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第11話 幻想の森
かつて、多くの生き物の家であり、空気を浄化し美しい世界を守っていた森。いつしか、それは酸の雨に淘汰された。数万年後、なんとか地面から芽吹いたものは、もう植物ではなくなっていた。
妖精。それは、植物と動物の間の存在であり、全く別の生物である。
「……綺麗だな」
ロンはぽつりと呟いた。妖精の歩いたあとには、キラキラと輝く花粉が揺蕩っている。発光する大型の虫が、その光に導かれるように、ふわふわと飛んでいった。鬱蒼と茂る森の木々は、空を覆い隠していて、森の中には少しの光も入らない。飲み込まれてしまいそうな暗闇を照らすのは、妖精たちの足跡と、発光する動植物の光だけだ。
幻想の森と呼ばれるこの森は、太陽の光はめったにささず、光粉のような毒もない代わりに、小型の危険生物が蔓延っている。妖精は、その代表格だ。
「……この木、ただのヨロイキボウじゃないな」
ロンは一本の木に手を当てて、根から葉の先までまじまじ見つめた。葉はヨロイキボウによく似ているが、木の幹がところどころ、薄明るく光っている。
「ああ、これ、ノアロが遊んでいた……」
ロンは写真を五枚ほど捲る。出てきたのは、ノアロが木の幹に傷をつけ、そこから漏れる光で落書きをしている写真だった。写真の中の木には、ノアロのサインと、クマとネコの中間のような生き物の絵が描かれていた。
妖精たちの笑い声がする。ロンは横目で彼らを見た。辺りを睨みつけると、そこだけすっと音が止む。
ロンは、まっすぐ暗闇を見つめた。この先で、もしまたマザーフェアリーに出会ったらと考えると、ゾッとした。
「……ロストシティに行く道が、この旅路か死の海の二択だなんて馬鹿げてるよな、シーザ」
シーザの返事はなかった。
「…………お前がいなくなったら、俺は一人になっちまうだろう」
ロンはぽつりと呟いた。シーザの返事はない。
「……頼むよシーザ……」
黒い箱を持ち上げて、ぎゅっと抱く。箱は微動だにしない。ロンは、ここ二日、この箱を開けることを躊躇っていた。それは、微かに感じる何かの気配に、気づいていないふりをしているからだった。
ロンは箱を抱き締めて、暗い森へ足を踏み出す。木々が揺れ、妖精の鳴き声がこだまする。柔らかな風に首を絞められた気がした。ロンは虚ろな瞳で暗闇を睨んだ。
光るきのこを踏みつけて、ロンは森を進む。時折方位磁針で自分の進むべき方向を確認するだけで、彼の言葉数は少なかった。森は、いつの間にか静まり返っていた。
「……じろじろ人のことを見るな」
ロンは呟く。妖精たちは、ガサガサと音を立てて逃げていった。また森は静かになった。
「……妖精に怖がられては末期だな」
ロンは小さく嘲笑をこぼした。
ロンはふらりとよろめき、木の幹にもたれるようにして地面になだれ込んだ。根本に座り込み、ぼんやりと上を見上げる。
「……はは、星が見えるじゃないか」
ロンは笑って、空に手を伸ばした。自分の寄りかかっている大木の枝葉の間から、確かに星空が見えた。この暗い森の中に差し込む一筋の淡い光の下、今酸の雨が降れば、自分は確実に死んでしまうなと、ロンはぼんやり思った。
ノアロが旅を始めて八年目の夏頃、彼は突然ふらっとロンの家に帰ってきた。最後に旅に出てからまだ一ヶ月のことで、彼がこんなに短期間で家に帰ってくるのは珍しかった。
「なぁ先生! 俺、旅の途中で新しい星を見つけたんだ!」
「ほ、星!?」
ロンは思わず大きな声を出した。風呂上がりでタオルを肩にかけていたノアロは、髪の毛をわしわしかき混ぜながらにっと笑った。
「すごいだろ? 小さいけど明るい星だよ。それでさ、俺に命名権くれるって言うんだ。だから、星の名前を"ノアロン"にしようと思って!」
ロンは突然の話についていけず、苦笑を浮かべた。
