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第5話 蒸気機関の街

 列車のドアが開いた瞬間、金属と土埃の匂いが鼻をかすめた。レイニャストやブレウィズとは違い、乾燥した赤い大地が延々広がっているのを見て、ロンは目を見張った。 「……ふう、スティミューラの匂いだ」  ヴェラシエはにっと口の端を持ち上げ、ぴょんと電車から飛び降りた。ロンはシーザをフードの中に押し込んで、彼を追いかける。ヴェラシエと共に駅を出ると、そこは大通りの前だった。  金属で作られた家々は、空に近くなるにつれ折れ曲がっていたり、壁から部屋が突き出していたりしている。壁面では歯車が回り、張り巡らされた大小様々な配管が、家と家を繋いでいた。  目の前の大通りには、多くの生き物が行き交っている。皆しきりに動き回っていて、なかなか立ち止まらない。 「あまり綺麗な街ではないでしょう」  ヴェラシエは控えめににこっと笑った。 「……いやすごい……。酸の雨にも耐えられる高級金属ばかりだ……。ここが蒸気機関の街スティミューラ……」  金属の擦れる音、蒸気の熱、人々の活気。ロンは圧倒され、立ち尽くした。  ゆっくりと辺りを見回す。使い捨てられた金属片の山の上に立つボロ屋台。継ぎ接ぎだらけの配管と壁。飛び出した棒、用途不明のバルブハンドル。 「この青い管はなんのためにあるのですか?」 「これは水道管ですね。……ほら、あの灰色の管が見えますか? アレは違法な水道管です。住民が勝手に取り付けているんですよ」 「毛細血管みたいだな……」 「もう……なんですって?」 「毛細血管という細かくて入り組んだ血管です。……よく似ている」 「はぁ……先生はものをよく知っていらっしゃる」  ヴェラシエは感心したように頷いた。ロンは今度は頭上を見上げ、赤い配管とその周りにびっしり生える錆びた金属の管を指さした。 「……あの配管も違法なものですか?」 「ああ、そうです。はは、あんなににょきにょき生えてたら、もうどれが正式な配管か分からないですね」 「……誰も取り締まったりしないのですか?」 「ええ。一個一個取り締まってたらキリがないですから」  ヴェラシエは答える。この街で生きるのに、熱や水は必須のものである。しかし、この街の生活水準は決して高くない。そのため、生き物はこのように無理矢理にでも生を掴まねばならない。  だからこそ、この街は、こちらがひやっとするような独特な熱を持っている。ロンは目をキラキラさせて、スティミューラの街並みを眺めた。 「ははは、ミスターと同じ顔だ」  ヴェラシエはロンを見て表情を緩ませ、大通りの奥を指差した。 「ではね、この大きな道の反対側が、きっと目的地ですよ。ほらあの、大きな塔が見えますでしょう。アレのてっぺんから、こう……イスのようなものに乗って降りていくんです」 「リフトですか?」 「ああ、それです。やはり先生は物知りだ」  ヴェラシエは髭をぴくぴく動かして笑った。それから、ロンに一礼する。 「では、仕事に遅れそうですので。……それじゃあまた、どこかで」 「……ああ。……元気で」 「…………ああ、やはりそのおつもりでしたか」  ヴェラシエの声は、少し寂しそうだった。ヴェラシエは肉球のついた小さな手のひらで、そっとロンの手を握った。 「お元気で、ドクターロン」  ロンはにこりと微笑んだ。  ヴェラシエを見送って、ロンは再び街と向かい合う。思いっきり肺に空気を取り込んで、にまっと笑った。 「……ああ、いい金属の匂いだ。あがるな、シーザ」  そんなものに興奮するのはお前くらいだ、という顔で、シーザはポケットへ入っていく。どうやら、この街が煙くてたまらないらしい。  ロンは、露店に寄ったり住民に声をかけたりしながら、大通りをふらふら歩いた。 「……おい旅人」  突然、背中に当たる硬い感触。ロンは表情を変えることなく、静かに尋ねる。 