと滑った。ノアロの身体が窓の外へ転がり落ち、ロンは咄嗟に手を伸ばす。彼の身体を掴んだとき、その右手が、マントから露出した。
「あ゙ぁ……ッ‼」
「せんせ……っ」
ノアロは慌てて壁を蹴る。その勢いに乗せて、ロンは歯を食いしばってノアロを引き上げた。
素早く窓を閉め、ロンは酷く痛む右腕を押さえて教室の床に座り込む。まるで焼かれているかのように、右腕が熱い。ロンは荒く息をしながら、ノアロの肩を掴んで怒鳴った。
「馬鹿野郎ッ! 何をしてるんだ、死にたいのか!?」
「……せんせい……、手……」
ノアロの肩を掴んでいるロンの右手に、力が全く入っていない。ノアロの灰色の瞳が、深い絶望の色をして、ちりちりと揺れていた。
「……ノアロがロン先生怪我させたって」
「本当? ノアロが?」
教室の外からも、ざわざわと声が聞こえてくる。ロンは歯を食いしばり、ノアロの肩を握る手に力を込めた。
「……ッ、いいかノアロ……っ、お前の命の重さを知れ……。お前の命は……軽くないぞ……」
目の前の少年は首を振る。小さな身体は更に縮こまって、彼の呼吸は激しく乱れた。
「やめなさい、ノアロ」
ロンは、ノアロの右手を掴んだ。彼の左腕に、爪の跡が付いている。強く押し付けていた証拠だ。
「……俺は大丈夫だ。怪我なかったか?」
ロンは微笑む。やってきた街の医者に手を引かれて、ロンは教室を去っていった。
「……先生ごめんなさい」
「もういい。ちょっと爛れただけだ」
「違う……、筋力が弱くなったって……」
「ああ、もう、違うと言ってるだろう。男だろう、メソメソするな。……全く」
検査のために訪れた、街の研究所の保健室。そこで、ノアロはかれこれ二時間以上も、ロンに謝罪を述べていた。
さすがにめんどくさくなってきたロンは、ため息をつくと、ノアロの右手を掴んだ。
「……ノア」
ロンは柔らかい声で項垂れたノアロに呼びかける。ノアロはぱっと顔を上げて頬を少し紅潮させた。
かつて「自由」を意味していた言葉「ノア」。それを教えてからと言うもの、ロンがこの愛称で呼ぶと、彼は分かりやすく機嫌が良くなるようになった。
「なに、先生」
「ジュモクグモはどんなだった」
「ジュモクグモ?」
ノアロは首を傾げた。ロンは頷く。不思議そうな顔をして、ノアロは口を開いた。
「すっげー大きかった。ジュモクグモは、普通の雨雲を作るんだろ? 俺、木の枝の先で、葉から雲が散ってくの見たんだけど、花が咲くみたいですごく綺麗だった。…………それでな、先生、酸の雨が降り出したと思ったら、ジュモクグモが、いつもみたいに硬化せずに、動き出したんだよ!」
だんだんと、ノアロの口角が上がっていく。
「変だよな、先生。ジュモクグモが動くのは、水をもっと効率よく手に入れられる場所を探してるからだよな? だったら、酸の雨の中、ジュモクグモは動かなくていいはずなのに」
ロンは一つ息を吐いて、ノアロの話に耳を傾けた。
「そういえば、あのジュモクグモの雲の色、なんか変だったんだ。シダグモみたいな色しててさ」
ノアロの言葉に、ロンは少し目線を下げた。
「……もしかしたら、しばらくシダグモの近くにいて、雲が混じったのかもしれないな。シダグモと違って、ジュモクグモは酸を降らせる雲に耐えられる皮を持たない」
「ああ! だから、皮が弱ってて硬化もできなかったんだな。それどころか、酸の雨が止んでも、酸を取り込んだジュモクグモは、自分が出す酸の雲でずっと自分の周辺に酸を降らせてしまう」
ノアロは楽しそうに自分の考えを並べて、一人頷いた。
「自分の雲の雨に焼かれちまうなんて、なんだか儚いなぁ」
そう呟いて、ノアロは彼らを愛おしむように目を細めた。
「……お前は学者に向いてるよ、ノアロ」
「学者って……それって先生みたいな仕事?」
「まあ、そうだな」
