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第7話 妖精の森

 谷の底、ヴァレイ村を取り囲む、妖精の森。辺りの空気は、少し吸い込むだけで気管まとわりつくようで、ロンは酷く咳きこんだ。  シーザが、ピュイと鳴いてポケットから顔を出す。その頭を撫でて、ロンは首を振った。 「大丈夫だ、シーザ。少しむせただけだから」  辺りに立ち込めているのは、妖精の出すフェロモンだ。花粉に似た、独特の匂いのある物質である。昨日まで行われていた村祭りで、盛大に盛り上がって、大量に放出されたフェロモンが、まだ森に留まっていた。これらは毒とまでは言えないが、大気のゴミのようなもので、生き物の気管支や肺を汚してしまう。 「……はぁ。妖精の森を抜ける最も最良のタイミングとは思えんな……。もっとあるだろう、こう……」  ブツブツと文句を言いながら、ロンは足を動かす。  リヒの話によれば、妖精たちは、普段は活発に動き回って人々を惑わすが、今は祭りで疲れて眠っているらしい。  ヴァレイ村の祭りは、四日間、妖精と共に踊り続けるというものだ。祭りにはロンも少し参加したが、四日もの間、気の狂ったように踊り続ける村の生き物と妖精たちを見ていたら、なんだか頭がおかしくなってしまいそうだった。普段は音の絶えない妖精の森も、今日ばかりはさすがにしんと静まり返っている。 「ハァ……方向感覚が狂っちまいそうだ。川があってよかった」  ロンは呟く。足元で流れる川を頼りに、ロンは森を進んだ。この川に沿って歩けば、いずれ砂漠地帯に出るはずだ。  ロンはゆっくりと、立ち止まらずに歩く。フェロモンが立ちこめている影響で、かなり酸素が薄く、上手く頭が回らない。ロンの浅い呼吸音以外には、本当に何の音もしない森を、彼はひたすら、思考を放棄して歩き続ける。  ぼんやりと、視界がふやけて揺れる。 「……クソ、視界が悪いな……」  ロンは目をこする。そのとき、ふっと一瞬、頭のもやが晴れた。  ロンは顔を上げた。ほとんど何も見えない。目を閉じて、頭を振る。 「……どこだ……ここ……」  方位磁針を持ち、地図を開こうとするが、それさえままならない。ロンは、この状況に違和感を覚えていた。しかし、まっすぐ立っていることがやっとの状態で、まともな思考などできない。  ロンは地面に倒れ込む。ポケットから飛び出してきたシーザが、ロンの顔を見上げていた。  ロンはシーザに手を伸ばす。腕に登り、何か言いたげにこちらをじっと見つめるシーザの向こうに、今まで目印に歩いてきていた川が見えた。 「……そうだ、音……、川の音がしない……!」  それに気が付いた瞬間、ぐんとロンの身体が強い力で引っ張られ、ふわっと浮いた。ロンは咄嗟に身体をひねる。が、すぐに何かにまた捕まってしまった。 「……う、何…………ッ」  ロンは自分の身体に巻き付くものの先を見て、驚きに目を大きく見開いた。 「……"マザー"?」  ロンを持ち上げたものの正体は、水の入った袋のようにぶよぶよとした巨大な身体と、身体の大きさに見合わない小さな羽を持ち、数え切れないほどの触手を持った生き物だった。  マザーフェアリー。妖精たちの巣であり餌であり、統率者だ。 「やられた……っ! いつから……」  どうやら、妖精に幻覚を見せられていたようだと、ロンは今ここで初めて気がついた。焦りが心を支配する。  いつから? 何が、どこまでが幻覚? もしかすると、初めから、何もかもが――ロンは鈍る頭をなんとか動かした。 「シーザ、逃げてろ、シーザ……ッ!」  ロンはシーザを無理やり掴んで地面に放った。シーザは、心配そうにオロオロとロンを見上げている。 