「……あ、ああ……いいんじゃないか? 大抵発見者の名前をつけるもんだろう」
「えっ、いいのか!?」
ノアロが、ぱっと顔を明るくした。
「よかった、先生嫌がるかと思ってたんだ」
その言葉を聞き、ロンは眉をひそめる。
「…………待て。もしかしてその"ロン"って、俺の名前じゃないだろうな」
「そうだけど」
ノアロは当たり前のようにそう呟いた。
「撤回しろ! 俺は関係ないだろ! お前の手柄だ、お前の名前だけ付ければいいじゃないか」
「ええ、さっきはいいって言ってたのに?」
「それは意味を理解してなかっただけだ。話が大きすぎて頭も回ってなかったしな……。とにかくやめろ!」
ロンは少し頬を赤らめて、なんとも言えない恥ずかしさから逃れようと、早口でそう言った。ノアロは不服そうな顔をする。
「……でも、先生いつも言ってるだろ? 男が一度決めたこと変えるなんて冗談じゃない! ってさ」
「言っ……てない、だろ……!」
「言ってる言ってる」
ロンはムッと口を結んでから、目を逸らす。ノアロはけらけら笑った。ロンは腕と足を組み、頭を掻く。
「俺とお前の名前が、これから先、ほとんど永遠に残るんだろう? それはなんだか……」
「ロマンティックだろ?」
「恥ずかしいだろ、普通に」
ロンの言葉を聞いて、またノアロはけらけら笑った。
「あはは、何百年も先になれば、その由来なんて誰も覚えてないって。俺たちしか、本当の意味を知らない」
ノアロはロンの隣に座って、その顔を覗き込む。ベッドが弛み、軋む音がした。
「なかなかロマン感じるだろ?」
「恥ずかしい、取り下げなさい。……大体、お前知ってる奴は結構な割合で俺のことも知ってる」
「あはは、そうだね」
ノアロはそう笑った。天井を見上げ、彼は目を閉じる。
「でもさぁ、先生。俺は何か欲しいんだよ、先生と俺が一緒に生きたんだって、形のあるものが」
「…………だとして星はでかすぎるだろう」
ロンはそう、呆れたように呟いた。それから、短くため息をつく。
「……だがまあ、命名権はお前にあるんだろう。俺じゃない。……好きにしなさい」
「本当!?」
ノアロはガタンと立ち上がる。
「……じゃあ、やっぱりノアロンだ! 自由と知恵と、愛の星!」
ノアロは両手を大きく広げて、嬉しそうにそう言った。子どものようににっと笑って、ロンの体に飛びつく。
「痛い痛い」
「先生と俺が一緒に生きた証が、誰からも美しい形に見えるもので、何億年も残るんだ。嬉しいなぁ」
ノアロは強くロンの身体を抱きしめる。ロンはその背をゆったり撫でた。
「先生、この街に大きな天体望遠鏡はないのか?」
「あることにはあるはずだが……」
「見に行こうよ! どれがノアロンか教えたいんだ!」
「い、今からか」
ロンは驚き呆れたようにそう言った。
「元気だな、お前は……」
「…………動きたくない?」
「誰のせいだと思ってるんだ……」
「……じゃあ、明日にする?」
ノアロは尋ねる。ロンはしばらく俯いていたが、長考した後、口を開いた。
「……明日の夜は雨だ。明後日にしよう」
「明日は一日中晴れだよ」
「…………雨かもしれないだろう」
ロンの声は頼りなかった。ノアロは微笑む。
「……いいよ、先生の言う通りにしよう」
ノアロはロンにくっついて、その肩に頭を寄せた。
「…………あのさ、先生。俺はもうガキじゃないんだ。だから、先生が行かないでって言ったら行かないんだよ」
「……俺も若くないんだ。お前の唯一の楽しみを取ってまで俺のそばにいてなんて、そんな甘酸っぱいことは言わない」
ノアロは黙り込む。どこか一点をじっと見つめ、何か頭の中で考えている様子だった。
「俺の望みは、お前にいつまでも振り回されて、幸せに死ぬことだけだ」
ロンはぽつりと呟いて、髪の毛を指で梳いた。
「……嘘ばかりだ、先生は」
ノアロは微笑んだ。