「…………なんだろうか、青年」 「あるだけ置いてけ、金を」 「……悪いな、青年、それはできない。俺はこれから、愛するニンゲンの元へ行くんだ」 「…………ニンゲン?」  青年は、ロンの腕を掴んで引っ張り、正面を向かせた。それから、ロンの顔を見上げ、目を丸くする。 「……お前! ロンだ、もしや!」  ロンは目を瞬かせ、青年を見下ろした。まだ二十歳くらいの若い男が、ナイフを突き付けたままこちらを見ている。 「…………君は誰だ?」 「教えろ、ロンかどうか」 「…………ロンだ。クロバロン。さては、お前、ノアロという男を知ってるな」  青年は、一度瞬きして、瞳をうるうると揺らしながら、ロンにナイフを突きつけた。 「教えろ! どこへやったノアロを! 教えろ!」 「……悪いな、俺も知らないんだ。だから、ここへ来た」  青年はゆらりとよろめいて、ナイフを下ろす。しかし、その目はまっすぐにロンを見つめていて、変な動きをすれば今すぐにでも刺し殺されてしまいそうな恐怖を、ロンに感じさせた。 「…………してはいけない、傷付けること……。お前が本当に、ロンなら……」  青年はナイフをマントの裏にしまった。それから、ロンの腕をひしと掴む。 「……危ないが、こなとこい歩くと。ふいてこなって」 「……『ふいてこな』?」 「いいから、早くふいてこなって!」  青年は、ロンの腕をぎゅっと引っ張った。「ふいてこな」とはどうやら、「付いてこい」という意味らしい。 「……悪いな。この辺りの言葉は……少し難しい」  ここ、スティミューラで使われているのは、基本的にはロンたちと同じブレウィジン語という言語である。ブレウィジン語は、ブレウィズを中心とした周辺地域で使われている、かなり古い歴史を持つ言語だ。しかし、同じ言語と言っても、ブレウィズの外では独特の訛りがあり、スティミューラまで来ると、今度はロスティカジン語という別の言語の単語まで出てくる。  いくら知の探求者と言えど、他の言語を隅々まで知っているわけではない。ロンは苦笑を溢した。 「……お前、あのリフトにによるんだろうが。ほとんど通じないだがな、あの先では」 「『による』……確か、『乗る』だったか?」 「『のる』ってなんだがや」 「乗り物に……入ることだな」 「ああ、『乗り物』の『乗り』ってとこいと同じだろうかな」  青年はそんなことを言いながら、ロンの手を引いて細い路地を進む。青年が、道の端のマンホールの蓋を開けると、そこには階段があった。ロンは、手を引かれるままに階段を降りていく。 「……どこへ向かっている?」 「俺ん家だが」  青年は短く切り揃えたブラウンの髪をふわふわと跳ねさせながら、階段を降りる。しばらくして、目の前に街が現れた。  硬い土に囲まれた地下通路。真ん中にはやや濁った水の流れる水路があり、ろ過装置が等間隔に設置されていた。土壁には白やオレンジ色の電球が取り付けられており、かなり明るい。飲食店や総菜店、機械店といった店が立ち並び、地上に負けない活気と生き物で溢れていた。  少し進んだ先で、青年は道を曲がった。階段を降りて、更に地下深くへ進む。だんだんと明かりがなくなり、薄暗くなってきた。ロンが少しの不安を覚えはじめたとき、青年はあるドアの前で立ち止まった。 「……姉さん! こんこんだが!」 「こんこん?」  その時ふと、ノアロの顔が浮かんだ。まだ二十歳にもならない頃の彼が、そう叫びながら、窓から飛び込んできたことがある。 「……ただいま、か」  ロンは、もう二度と動かすつもりのなかった形で唇を動かす。  扉の先には、雑に掘られた空洞があり、至るところに金属片や機械が転がっていた。立地や部屋の造りに反して、家具や雑貨、ゴミのように放置されている金属は、高級なものばかりだ。 「……ふん……、少し待ちなって」 「ま、待て。お前の名前を知りたい」 「…………メイ」  メイは呟き、ロンを置いて部屋の奥へ入っていった。 