「……俺を一体どうするつもりだ? この身体は、俺とノアロのモノだぞ、マザーフェアリー」  マザーフェアリーは、ケラケラと笑うかのように体を揺らして、ロンの口に触手を滑らせる。 「……ン、ん……ッ! あ、が……っ、ぁ……ッ!」  ロンの口内、そして喉へ、触手はするすると進んでいく。喉奥が圧迫されて、ロンは胃の中のものを戻してしまった。  マザーフェアリーの触手からは、タンパク質を分解する毒が放出される。つまり、生き物の身体を溶かしてしまう毒だ。溶かされた生き物はマザーフェアリーに吸収され、養分となる。彼らはそうやって、マザーフェアリーの中に栄養を貯蔵するのだ。 「……っ、ゔ……ッ、ぇ……っ、あ……ゔ……」  吐瀉物を撒き散らしながら、ロンはなんとかその触手に触れる。掴んで引っ張ったが、ニンゲン程度の力ではどうしようもないようだった。  視界が白む。意識さえ朦朧とする。ロンは目に涙を浮かべながら、自分の腹の中で触手が暴れ回る感覚に耐えていた。 「……あ……、は……っ、この……ッ」  暫くして、触手はするりと身体から出ていった。ロンは未だ嘔吐きつつ、なんとか逃げようと模索する。  触手は、今度はロンの身体を、雑巾のように捻った。 「あ゙ッ、あ゙ああぁ!」  ミシミシと骨が音を立てている。息ができなくなる。短時間に、意識が浮き沈みを繰り返す。  死ぬと思ったとき、マザーフェアリーは突然動きを止めた。 「……は、……は……っ、はぁ、はあ……ッ!」  ロンは霞む視界でぼんやりとそれを見つめる。マザーフェアリーの後ろから、妖精たちがその身体を啜っているのが見えた。だ。妖精たちが、眠りから覚めたのだ。 「はぁ……っ、はあ……ッ」  ロンはナイフで触手を切っていく。大人しいマザーフェアリーの触手は、いくらか切ればあとは簡単に払うことができた。急いで地面に飛び降りて、歩くことさえやっとの体で、とにかく遠くを目指す。  足元から、シーザが登ってきて首に巻き付いた。 「はあ、はぁ、シーザ、じっとしろよ……ッ」  しばらく走って、ロンは地面に倒れ込んだ。上半身を起こすこともできないままで、胃液を吐く。 「っ、ゔ…………ッ、ぇ、……は……っは、……ぁ」  なんとか自分の口の中に指を入れて、吐き気を起こさせる。しかし、胃がおかしくなったのか、胃の中の毒液が全く吐き出されない。ロンはすぐに水を飲み、また指を入れた。 「はぁ、……は…………はぁっ、ぇ……っ、ぉ……」  何度も繰り返して、吐き戻されるものがやっと水と胃液だけになったとき、ロンは地面に倒れ込んだ。内臓の痛みに、指が地面をざりざりと抉る。  シーザが心配そうにロンの周りをうろうろと動き回っている。主人が動かないのを見て、シーザは慌ててどこかへ駆けていった。 「……ノア……」  ロンはぼんやり呟く。視界が、悪くなっていく。  「……は、ノア、悪いな……」  目の前で、幼いノアロが心配そうな顔を覗かせている。ロンはベッドに横たわり、布団を二枚被っていた。 「先生、どこか悪いんだろ? お医者さまにみてもらおう」 「大丈夫、原因は流行り病だろう。培養哺乳類のな。大した病気じゃない」  ロンはそう言って、少し咳をした。ノアロは首を傾げる。ロンの顔をじっと見て動かないノアロに、ロンは苦笑をこぼした。 「……お前、もしかして培養哺乳類を知らないのか?」 「うん、先生」  ノアロは頷いた。 「培養哺乳類は、試験管の中で培養されている哺乳類のことだ。主に……珍しい原生生物が多いな。ほら、昔ブタを食わせてやったのを覚えているか?」 「……先生は、培養哺乳類なのか?」  こちらの質問に質問で返すノアロに、ロンはおとなしく答える。 「そうだ。今時、培養じゃないニンゲンはほぼいないだろう。……ニンゲンの頭脳と欲望は、街を支えるのに不可欠だ。