ロンは呟く。ノアロはロンを真っ直ぐに見上げて、首を振った。
「……嫌だ」
「嫌だって?」
「うん。だって、俺興味ないからさ」
ノアロは淡々とそう言った。
「……俺が興味あんの、スリルだから」
彼の言葉に、ロンは目を伏せた。
「……スリルか」
「そう! 雨に焼かれて死ぬかもしれねぇってのは、たまらなくスリリングだろ?」
ノアロは楽しそうに笑う。ロンは暗い瞳でノアロを見た。
「……そんなことをして、お前は一体何を得たいんだ」
「分かんないかなぁ、先生。生きてるってのはスリルによって感じられんだよ」
まだ幼い少年は、ゾッとするほど無邪気な笑みを顔に浮かべ、ロンの左手を握った。
「先生、俺は旅人になるんだ!」
ロンは目を見開いて、固まった。彼の吐いた言葉が、あまりにも馬鹿げていたからだ。
「……きっと俺の知らないスリルが世の中にはいっぱいあって……、俺の知らないロマンが眠っているんだ。素敵だろ、先生」
「……そんなことしなくていい。ニンゲンなんだぞ、俺たちは!」
「そうさ、ニンゲンなんだよ、俺は!」
ノアロは大きく両手を広げ、椅子に座るロンを見下ろした。
「ニンゲンだから旅するんだ! だってニンゲンは、馬鹿みたいなロマンチストだ!」
ロンは言葉を詰まらせた。
「…………ノア!」
強い語気でロンはノアロを咎める。ノアロはすっと鉛の瞳をロンに向けた。
「……お前が外を好きなのは分かってる。危険な場所を見に行くのが好きなのも分かってる。だが、それがお前に何をもたらすって言うんだ。お前は勉強ができる。俺と一緒にこの街の学者になる、それでいいじゃないか。なぜそんなに命を弄ぶ? なぜそんなものを追いかける?」
「…………これは俺のわがままだ」
「なら……っ」
「でも、それだって先生のわがままだろう」
ノアロの言葉に、ロンは口を噤む。
「……俺は先生が大好きだ。だけど、それと同じくらいスリルと自由が好きだ」
ノアロは、包帯のまかれたロンの右手をそっと握る。ロンは、もう痛みはないはずなのに、この手を振り払いたいような気持ちになった。
「先生だって、知識の探求者なら分かるだろう。俺は、自由の探求者だ」
その子どもの目は、まっすぐにロンを貫いた。
変わらない。この子はもう、何を言ったって、変えるつもりがない。
「…………分かった」
ロンははっきりとそう言った。
しかし、納得などしていなかった。この世界で、ニンゲンが、よりによって旅人など、成り立つわけがない。普通、成り立つはずがなかったのだ。だから、ロンは信じていた。きっと彼はこの街に、自分のもとに、また帰ってくると。彼が学校へ来なくなっても、未練がましく、席を一年間も残し続けた。
しかし、ノアロは旅立ち、二度と教室へ帰ってくることはなかった。
彼が帰ってきたのは、旅立った半年後。気まぐれに、ふらりと帰ってきて、今までになく楽しそうに旅の話を聞かせてくれた。
旅を経て少し成長したノアロの姿が、眩しかったのを覚えている。
森の中を、サンジァとニィジァと共に、ゆっくりと歩く。多くの木々が重なり合うようにして生えていて、ぱっと見ただけではニィジァの大きな体を入れる隙間さえないようにも思えるのに、彼らの通る場所は、不思議と道になっていた。
レイニャストに生えているのは、ほとんどがヨロイキボウという木である。しかし、この辺りに生えているものは、かなり古い、まだニンゲンも多かった頃の木々だ。
何故、そんな古い種類の木が、今もこの地域に残っているのか。それは、この森はフォレストメイカーたちによって作られたからだと言われている。フォレストメイカーの身体は、不思議なことに、酸に弱い、絶滅危惧種の木々でも育つらしい。ここは、レイニャストにやってきたフォレストメイカーたちが、命を懸けて創り上げた森なのだ。
「見えたが、クォーツの川」