「……姉さん、姉さん! どこにいるんだがやぁ!」  ロンは、部屋の入口で突っ立ったまま、辺りを見回した。床に落ちている機械は、ブレウィズではかなりの値段のつく一級品のように見える。机の上に置いてあるものは、今市場に出回っているものよりも、もっと緻密で性能が高そうだ。 「……ロン?」  突然声をかけられて、ロンは慌てて振り向いた。そこには、身体の半分程が機械になった、女のニンゲンが立っていた。 「君は……」  女は薄着で、惜しげなく晒された肌の色は白かった。ロンの胸ほどもない身長で、腰には工具をぶら下げている。彼女は、金の縮れ髪を揺らして、ロンに詰め寄った。 「私はハツ。お前がロンか?」 「ああ、俺がロンだ。クロバロン」 「呆れたな。どんなものかと思っていたら、ノアロより弱そうなのが来た」  ハツと名乗った女は、嘲笑を浮かべてロンを見上げた。それから、少し俯いて呟く。 「…………そうか、お前が来たということは、ノアロは……」  ハツの声は、嘲るような色味を持ちながらも、寂しそうだった。ロンはやや俯く。ハツは顔を上げると、ロンに詰め寄ってきた。 「……お前、ノコノコついてきてどういうつもりだ? もしメイが、お前を殺すつもりでここへ連れてきていたなら?」 「そうだが! 旅人は銃を見えるところにふけなけーば! こんな格好でふなふな歩いていたら、死んじまうが!」  ハツの後ろから、メイが叫ぶ。ロンは小さく首を振った。 「俺は銃を持っていない」 「やぁ!? 鉛銃もだがな!?」 「…………旅をするのに銃もないなんて。ノアロ以上のバカじゃないか」  ハツは呆れた声でそう言って、ため息をついた。ロンはまっすぐにハツを見つめて口を開く。 「銃はいらない。銃では、何も解決できない」 「お前はなんて傲慢なんだ」  ハツは大げさに首を振った。 「銃で解決できないことが、話し合いで解決できると本気で思ってるのか?」  ロンは俯く。それから、言い訳でもするかのように、小さく口を開いた。 「俺はただ、通るだけだ。目的はあいつで……俺は街の奴らと問題を起こすほど深く関わるつもりもない」 「……はあ。ブレウィズの出身なだけあるな。そんなんじゃ、そのノアロに辿り着く前に、死んでしまうが……」  ハツはため息をついて頭を抱えた。 「……昔、ノアロに頼まれたことがある。ふいて……ついてこい」  ハツに案内され、ロンは部屋の奥へ進む。彼女は多くの高級機械が並んでいる中から何か取り出して、ロンに突き出した。 「…………ほら、これをやる」 「これ……」 「……この街にもしお前が来たら、これを渡してくれと言っていた。私の作ったものだ、品質は保証するよ。弾は一発きりだが、まあ、こんなものはほとんど、見えるところにつけておいて、面倒事を避けるためのものだ。必要になったら、その時オーティジアかどこかで買えばいい」  ハツの手の中にある、冷ややかな黒。  ロンはそれを恐る恐る持ち上げた。 「これは……銃か……? 本物を初めて見た」 「何言ってるんだ。ノアロがいつも腰につけていただろう」  ハツは当然のように言う。ロンは驚いた顔をした。 「……俺は見たことがない。アイツが銃の話なんてしてるところも、聞いたことがない」  ロンの言葉に、今度はハツが驚いた顔をした。 「呆れた」  彼女は頭を抱えて、首を振る。それから、そっと目を伏せて口を開いた。 「……いや、可哀想なのか。お前はノアロが生き物に向けて躊躇なく銃を構える男だと知らなかったんだから」  ロンはまっすぐにハツを見つめる。その目は、ゾッとするような黒をしていた。 「……俺がノアロの全てを知らないなんて、分かりきっていたことだ。その上で、俺はアイツが好きなんだ」 「………愚かだな」  ハツは冷たく言い放つ。機械の左目が、冷ややかにロンを見下ろした。しかし、機械でない方の右の目では、彼女は確かに笑っていた。 