ブレウィズの特産品は、ニンゲンだと言われるくらい、この街の培養技術は凄まじい」 「ニンゲンを……つくる……」  ノアロは小さく呟いた。ロンは誇らしげな顔をして、ノアロの頭を撫でる。 「ブレウィズには古くから進化してきた遺伝子組み換えの技術があるから、ニンゲンの性能が良いんだぞ」  ノアロは俯く。 「……じゃあ、先生は、この街の頭脳になるために作られて、頭脳として生きて死ぬのか……?」 「はは、そうだな、ノア」  さも当然のことのように、ロンは言う。ノアロが、目を見開き、青い顔で首を振った。 「……そんなの、あんまりだ」 「ノア、万が一お前に感染るといけない。部屋に戻って、レイジアを呼んで世話をしてもらいなさい」 「先生は俺に自由をくれた。檻からだしてくれた。でも、先生はこの街から出られないのか?」 「ノア、俺は幸せなんだ。……うまい飯があっていい仕事があって、お前がいて、これ以上なんて少しも欲しくない」  ロンは咳きこむ。青白い顔に笑みを浮かべ、満足そうにノアロの頭を撫でた。 「…………誰も、先生の見舞いにも来ないのに……? 誰も、こんなに苦しんでる先生に薬をあげようともしないのに……?」  ロンはぴたりと動きを止めた。それから、また微笑む。 「俺の代わりはすぐ作れるからな。脳を使えば、俺と同じ記憶を……知識を持つニンゲンだって簡単に作れる」 「先生は、先生しかいないじゃないか」  目の前の小さな子どもは、鉛の瞳でこちらを見つめる。ロンは目を閉じ、ノアロの肩をぽんぽんと優しく叩いた。 「分かった分かった、ノアロ、部屋に戻りなさい」 「嫌だ。先生が死んだら、もう俺の先生じゃなくなるんだ。俺には先生しかいないのに、先生は俺を殺すつもりなんだ」 「分かった。……ノア、俺は死んだりしない。この感染症は昔からあって、症状が重くなることはないと分かっている」  ロンは呟く。自分の横で鬱陶しいほどに泣き喚く小さな子どもを宥めるべく、彼の頭を撫でた。 「……言うことを聞きなさい、ノアロ……。寝かせてくれ……」  ロンは溜息をつく。今度こそ、ノアロはおとなしく頷いた。  数日後、ノアロはロンの部屋をちらりと覗いた。 「……せんせい……?」  食べやすいように加工された医療食にさえ手を付けず、ロンはベッドに横たわる。呼びかけても少しの反応も見せないロンか心配になり、ノアロは近付いた。 「……先生、ご飯……もっと違うのにしようか? 先生の好きなもの……なんでもいいよ、俺が買ってくるから……」  ノアロはそっとロンの身体に触れる。ロンはほんの少し身動ぐことさえせず、じっと固まったままだった。 「……なんだ、これ……?」  ノアロはロンの首に手を伸ばす。太い血管から、木の枝のような紫色の線がのびていた。 「……せんせい…………?」  ノアロはロンの布団を剥ぐ。袖を捲くってみると、同じように、トラの模様のような線が腕中を覆っていた。足の先も、腹も、どこもかしこも紫色に染まっている。 「先生……? ねえ、先生……!」  ノアロは怖くなってロンを揺さぶった。しかし、ロンは意識が朦朧としているのか、目を開いてもすぐに閉じてしまう。  気がつけば、ノアロは家を飛び出していた。 「どうしよう……先生……先生が……っ」  辺りをきょろきょろと見る。どの生き物も、青い顔をしたノアロのことなど見えていないかのように、すたすたと通り過ぎていく。 「……そうだ、図書館……。先生言ってた、分からないことがあるなら、図書館に行きなさいって……」  ノアロは走り出す。生き物と生き物の隙間を走り抜けると、彼らは鋭く冷たい目でこちらを振り返る。ノアロは転びかけながら走った。ロンがいないと、ノアロは彼らの視線ですら恐ろしかった。  