「俺、先生を初めて見たとき、神様だと思ったんだ。神様が、俺を助けに来てくれたんだって」
ノアロは出会ったときのことを懐かしむような声でそう言った。顔の前に伸ばした右手を指先までぴんと開いて、それからゆっくりと握る。
「……今なら分かる。先生はただ、あのとき、寂しかったんだろう」
ロンはやや俯いた。
「そう……俺を助けに来たんじゃなくて……、ただ、寂しさから逃げたかったんだ」
「……不満なのか」
「いいや、全く。運が良かったと思ってる」
ノアロは笑う。
「俺は運がいいんだ。星も見つけるし、リュウグウキリンに何度も見つかったけど生きてるし、旅先でいろんな人に良くしてもらえるし、先生に会えた」
ノアロはロンを見て、にっと笑った。
「……だから、もし、運が尽きたら……そのときは、きっと……ものすごい罰を受けるような気がしてるんだ」
ロンはノアロの顔を覗き込む。
「……なぜ?」
「だって、こんなに運をもらっておいて、大事な人を寂しがらせることにばかり使っちゃって……そんなの、罰を受けて当然だろ?」
ロンは目を伏せた。
「お前が旅より俺のことを想うのは、正直気分がいい。……だが、俺のことをお前の枷にはするな」
ロンはじっとノアロを見つめた。ノアロが、苦笑をこぼす。
「……そうだな。悪かった。みっともないな、人を決断の言い訳に使うなんて。……選ぶのは俺だ」
ノアロは両手を合わせ、指を絡める。
「…………お前も、随分ものわかりが良くなったもんだな」
ロンは苦笑と共に呟いた。
「……ノア、運は掴むもんだ。だから、お前が運良く得たと思っているものは全部、お前が掴んだものだ」
ロンの声ははっきりとしていて、真剣だった。
「……お前がお前の力で得たものに、誰が罰を与えられるって言うんだ」
ノアロは微笑む。それから、ぱっとロンの身体を抱き締めて、ベッドに引き倒した。
「……先生も、俺が掴んだもの?」
「はは、どうだろうなぁ。先生は、勝手に転がってきたものかもしれないな」
ロンはくすくすと笑って、ノアロの側に転がり込んだ。
ノアロと出会ったあの日。ロンは、生まれて初めて人から抱きしめられた。それは、確かに、この子を連れ出さねばならないと、なんとかしてこの子が欲しいと、ロンに思わせた。
その時から、もう自分は、彼に魅せられていたのかもしれない。
うっすらと目を開く。何度か瞬きを繰り返すと、そこには美しい青空が見えた。
「……はは、何してんだ俺は……」
ロンは固まった身体を動かす。
こんなところで眠るなんて、いつ酸の雨に降られて死んだっておかしくなかった。けれど、なんだか、それを恐ろしいとは思わなかった。
ロンは立ち上がる気力もなく、シーザの入った箱を膝に乗せてゆっくり撫でた。しかし、その手もすぐに止まってしまう。
ロンは、辺りをぼんやり、意味もなく見渡した。暗い森。光るのは、舌なめずりでもするように、こちらを見ている妖精の目。
ふと、上着の下に隠していた銃に手が触れた。ロンはそれを手に取る。持ち上げて、自分の胸に銃口を向けた。
「……なんだか、何ももうつまらんな、ノアロ」
かすかに微笑んだロンは、また銃を上着の下にしまった。
その時、突然茂みから、何か飛び出してきて、ロンの手から箱を奪った。ロンは目を見開き、咄嗟に右手を伸ばす。痛みが走り、ロンは顔を歪めながら立ち上がった。
「おい!」
飛び出してきたのは妖精だった。妖精はひらりとロンの手をかわし、わさわさと体を揺らした。
「……おいっ! 待て、それを返せ!」
妖精は、こちらに確かに嘲笑を向け、さかさかと逃げていった。ロンは慌てて妖精を追いかける。長いこと食事を取っていない体がふらついた。
「それはお前たちが獲って面白いものじゃない! 俺の家族だ、返してくれ!」
黒い箱を振り回し、妖精は駆けていく。ロンは歯を食いしばり、妖精の背に手を伸ばした。
「……お兄さん、面白いことしてるじゃないか」