「…………だが、お前こそが、ノアロの唯一のニンゲンの部分だとも、知っている」  ハツは右手をぐっと差し出した。それから、右の瞳をにっと細める。 「……歓迎しよう、愚かなる友よ。私はハツジェラヤ、ハツだ。弟は、メイジェラマ」 「……ロンだ。クロバロン」  ロンはゆっくりと右手を持ち上げ、その手を弱い力で掴んだ。  ガタン、と突然扉が開く。と同時に、部屋に少年が勢い良く飛び込んできた。 「せーんせっ! こんこん!」  ロンは、さほど驚いた様子は見せず、ただ、やっと来たかとでも言うように彼を振り返った。 「…………ノア」 「……怒ってる?」  ノアロは、ほんの少しだけしゅんと小さくなった。 「何を」 「…………俺が勝手に学校やめたこと……」  旅を始めて一年。ノアロはとうとう学校をやめた。元々、学校に行く生物のほうが稀というくらいの時代だ。ロンにとっても、生徒が突然学校をやめるなんてことは珍しくもない。  しかし、ノアロは事情が違う。それは、ノアロ本人も分かっているようだった。 「お前は俺が見てきた中で一番学者に向いていた。観察眼と考察力、知識、そして探究心……どれを取ったってすばらしい」  ロンは、ソファーの横を叩き、ノアロに座るよう促す。しかし、ノアロは俯いたまま、その場から動こうとしなかった。  ロンはため息をつく。 「……だが、怒ってなどいない。こんなのは最初から、なんとなく分かっていたことだ」  そう言って、ロンはノアロの腕を掴んだ。ノアロはびくりと跳ねる。  ノアロの腕には、新しい"✕"が刻まれていた。何で付ければこんなことになるのか、傷の周りは紫に変色し、膿んでぐしゃぐしゃだった。 「……お前、またその癖か」 「ご、めんなさい……」  ノアロは更に体を縮こまらせ、きゅっと手のひらを握った。そんな少年の様子を見て、ロンはふっと微笑む。 「困った自傷癖だ、本当に」  ロンは、救急箱を取り出すと、ソファーを再び叩いた。 「……ほら、おいで」  ノアロは上着を脱ぐと、大人しく示された場所に座った。 「何で切った?」 「……セシティウム」 「特殊金属か……」  傷口に破片が入っていないか、念の為確認をする。セシティウムには毒性があり、普通ニンゲンが触ると、重い火傷のような症状を引き起こす。破片が体内に残っていれば、そこから致命傷にもなりかねない。  幸い、金属片は見当たらなかった。ロンはほっと胸を撫で下ろし、救急箱を開く。 「…………お前は、何故旅に出る? 学校をやめた後ろめたさくらいでこんなになってしまうほど、臆病で繊細なお前が」  ロンはノアロの傷口に薬を塗りながら尋ねた。 「学校をやめた後ろめたさじゃなくて、先生を裏切った悔やましさだ」 「どっちも同じだ。大したことない俺のわがままだろう」  ノアロは、また少し俯いた。ロンは項垂れてしまったノアロをまっすぐに見つめて、低い声で言った。 「…………死ぬためか、ノアロ」 「それは違う!」  ノアロは勢い良く顔を上げて、ロンの目を見た。 「……生きるために、旅に出てるんだ」  灰の瞳は、しっかりと輝いていた。 「スリルは、俺の『生きたい』って気持ちから出てくるもんだ。俺は、普段はそれが分かんない。けど、一歩外へ出れば、まるで俺のじゃないみたいに心臓が跳ねんだよ。先生、まるで……、まるで生きてるみたいに……!」  ノアロは、半分狂ったようにそう言った。ロンは驚いて、そして悲しくなった。  この街にいた彼は、色のない少年だった。確かに彼は、旅をして、ニンゲンらしい表情をするようになった。  けれども、あの頃の小さな少年が、死体だったとは思えない。彼は息をし、苦しみ、もがいてロンにしがみついた。それがどうして、「生きたい」という気持ちでないと言えよう。 「……ノア。お前の心臓は、いつもちゃんと動いている」  ロンは立ち上がると、ひきだしを開き、一本の赤い紐を取り出した。それから、紐の端と端を結んで、ノアロの前に掲げてみせる。 「……先生?」 