図書館に転がりこみ、ノアロは階段を駆け上がる。ほとんど誰もいない図書館で、医学書のコーナーを探して走った。 「培養哺乳類の本……培養哺乳類の、感染症の本……」  ノアロは血眼になって本を探した。しかし、背の低いノアロでは、上段の本は背表紙の文字さえ読めない。ここには踏み台さえも用意されていないため、ノアロはその場でドタバタと跳ねながら本を探した。  なんとか探し出してきた本をひっぱり出して、机に広げる。近くの受付にいた年老いた鳥人が、ノアロのことをじっと見た。 「おや、ノア坊、本が読めるのかい」 「当たり前だろ! 逆にどうして毎日文字を見ていて読めないんだ」 「あぁ、あぁ、ゆっくり話してくれ、何を言われたか分からなかった。ニンゲンは昔から本当にせっかちだねえ」  ノアロは必死で文字を追った。文字を読むことはあまり得意ではない。更に、専門書となれば言葉も難しく、まだ幼いノアロには文字の意味を理解することさえままならなかった。  ノアロは埒が明かないと本を放り出して、図書館を出る。きょろきょろあたりを見渡して、ある一点に目を向けた。 「……研究所……」  ノアロは鋭い目で真っ白の建物を見つめる。たしか、そうだ。ロンはよく、研究所へ足を運んでいる。あそこなら、ロンを助けてくれるかもしれない。ノアロは足を踏み出した。  研究所の入り口には、「培養哺乳類工場」という文字も掛っていた。ノアロは顔をしかめる。息を吐いて、震える手でドアを開く。 「待て」  建物の中に入ると、すぐに声をかけられた。ノアロは飛び跳ねて振り返る。声の主は、入り口付近に立つ機械人間だった。古い型のようで、あちこち錆びていた。 「お前はロンのところの小鳥だな。何しに来た」 「先生が感染症にかかって、よくならないんだ。首と鎖骨のあたり……あと腕とか、足の付け根……、そういうところに変な模様がついてるんだ。トリ……ええと、違う……。トル……ト……そう、トラみたいな模様なんだ」 「…………ああ、トラモドキ感染症か」 「……トラモドキ? 知っているのか?」  ノアロの灰の瞳は炭のように暗く輝く。 「薬を渡せ!」 「事を急いて良いことがあるものか」  機械人間は淡々とそう言い、なんの感情も映さない、黒いレンズの瞳でノアロを見た。 「トラモドキはだめだ、ロンは死ぬよ」  ノアロの心がきゅっと痺れる。倒れ込みそうになったのを堪えて、ノアロは彼に尋ねた。 「……なぜ? 治す方法がないのか?」 「薬がある。だが、作れない。今ここには材料がない」 「取りに行けばいい! 先生が死んでしまったら、この街は……!」 「大丈夫、また新しい頭脳を育てている。器にロンの脳を入れれば、機械人間として使うこともできる」  ノアロは、まるで話が通じないことに絶望した。この街では、誰一人として、まともな感性を持っていない。唯一の味方であるはずの、己の師ですらも。まるで、自分一人だけが狂っているかのような感覚。ノアロは二本の足を踏みしめて、機械人間を睨み上げた。 「……お前たちは……ッ、先生がたいせつじゃないのか」 「ああ、トラモドキなら、脳に行く前に脳を分離させなければならないな……」  ノアロはその男の胸ぐらをつかんで、強い力で投げ飛ばした。男の首がガコンと音を立てて飛んでいく。 「材料を教えろ、俺が行く」 「はは、無理だ……。お前のような雛鳥にどうこうできるものじゃない」 「教えろ!」  ノアロは吼えた。頭だけになった機械人間は、途切れ途切れにこう言った。 「森に咲く、"キツネビ"という花がある。それの根っこが、トラモドキに効く」 「……キツネビ……」  ノアロは絶望した。機械人間は、わずかに嘲笑うかのような声で、呟いた。 「お前に、リュウグウキリンの縄張りに足を踏み入れることができるか? 