突然、今まで追いかけていた妖精の身体が、目の前で何者かに掴まれた。ロンは慌てて立ち止まる。大きなツノの生えた獣人が、ロンを見上げてにっと笑った。
「…………どうしたんだい、死体の入った箱なんて追いかけてさ」
途端、怒りだけがロンの心を支配した。身体が震え、息が上がり、思わず彼に飛びついた。
「返してくれ! それは俺の家族だ!」
「な、ブレウィジン語か?」
相手は怪訝な顔をする。
「返せと言ってる!」
「わ、分かってる。返すよ、返すから……」
獣人はロンの胸に箱を突き返した。ロンはそれを抱きかかえ、肩を震わせる。黒い箱を覆い隠すように、その場に崩れ落ちた。
「え、ちょっと、大丈夫かい」
ロンは首を振り、うずくまった。
分かっていた。分かっている。この子はもう自分の旅の結末を見られないことも、自分の旅の結末が、自分の望むものであるはずがないことも。
「……誰も言うことを聞きやしない……、誰も……、誰も…………」
ひとりにしないでくれと、一体何度願ったことか分からない。こんな世界に置いていかないでくれと、あんなにも繰り返したのに。
「…………お兄さん、旅人さん? 疲れてるんだろ、うちに来なよ」
「……ロストシティに向かっている。寄り道をしてる、場合では……」
「ウチから列車が出てるよ、ロストシティ。旅人なら大歓迎の街だから、寄ってきなよ」
獣人は、よく見ればまだ若く、自分の半分の年齢にも満たないような青年だった。彼は優しい目でロンを見下ろして、手を差し伸べた。
「…………それ、大事なペットだったのかい?」
「……子どものような……兄弟のようなやつだった」
「そう……それは辛かったね。何と言う名前なんだい?」
「……シーザという名前の、マダラヘンゲネズミだ」
「シーザ!?」
突然、青年は驚いた顔をして、立ち止まる。
「アンタ、ロン先生か!? そういや黒い髪のニンゲンだ!」
「知っているのか、俺を」
「知ってるとか知ってないとかじゃないよ! 先生、フイッフィーという街を知ってるだろう!?」
木々を掻き分け、ズカズカと青年はロンの手を引き森を進む。
「……フイッフィー? 新しい街だろう、この近くの」
「そう! フイッフィー、すべての生き物の理想郷さ!」
青年は走り出す。森が終わり、乾燥地帯に飛び出した。光が目に痛いほど突き刺さり、ロンは顔を腕で覆う。
「…………なんだ、あの街……」
ロンは目をしばしばさせながら、まっすぐ遠くを見た。砂漠の中に、ぽつんと、数億年前のニンゲン世界のような街が在る。
「先生、早く、これに乗って! 早く街まで行こう!」
「…………あ、ああ……」
ロンは青年に呼ばれて、乗り物に乗り込む。彼はエンジンをかけると、吹き飛ばされてしまいそうなスピードで砂漠を走り出した。
「先生を連れ帰ったら、みんなすこく喜ぶだろうなぁ!」
「な、なぜ、そんな……」
「この街をつくったノアロの夫なんだから、そりゃ皆喜ぶに決まってるよ!」
「は、はぁ……!?」
ロンは思わず大声をあげる。
「あ、アイツ街なんて作ったのか……!?」
「正確には、ノアロは俺達の、影のリーダーだったんだ」
青年はにこにこと笑いながらそう言った。ロンはぽかんとした顔で青年を見る。
「生き物の住む場所を増やしたいって、街を作る計画を立てたんだが……、ほら、酸の雨とか危険生物とかあるし、どうにも実行できなかったらしい。そんな中で、面白そうだって手伝ってくれたのが、ノアロだったんだ!」
「……ノアが、そんなことを…………」
「ノアロは俺たちの英雄なんだよ!」
青年はにっと白い歯を見せて笑った。ロンは俯く。
「……友人に、初恋に、英雄か」
呟いたロンの声は、舞い上がる砂に混じって砂漠へ消えた。黒い髪が、風にたなびいた。
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