「ノア、これが何に見える」 「…………ええと……紐」 「これは、マルだ、マル」  ロンは、そのマルをノアロの腕に通し、二重に巻いた。 「……お前にマルをやる。特上のマルだ。知の探求者、ドクターロンからのマルだぞ」  そう言って、ロンはノアロの腕をきゅっと掴み、真剣な顔で彼を見つめた。 「…………生きたいって分かんなくなったら、これを握って思い出せ。お前は生きていること。お前の命には、他でもねぇ俺からのマルが付いてるってこと」  ノアロは変な顔をした。彼は紐を摘むように握って、少し引っ張る。 「……こう握るんだ」  ロンはノアロの腕に手を伸ばした。左親指からまっすぐおろしたところを親指で押さえ、他の手で手首を挟むように握らせる。  ノアロが、ふっと顔を上げた。 「…………これ脈測ってるだけ」 「ったり前だろうが。お前が馬鹿みたいなこと言うから馬鹿みたいなこと言っちまったんだこっちは」  生きてるみたいに、だなんて、まるで死体のようなことを言うノアロが、ロンはどうしても受け入れられなかった。彼は生きていた。昔も、今も生きている。  ロンは少し恥ずかしそうに言い訳をこぼしてから、ぎゅっとその腕を両手でつかむと、力を込めて握った。 「……お前は今も生きてる! ……そうだろ、ノア」  ノアロは一つ瞬いて、ロンの身体を抱きしめた。ふわりと青い髪が舞い、ロンの黒髪と混じり合う。 「……何故ハグなんかするんだ」 「…………分かんねぇけど」  ノアロは、胸と胸がくっつく距離まで身体を寄せる。 「こうすると分かる……俺の心臓、外にいなくてもちゃんと動いてるって……」  耳元で、ノアロの小さな声がする。自然と、身体に熱が籠もる。 「…………あ、先生も生きてる」 「当たり前のことを……言うんじゃない…」 「……これが先生の心臓の声かあ」  ノアロは、ロンの首元に擦り寄って、更にぎゅっと彼を抱きしめる。ロンの耳の下、顎の骨の横に耳を当てて、彼の鼓動を聴く。 「……よしなさい、ノア。恥ずかしい」  ロンはくすぐったくなって、たまらずノアロの胸を少し押した。ノアロは顔を上げて、それからロンを見下ろした。 「……ノア?」 「……拒否して先生」  そう、囁くように言って、ノアロはロンに顔を近づける。状況を理解できていないロンが瞬きをする内に、彼はロンの唇に口づけた。 「……っな、お前……ッ」  ロンは驚いて口を開く。そこに噛み付くように、ノアロはキスを続けた。渦巻く熱と苦しさで溢れる吐息ですら飲み込むように、休みなく。  まるで捕食するかのようにロンを貪って、ノアロはやっと顔を離した。 「…………先生」 「お前……そんな声で俺を呼ぶな……」  ロンは息を荒げたまま、ふっと目を逸らす。ノアロはロンの頬を撫で、ロンの腹の上から彼を見下ろしたまま続けた。 「…………ねえ、先生、傷ついた? こんな慕われ方されて」 「なぜ傷つく必要がある」  ノアロの目が見開かれ、それからすぐに彼は俯いた。 「嫌になった? 俺のこと、もう嫌いになった?」 「……なぜお前を嫌いにならなきゃならないんだ」  ノアロはロンの口にキスをする。ロンはその頭を、優しく撫でた。 「……拒否してよ、先生……」  ノアロは呟く。身体を起こし、ロンの胸ぐらを掴んで、長い髪を垂らす。 「そしたら、俺は何もかも持たずに旅に出られるのに」  青い髪の隙間から、ポタポタと涙が落ちた。こぼれ落ちる雫を拭うこともせず、ロンはただ、それを見つめていた。  何かを削るような、機械の音に目を覚ます。少し身動ぐと、壁に腕をぶつけ、痛みに思わず目が開いた。 「お目覚めか?」 「……うぉっ……」  突然声をかけられて、ロンは飛び起きる。溶接面を外しながら、ハツがくつくつと笑った。 「……ハツか。はあ、驚いた……」 「よく寝ていたな」 「ああ、そうらしいな……」  ロンは辺りを見回す。時計を見ると、針はほとんど昼を指していた。 「ドクター、洗濯物が乾いているよ」 「ありがとう。