臆病で何もできない、この街の何の役にも立てないお前が」  機械人間の声はプツンと途切れた。ノアロは、不甲斐なさと怒りに震えた。 「何がだ、この人の心を持たない化け物が」  ノアロは呟く。深い憎悪が、腹の底を煮えたぎらせていた。  ノアロは家に帰ると、学校の鞄に水筒と少しの食料を詰め、おこづかいの詰まった財布も放り込んだ。  鞄を背負い、服を整える。青い髪をきゅっと結ぶと、自分の表情も、少しはきりっとして見えた。ロンの部屋の扉を少し開く。奥に、苦しそうに呼吸する師の姿が見えた。ノアロは震える身体をなんとか動かして、彼のそばへ寄る。 「…………先生、お願い。怖がりを殺して……」  ノアロはゆっくりロンの手を握る。震えを押さえ込むように、額に押し当てて、ぎゅっと祈った。 「……大丈夫……怖くない……」  柔らかく、冷たい手のひらの感触に、ふっとロンは目を開く。灰に虹を映した、美しい獣のような瞳。決意を宿して、爛々と揺れて輝いている。 「……ノ、ア……?」  ロンは手を握り返す。ノアロの括られた柔らかい髪が揺れた。  ノアロが手を離すと、ロンはふっと、ただならぬ不安を感じた。あまりにも残酷に、それは動けないロンの心を貫く。 「……ノア…………」  ロンの腕は持ち上がらない。ムカデのように寝床を這いずって、ノアロの背を追った。ノアロはドアを開けて、フードを被ると、ぽんと吹っ切れたように家を飛び出した。  それは、まるで雛鳥が巣立つ瞬間のような、そんな寂しさをロンに感じさせた。  「……俺は身体が小さいから……きっとリュウグウキリンは気付かない……」  ノアロは、ヨロイキボウの柔らかな葉の下から、リュウグウキリンの巣を覗いてそう言った。リュウグウキリンの巣は、森の木々を切り倒して作られる。もし森で木々が根こそぎない場所に出たら、そこはリュウグウキリンの巣である可能性が高いと言う。  ノアロはじっと遠くを見つめた。巣の奥は小高い丘のようなものに囲まれており、行き止まりになっている。太陽光を反射して、キラキラと眩しい。あれが、目的のキツネビの生える場所だ。 「……大丈夫……、なんだってできるさ、ノアなら……」  胸に手を当て、ロンが自分に繰り返した言葉を呟く。異様に喉が渇き、数日何も食べていないせいで身体もうまく動かない。けれど、ノアロのぺったりと灰の絵の具を塗ったような瞳は、少しもぶれることなく目標を見つめていた。 「……リュウグウキリンは耳や目が悪い。しかし、少しの地面の振動でも感じ取る力を持っている。それは、五キロ先で、子どもが飛んで跳ねたほどの振動だ」  知識の人であるロンの教えてくれたことを思い出す。リュウグウキリンが、ノアロが巣に入ったことに気がつくかどうかは、彼らが今、ノアロからどれだけ離れているかにかかっている。 「大丈夫……、大丈夫」  ノアロは目を閉じ、ゆっくりと開いた。鞄を投げ捨て、地面を踏みしめる。 「…………行こう……!」  ノアロは足を踏み出した。もう片方を前に出す。 「……は……、は……ッ!」  ノアロは走り出していた。リュウグウキリンは動きが遅い。大きさはかなりのものだが、ここまですばしっこく動く小さな子どもを、彼らが殺せるはずがない。  ノアロは無我夢中で走った。だんだんと、足場が悪くなる。草原に埋まった小さな鉱石が、しきりに視界を通り過ぎていく。何の音も、耳には入らない。ただひたすら、足を動かした。  巣の最奥部に辿り着き、ノアロは顔を上げる。瞳に飛び込んできた光景に、ノアロは思わず声を上げた。 「……ぅわ……ぁ……っ」  自分を取り囲む、幾千もの鉱石と、光る草花。青白い光を放つそれらの中に交じる、青紫色の花、キツネビ。キラキラと、どんな鉱石にも花にも負けぬ眩さで、それは美しく輝いていた。  