ニィジァは呟く。ロンははっと前を向いた。
古の木々の間を、透明な水が流れている。水は岩にぶつかって砕け、また川に吸い込まれていく。川のそばには様々な色の光を放つ小さな虫が飛んでおり、その光が水面に写ってキラキラと輝くのが幻想的だった。
「すごい、ヒノメホタルじゃないか……!」
「ヒノメ?」
「古いホタルだ。きれいな水と、特定の木があるところにしか生息できないと言われている、珍しい生き物なんだ」
ロンは水場へ近づき、ホタルを追いかけた。サンジァが後に続く。ロンはうっすらと黄色い光を放つホタルを指差し、サンジァを振り返った。
「ほら、この黄色い色を出しているのが、ヒノメホタルだ。大昔に絶滅した、ゲンジボタルという昆虫に最も近いらしい」
「へえ……、ヒノメホタルだが……」
「素晴らしい。生きているのを見たのは初めてだ……。ヒノメホタルは、こんなにも、儚い光を放つのか……」
ロンの声は弾み、目がキラキラと輝いていた。他の虫に比べて、ヒノメホタルの出す光は、弱く小さい。しかし、それが良い。まるで流れ星のような儚い美しさが、そこにはあった。
サンジァは夢中になって虫を追いかけるロンを見て、にっと笑みをこぼした。
「待ちなってロン! 今、おれがおもしろい虫を連れてくるでな!」
そう言うと、サンジァはぽんと飛び出した。あっという間に姿が見えなくなる。ロンが追いかけようとしたとき、ニィジァがロンの肩に手をおいた。
「だいじょうぶ。この先はニンゲンは歩けない。が、あの子は強いでな……」
ニィジァにそう言われて、ロンはおとなしく川岸に座った。シーザがポケットから飛び出して、川の水に口をつける。
「こらシーザ、また勝手に飛び出して……。お前は全く……」
ロンは苦笑して、満足そうな顔で戻ってきたシーザを抱き上げた。
「……子どもの、成長は……、悲しいものだが……」
ふと、ニィジァが呟いた。ロンは彼の顔を見上げる。
「おれたちは、いきているのに、身体が、くさっていくんだが……。子どもたちは……成長すると……いたくて、こわくて……、みんな泣くんだが……」
自分の身体の中を植物の根が埋め尽くし、皮膚を食い破って芽を出す。そこに、一体どれほどの苦しみと恐怖があるのか、ロンには想像もつかない。
「……いつまでも、サンジァには……子どもでいてほしい……」
ニィジァは呟く。
ロンは頭の片隅で、あのふざけた男のことを思い出していた。
「…………痛い思いを、してほしくない」
彼の言葉に、ロンは俯いた。
できることならば、いつまでも子どものままで、なんの痛みも苦しみもなく生きてほしい。この残酷な世界で、贄となることがないように。
「……だが生き物は成長する。……無慈悲にも。…………そして、美しくなるんだ」
ロンは顔を上げて、ニィジァを見つめた。
「貴方のように」
ニィジァは微笑んだまま、サンジァが飛んでいった方向を見つめていた。ロンも、そちらに目線を移す。ちょうど、サンジァが帰ってきたところだった。
サンジァがニィジァの身体に飛びつくと、ニィジァは我が子の頭をぐりぐりと撫でた。
「きゃは、父ちゃん痛いがぁ」
サンジァはけらけらと笑いながら、ロンに手を差し出した。そこに乗っていた虫が、勢い良く飛び立っていく。
「ああっ、せっかく捕まえたのに!」
「あれは……"コウラトンボ"?」
「"ガキガキ"だが! あれ、すごく美味しいんだがぁ」
「君たちは、アレをガキガキと呼んでいるのか?」
「うん」
ロンは驚いた。それから、楽しそうに口元を緩ませる。
「何故? 何故君たちは、アレをガキガキと呼ぶんだ?」
「食べるとガキガキって音がするでなぁ」
「なるほど、面白い。じゃあ君たちは、コウラトンボをそのまま食べるのか?」
「そうだがぁ」
ロンはキラキラと目を輝かせてサンジァに話を聞いた。図鑑からも本からも得られない知が、確かにそこにあった。