助かった」 「構わない。貴方が教えてくれた商学の話はかなり興味深かったよ」  ハツはロンに服を手渡す。機械で乾かしたのか、ほかほかと暖かい服に、ロンは感動した。  主人の目覚めに気づいたのか、突然シーザが部屋に飛び込んできた。起き上がったばかりのロンの膝上に飛び乗って、体中を這いまわる。 「……このネズミは図々しいな、ドクター。人のものばかり欲しがる。随分お前に甘やかされたようだ。……ノアロも、お前に甘やかされすぎてああなったんだろう」  ハツはくつくつ笑って、シーザに手を伸ばす。シーザは彼女をちらりと見るだけで、ロンの膝上から動こうともしなかった。 「君にとって、ノアはどんなニンゲンだった?」 「ノアロか……」  ハツは呟く。苦笑を浮かべた彼女を見て、ロンは首を傾げた。 「……私の夢をぶち壊した男……だろうかな」 「夢をぶち壊した?」 「そう」  ハツは笑う。それから、自分の身体に手を当てて、少し俯いた。 「なぜ私がこのようなハンパな姿をしていると思う?」 「……移植の途中なんだと思っていた。違うのか?」 「……さすが先生、機械人間にも詳しいか……」  永遠の命を求めて、機械人間になるニンゲンは、少なくない。まして、スティミューラならば、金属くらいいくらでも手に入る。  機械人間になったニンゲンは、かつてのニンゲンのような暮らしを手に入れることができる。陽を浴び、雨にうたれ、世界のどこへでも行ける。それは、この窮屈な現代において、ニンゲンの夢とも言えた。 「……確かに、私は移植の途中だ。……だが、移植が完成されることは……もう絶対にない」 「なぜ?」  ロンは尋ねる。  機械人間になる方法はいくつかあるが、身体を少しずつ機械化していく方法が、最も安全だと言われている。時間はかかるが、確実に機械人間になれる方法だ。その方法を取ったにも関わらず、移植を途中でやめることはかなり珍しい。  ハツは右の目を伏せて、そばにあった椅子に座った。 「……幼い頃の話だ。幼かった私は、好奇心から外へ出て……酸の雨を全身に浴びた。かろうじて命は助かったが……身体はあちこち溶けていびつになった」  ロンは彼女を見た。まだ機械化されていない腕や足などは、ロンの右腕と同じように、ぼこぼことクレーターのような痕が残っている。 「……私は、それから機械人間への進化を始めた。暗い部屋で本を読んで、多くの技術と素材を得てきた。日にも当たれぬ貧弱な身体が嫌いで……昔のニンゲンがそうだったように、陽の下で歩き、雨の中を走りたいと思っていた」  ハツは機械化された右手の指先を眺める。握ったり開いたりしながら、彼女は話を続けた。 「……そのためにだけ生きていた。知らない機械人間が、自分一人の力で部分的な機械化を成功させた幼い私に、技術を教えに来た。……私は地上へも出なくなって……生まれてすぐ親を亡くしたメイのことも、少しも気に留めていなかった」  ハツは、小さく息を吐いた。まるで、かつての自分を嘲り笑うかのような顔をしていた。 「……そんな中、ノアロはノコノコここへやってきて……」  ハツは自分の右瞼を触って、微笑んだ。 「……アイツは、私のこの目が好きだと言った。私の、この溶けて何も見えない……、穴の空いた瞳を。…………それから、機械の街はつまらないと口をとがらせた」  ハツはふと顔を上げ、ロンを見る。それから、苦笑いを浮かべた。 「貴方にする話ではないかもしれないがね、ドクター。私は彼のお嫁さんになりたいと思った」 「……そうかい」 「ふふ、若い頃の話だ、そうわかりやすく拗ねないでくれ」 「拗ねているつもりでは……。アイツが種族性別問わず好意を抱かれやすいことは知っているし、よく分かる」  ロンはそう言った。  彼の魅力は、どこか本能を煽るようなところがある。あれこれ考える暇もなく、気が付いたときには、もう彼に手を伸ばしているのだ。