ドクドクと、心臓の鼓動が強くなり、息が上がっていく。まるで、自分までもが宝石になったかのように感じるほど、その光景はすべてを飲み込む圧倒的な力を持っていた。  ノアロは興奮したまま、キツネビに手を伸ばすと、ゆっくりとひとつ引っこ抜いた。それはノアロの手の中でキラキラと星のように輝いて、灰の瞳を紫に染めた。 「キツネビ……。これが……リュウグウキリンの愛でる花」  その時、ノアロのすぐ近くで、ガシャンと大きな音がした。さっと血の気が引く。ノアロは慌てて顔を上げた。ソレは、鉱石のように輝く身体をゆっくりと動かして、キツネビの生える最奥部へ入ってきた。  リュウグウキリンだ。ノアロは驚いて、その場で倒れそうになった。足が動かない。自分の十倍くらいの大きさの生き物が、今、自分の目の前にいる。息が詰まって、同時に、その生き物の美しさに目を奪われた。  リュウグウキリンは、ゆっくりとノアロの前までやってきて、その場で動きを止めた。首をノアロの方へ折り曲げて、ほんの数十センチ先まで顔を近づける。ノアロはリュウグウキリンの顔を見上げた。半透明の鱗は、太陽の光をキラキラと反射し、瞳は小さく揺らめいている。彼はゆっくりと瞬いて、その赤い瞳でノアロを見つめた。  その瞬間、ノアロは突然、ふっと全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。身体が軽くなり、胸の鼓動は徐々に落ち着いていった。まるで、安心したかのような身体の反応に、ノアロ本人が驚愕した。 「…………あり、がとう…………」  ノアロの口から、そんな言葉が転げ出た。  リュウグウキリンは、その見惚れるほど美しい鱗を鮮やかに輝かせて、ノアロのそばを通り過ぎていく。最奥部に立ち、リュウグウキリンはノアロの方を振り向いた。鉱石の中で輝くその生き物は、涙が出そうなほどに美しかった。  リュウグウキリンは、光の中で俯いた。次の瞬間、ノアロの目の前で、彼の鱗が、頭の先からサラサラと身体を離れていった。  衝撃と興奮が、ノアロの全身を支配していた。ノアロは、まるで白い花びらのように空を舞う彼の鱗と、鱗が離れて尚柔らかく佇む彼の表情を見て、灰の目を虹色に輝かせて笑った。  ノアロは、彼の身体が全て朽ちるのを見届けて、その場を去った。手にはキツネビを握りしめ、我を忘れたかのように走る。心臓が、激しく音を立てている。息が上がる。その生命感を、感じて走った。  森を抜けてブレウィズ行の電車へ乗ったとき、もうその溢れんばかりの感動はすっかり消え失せていた。ノアロはキツネビを抱えて、ただ己の師のために走った。  ノアロはキツネビを持って研究所へむかった。中へ入ると、受付に立つ機械人間が、ノアロのことをギロギロと見た。 「トラモドキの薬を作ってくれ! 俺は材料を取ってきたんだ、必ず作ってもらうぞ」  機械人間はゆっくりとカメラのピントを合わせた。手の中にあるキツネビを見てから、ノアロの顔を見る。 「……そこまでして、ロンを救いたいのか、少年」  この前とは違う声だった。ノアロは頷いた。 「……俺にも、そんな気持ちがあったような気がする」  機械はおもむろに手を伸ばし、その花を掴んだ。 「俺達はもうニンゲンではないということか。彼のことを冷たい機械だと馬鹿にしていた頃を思い出すな」 「彼って、誰だ」 「この前お前が殴り倒したやつだよ。機械脳信号が古すぎて、廃棄処分になったがな」  機械人間は、ノアロを手招き、白い廊下を歩いていく。ノアロは彼の後を追った。 「窓の中を見給えよ少年。ここが、お前の先生が生まれ育った場所だ」  ノアロは、窓を覗きこんだ。培養液の中で、小さな、ニンゲンのような生き物が浮いている。