「あはは、ロンは変なことばっかり聞くんだがぁ」
「……ああ、すまない。フォレストメイカーと話せる機会なんか、殆ど無いものだから……」
フォレストメイカーは、基本、森の奥でひっそりと暮らしていて、街に出てくることはない。それは、森を生み出す彼らが、他の生き物から利用されてきた歴史のせいであろう。かつての生き物は、森を、水を得るために、彼らを家畜のように増やし、育て、殺して埋めた。
「……あのなぁ、ロン」
ふと、サンジァは呟く。ロンが彼を見下ろすと、彼は目を伏せ、切ない表情を浮かべていた。
「俺、森になりたくないんだがぁ」
ロンは一つ瞬きをして、それから何も言わずにただ彼を見つめた。
「……痛いの、嫌いでな」
サンジァは、細い腕をさすりながら、そう言う。ロンはサンジァを見つめ、口を開いた。
「…………怖いか」
「うん……」
サンジァは俯く。しかしすぐに、ぱっと顔を上げて笑った。
「へへ、でも、どしようもないでなぁ。だから、やりたいことは今のうちにぜーんぶやるんだが!」
子どもは強く、彼らの成長は美しい。ロンはサンジァの頭を撫でる。
「それがいい。……俺も、後悔ばかりだ」
「あはは、ニンゲンは大人だって子どもだって全然変わんないがぁ。今から何でもできるが。おれは、ニンゲンのそういうところが好きなんだが!」
サンジァの言葉に、ロンは目を瞬かせる。サンジァはへらっと笑って、ロンに肩を寄せた。
「世界に未来を決められない、どこにでも行けて、何にでもなれる、自由な生き物だが!」
ロンは微笑む。まるで、泣いているかのように。
サンジァは不思議そうに首を傾げた。
「……サンジァ、そろそろ、帰ろうか」
「あ、はーい父ちゃん」
サンジァは立ち上がる。父の背を追いかける彼の後ろ姿に、確かな懐かしさを覚えた。
「またね、ロン。今度は友だちも紹介するでな!」
「……サンジァ、悪いが俺はもう戻れない」
ロンは呟いた。
「愛した男の元に行くんだ」
「……もしかして、跡追旅行だろうかな」
ニィジァが驚いた顔をする。ロンは頷いた。
「よくご存知で」
「いいやぁ、こどものころは、ターミナルを見るのが、好きでなぁ……そこで見たことがあるんだがぁ……。そうかぁ、そうかぁ……。こんなに、愛にあふれたニンゲンが、見られてよかったなぁ、サンジァ……」
「何、何、どうしてロンは戻ってこないんだがや」
サンジァはきょろきょろと、ロンと父の顔を交互に見た。ロンは少し屈んで彼に目線を揃え、口を開く。
「……俺の夫は旅人だった。馬鹿だから、旅先で何か起こして、帰ってこられなくなっちまった。だから、迎えに行くんだ、俺が」
ロンの話を聞いて、サンジァはぱっと笑顔になった。ロンの腕を掴んで、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「……へへへ、ニンゲンの好きなところ、一個増えたが!」
少年はロンの左手をきゅっと掴んで、花の咲くように笑った。
「ニンゲンは愛する生き物なんだがなぁ」
ロンは目を細める。サンジァはロンの手を離して、今度は父の手を握った。
「なあ父ちゃん! おれ、旅がしてみたいがぁ! それで、ここじゃないところで、新しい森を作るんだがぁ」
ロンは目を見開く。それから、サンジァの手を左手で掴み、ゆっくりと右手を添えた。
「……サンジァ。忘れるな、君も自由だ。……君が思えば、君は何にでもなれる」
サンジァは目を煌めかせて、にっと笑った。
「……元気で、サンジァ」
「うん!」
ロンは目印の糸を回収しながら森を進む。木々の隙間から手を振るサンジァとニィジァに、大きく手を振り返した。
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