どんな生き物だろうと、必ず惹かれてしまうような魅力が、彼にはあった。 「……貴方という思いビトがいるのは知っていた。だが、貴方より、私のほうが、彼が必要だと思っていた。身体を作り変えることをやめて、彼のために言葉を学んだ。なんだかな……その頃、この歪な身体が、少しだけ好きになったよ」  ハツは微笑む。かつてを思い出し、ほんのり頬を染めるその仕草が、乙女のようで愛らしかった。 「……だが、いつかここへ来たノアロは、手首に細い糸を巻いていた。見せてくれと頼んだら……、彼の腕が、ボロボロであるのを知ってしまった。……ノアロは弱い男だと知った。そして、あんなに脆くて儚い生き物を生かしているのが貴方だとも」  ハツは足を組み直し、机の上に肘をつく。 「……私には、ノアロをただ頼りにするだけの私では……、彼を生かせないと思った。……負けたと思ったよ、悔しかったね」  ハツはくつくつ笑った。 「……貴方は素晴らしいな、ドクターロン。どうやって、あんな、死に向かって歩いているような男を生かし続けていたんだ?」 「……せがんだ」  ロンはぽつりと言った。 「生きろ死ぬなと惨めに懇願しただけだ。アイツの気持ちなど知らない。ただ生きろと叱った」  ハツは目を何度も開いたり閉じたりして、それから大口を開けて笑った。 「……ふふ、ははは! ああ、なんだ。自由の人(ミスターノア)は、案外自由を縛られるのが好きだったのか」  しばらく肩を揺らして笑ってから、ハツは目を伏せる。 「……だが、それならなおさら、私では、貴方に勝らないだろうな。私は、あの自由の下でキラキラと輝く鳥を縛れない」  小さく首を振るハツに、ロンは落ち着いた声で言った。 「俺は、アイツを縛ったつもりはない。旅に出てから、透明でつまらなかったアイツに色がついた。……あまりに綺麗だった。止められるはずがないだろう。……ただ、俺は……、俺が、アイツの帰るところだと理解していた」  その言葉を聞いて、ハツは椅子に座り直し、小さくため息をついた。 「……ああ、それなら納得だ。永遠の自由ほど、恐ろしいものはない。……あの気の狂った臆病者が求めたのが貴方という首輪だったのは、分かる話だ」 「……気の狂った?」 「……いつだったか、あの男に好きだと言ったら、『君では駄目だ。先生になれ』と言われたんだ。分かるか? こちらはいたいけな少女だぞ? さすがにあの男が怖くなったがぁ……」  ハツは、ケラケラと笑った。まるで、少女のように。 「そういう訳だ。私の、『お嫁さん』という純粋無垢なかわいらしい夢が、アイツの狂気にぶち壊された」 「……アイツもバカだなぁ……。俺はアイツにまず、レディの扱いを教えるべきだったか」 「ぜひ叱っておいてくれ、ドクター。私はしばらく夢に見たぞ」  ハツは立ち上がり、作業場の方を見つめた。作業場では、姉の代わりにメイが金属片を一ヶ所にまとめたり、機材を元の場所に戻したりしていた。 「……貴方は、ノアロのニンゲンの部分だと、私は思っている。言い方を変えれば、ノアロの、唯一の弱点だ。若い頃、貴方がいるから彼が弱ると思った日もあった。……だが、その弱さがなくて、誰がニンゲンであれるものかと、今なら分かる」  ハツの目は、遠くで機械をいじる弟を見つめていた。彼女の生の瞳に、はっきりとした感情が浮かぶ。ロンは彼女を見つめ、微笑んだ。  次の日の早朝、二人は地上までロンを見送りに出てきた。まだ人通りもほとんどなく、薄暗い街は、嵐の前のように静かで、心がじんと震えた。 「……跡追旅行なら、送り出すに相応しい言葉を知っている」  ハツはそう言って、ロンの手をきゅっと掴んだ。 「お幸せに、ロン先生」  跡追旅行を行う旅人に、「お幸せに」と声をかける。なんとも残酷で、希望に満ちた、美しい文化だろう。  ロンはその手を握り返して、柔らかく微笑んだ。

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