その隣の部屋では、ニンゲンの子どもが、真っ白な部屋で教育を受けていた。 「…………お前の先生の子ども……というか、お前の先生の精子から作られた子どももいるぞ」 「あの子だろう。今壁際で本を読んでる」 「よく分かったな」 「……真面目な顔が先生に似てる。お前たちは似てるかどうかをパーツでしか判断できなくなっているんじゃないか?」 「そうかもな、少年」  機械人間は、冷たい声でそう言った。ノアロは、自分よりも小さな子どもたちを眺めて、目を伏せる。  ノアロは、多くの薬剤が保管してある部屋に通された。機械人間は、棚から薬剤を抜き取りながら尋ねる。 「…………お前の生まれは、もしや"エデンの箱庭"だな」 「どうでもいい。早く薬を作れ」 「あそこはいい場所だっただろう」  ノアロは眉をひそめる。機械人間は、そんなノアロの様子など気にもとめず、薬液を機械に流し入れた。 「ニンゲンにとって、あそこまで完璧な場所は他にない。……ニンゲン保護区"エデンの箱庭"」 「作られた空の下で、作られた空気を吸って、何も知らず穏やかに生きることが幸せだって?」 「……お前は外を知ったからそう言うんだ。外を知る前のお前はどうだった? 太陽の光に侵されることも雨に焼かれて死ぬこともなく、幸せに暮らしていただろう」  ノアロは黙り込んだ。 「……保護区はニンゲンを出荷しない。つまり、密猟で連れて来られたんだな。お前は髪が青いから、東区の子どもだろう。東区で、ここ十数年で行方がわからなくなったこどもは……女児が五人と、男児が一人……七歳か」 「それを記録しておきながら、俺たちを助けてはくれなかったのか」 「……なんでもいいが、お前、何故エデンの箱庭へ戻ろうとしないんだ?」 「戻る? 馬鹿馬鹿しい!」  ノアロは大声を上げた。機械人間が、ゆらりとノアロを見る。 「俺たちは、知らない間に、生き物に管理されていたんだぞ……? そんな恐ろしいことがあるもんか……、なぜ分からない……? 自分の、全て……悲しみも嬉しさも全て、この体と心の全てが、お前たちの産物だったなんて……!」  ノアロの言葉を聞きながら、機械人間は淡々と手を動かした。 「……少年にしては難しい言葉遣いだ。まるでロンを見ているような気になる」 「お前……!」 「俺にはもう分からない気持ちだ。ぶつけられても困る」  ノアロは彼を見つめて、困惑した。機械人間たちは確かにニンゲンで、けれどいくらニンゲンのように流暢な言葉を喋っても、決してニンゲンにはなり得ないのだ。 「……明日薬を届けよう。早く帰って、お前の先生が死なないか見ておけ」  彼はそう言って、ノアロを帰した。  ノアロが家に入ると、ロンはベッドの上で縮こまって呻いていた。 「先生!」  慌ててノアロは彼に駆け寄った。冷や汗をかき、浅い呼吸を繰り返してシーツを掴む彼の姿が見ていられない。 「先生、お願い、返事をしてくれ」 「の、あ……?」  ロンは、掠れた声でノアロの名前を口にした。 「先生、先生! 俺……っ、薬を作ってもらってるから……! 明日には楽になる、だから先生、お願い、死なないで……っ」  ノアロはロンの背に手を当てる。ロンはゆっくりと眼球を動かした。 「……ノ、ア……」 「俺だよ、俺だよ先生!」 「……どこ、に……行ってた……? だめ、じゃないか……」  腕を動かそうとしたロンが、呻いて嘔吐く。ノアロは泣きながらその背を撫で、一晩中ロンのそばに張りついていた。  次の日、本当に機械人間は薬を手にやってきた。注射器で、薬を注入する。機械人間はロンの様子を一通り確認しながら、呟いた。 「……ロン、お前はいいのを子にしたな」 「先生は助かるのか?」 「分からない。トラモドキは致死率の高い病気だ」  ノアロは俯いた。ロンの右手を握りしめ、それから身体にひしと抱きついた。 「……だが、これは材料が特異なだけに、大抵は薬を投与しない。薬を使っているのなら、生存率は少しは上がるだろう」  機械人間は淡々と言った。  数日後、ロンの容態は回復した。機械人間は、その間、ロンにつきっきりで看病をしてくれた。 「……ありがとう。助かったよ、ミラ」  ロンにミラと呼ばれた機械人間は、ノアロの方を顎で示した。 「礼はノアロに。コイツはリュウグウキリンの巣へ、キツネビを取りに行ってくれた。それがなければ、お前は死んでる」  ロンの目が、機械人間からノアロへ移る。 「この馬鹿!!!」  大きな声で叫ばれて、ノアロは肩をびくりとさせた。それから、ぎゅっと強く抱きしめられる。 「……本当にバカだ……。ありがとう、ノア……、ありがとう……」  ロンの声は震えていた。抱きしめる腕の力が強くなり、彼の温かい体温と鼓動を感じる。  ノアロはこの時、とてつもない多幸感を感じた。 「……帰ってこられるなんて、こんなの、本当に奇跡だ……」 「……先生、あのね、俺、キツネビをリュウグウキリンに貰ったんだよ」  ノアロは言った。 「綺麗だった……。寂しそうで……優しかった」  うわ言のようにノアロは呟く。ロンはその身体を離すと、頭を撫でた。ノアロは満足そうに微笑む。 「…………ミラって言うのか」  ノアロが尋ねると、機械人間は頷いた。 「……ずっと先生を治してくれてありがとう。お前たちを、ニンゲンの一種として見ていなかったことを謝りたい。……ごめんなさい」  ミラは、確かにふっと微笑んで、それから首を振った。  帰り際、家の扉の前で、ミラは静かに話し始めた。 「俺たちは、最初は感情を覚えているが、だんだんと忘れていく。効率で動く、他の同じ生き物……機械になっていく。お前の持っているイメージは、間違ってなかったよ。……俺がたまたま、最近機械化しただけだ」  表情のない顔で、ミラはノアロを見た。それから、俯いて胸に手を当てる。 「……お前たちを見ていたら、感情を思い出した気がした。なんだろう、なんと呼ぶのだろう……分からないが、お前たちは美しかった……」  ミラは胸に手を手繰り寄せるように動かした。 「……忘れないようにしよう。お前たちの美しい姿と、この気持ちを。忘れない。忘れたくない……。忘れたくないな……ノアロ……」  ノアロは、ミラを見つめて立ち尽くした。彼になんと言葉を掛ければよいのか分からなかった。彼はもうきっと、とうの昔に感情など失っている。けれど、彼はまだ、感情の尻尾の先を掴んでいる気でいるのだ。  機械人間に、感情というものはない。彼らの思い出はやがて記録となり、彼らは全てを覚えているのに、忘れてしまう。  ノアロはそっとミラの肩に手を置いた。灰の瞳はゆらりとミラを見る。子どもにしてはあまりに達観しすぎた瞳で、また、柔らかく無邪気な狂気を携えた瞳で。 「…………お前が、幸せってのが何だったかも忘れたら、俺が殺してやろうか」  ミラは、高級金属の肌の奥で、確かに笑った。  ガシャン、ガシャンと音がする。金属と金属の擦れるような音だ。  ロンは目を覚ます。自分の身体が、何か冷たいものの上にあるのがわかった。身体は、指の先までピクリとも動かない。目だけは、ゆっくり瞬いている。 「意識覚醒状態……。大丈夫か」  先程、記憶の中で聞いた声がした。 「……意識混濁、心拍数低下…………。駄目そうだ」  ロンの身体は動かない。景色は、先程までいた森より、木の本数が少なくなっていた。  突然、瞼がくらりと重くなる。ロンは再び目を閉じた。

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