3 / 4

第3話

 あの距離感バグを起こした大型犬はなんなんだろう…と、彼が出ていったドアを見て思う。先ほどから心臓が壊れたように脈打って、空気中の酸素を取り込もうにも呼吸が浅くてうまく息ができない。  好きな人と抱きしめ合える日が来るなんて、いまだに信じられない。間接キスのチャンスだと一本のスプーンで食べたプリン、あの太く逞しい腕に包まれた感覚、自分の腕に収めた頭部、深呼吸の振りをして嗅いだ匂い、最後に撫でられた背…思い出してはぞくりとする。こんな下心丸出しの自分がほとほと嫌になるが、夢のような時間の連続だった。勉強とゲームを理由に家に招いて本当に良かったし、なんなら今まで嫌悪しかなかったDomであることにすら感謝する勢いだ。彼との触れ合いのおかげで今日は本能的な欲求がいつも以上に満たされる感覚を味わった。  もちろん普段音楽室での逢瀬を重ねることは自分にとって大切な時間で、結城くんとのプレイが習慣になったおかげで調子はだいぶ良くなった。さらにそれが恋愛的に好きな人なのだから、あの音楽室での逢瀬は絶対になくてはならない唯一の特別な空間であり癒しなのだ。  しかし自分の本能はまだまだ飢えていて足りないことも自覚していた。コマンドを使い服従させ甘やかし、彼ともっと深い交わりができたらどれだけ満たされるのだろう…本当は今日も、僕と結城くんを分け隔てる服すら脱ぎ去って肌で触れ合いたかったがさすがに我慢した。一体どこまで許されれば僕は満たされるのか。Subへの使役欲と庇護欲、それに加えて僕自身の承認欲求と、恋心と性欲…これらはいつも僕の中で渦巻いて暴れる。DomとSubの関わり以上に、恋人としての関わりを欲していることにも拍車がかかっていく。自分がひどく卑しい人間に感じられ自己嫌悪に陥るのもいつものこと。  くすぶる想いと持て余した熱を宥めながらベッドに身を投げ出す。胸の内側から圧迫されているような苦しさを抱えながらなんとか呼吸を繰り返し、しかし身体は物足りなさでむずむずしていた。本能も欲もごちゃまぜになって分別がつかず、ただ欲望の権化のような自分の身体がひどく憎かった。  僕のDom性が発覚したのは小学校三年生のときだった。その年齢でのダイナミクス発現は相当早い方だったらしく、親も戸惑いが隠せないまま腫物に触るような扱いだった。  「普通にしていようね」  Normalの両親にはいつもそう言われ、Normalの兄をかわいがった。家族が僕を見る目は恐怖で怯えているようで、その理由も「DomはSubを強制的に服従させ、手段も選ばない」と思いこんでいたから。外で他人に危害を加えないか見張って、常に気を張っているようだった。  そんな親の様子を見て育ったわけだから、Domである自分は普通とはかけ離れた悪い人間なんだと思うしかなかった。満たされることのない本能は薬で抑えてしまえばいい。徐々に強くなる薬の副作用も相まって、中学のときはあまり学校に行けず卒業した。親との居心地の悪い距離感に息がつまり、近くでは兄だけがかわいがられ、鬱屈とした気持ちに拍車がかかる毎日だった。そんな僕をみているのも嫌だったのだろう、うちが管理するアパートに空きができたからそこで過ごしたらどうだと親から言われて、高校入学のときから今の一人暮らしのような生活が始まった。不思議と寂しい感情よりも、世界から隔離された箱庭のようで唯一安心して過ごせる空間だった。  結城くんのことは、ほとんど一目惚れだった。  入学式のときから大きな背丈は目立って注目を集めており、部活の柔道でも一年なのにしょっちゅう表彰されていて、学年でもほとんどの人が名前を知っているような存在だった。目立つからと自然と目で追っていたのを、恋心だと自覚するのに時間はかからなかった。  クラスは違ったが、彼を見かけたときはいつも周りに人がいて賑やかで、まさしく陰キャラな自分とは正反対だった。人懐こく笑う姿を遠くからみて、頭の中では自分だけに笑顔を向けてくれる姿を想像することしかできなかった。  嬉しいことに、二年に上がるタイミングでのクラス替えで同じクラスになることができたのだ。これからは毎日あの姿を拝むことができる。友達まではいけなくても、挨拶くらいできる仲になれたらいいなと思っていた矢先。  「えっ、結城、お前Subなの?」というデリカシーのないバカでかい声が教室に響いた。いつも一緒にいる安藤くんがふざけて大袈裟に話しているようで、不躾ながら僕も食いついてしまった。続く会話に耳をそばだてる。  いじられている本人は「まあ俺強いからDomなんてぶっとばすし」などと笑っている。危機感の無さにびっくりして心配になるほどではあったが、これはもしかして、うまくいけば、あわよくば、なんとかしてパートナーになれれば。少しでも憧れの彼に近づくことができるのではないか、と微かな希望が胸を騒がせた。でも、挨拶もしたことないのにどうやって…。ぐるぐると逡巡する。  大きな声でSubがバレしてしまった結城くんに対して、周りも若干冷やかしの目を向けている。まだまだDomとSubの関係性に対して完全に理解を得られてはいない現状なのだ。そして、結城くんと仲が良くいつも一緒にいる杉山に目が留まりハッとする。彼が狙いを定めたように結城くんを見ていたのだ、直感的に「取られたくない」と本能が叫ぶ。  僕は杉山がDomであることを知っているし、おそらく杉山も僕がDomであることを知っているだろう。なぜなら杉山を保健室で見かけることは度々あったし、しかも先生が不在のタイミングを見計らって、Subの女子生徒とベッドで濃厚なプレイに及んでいるところも聞いたことがある。サディストのように傲慢で、Subへの配慮もケアもおざなりな適当なプレイだったと記憶している。あんな節操なしに結城くんを渡したくない。はやく結城くんと仲良くなって、恋人は無理でも、パートナーならば…一人で焦燥感に駆られた。  そんな僕が意を決して、結城くんに初めて声を掛けたあの放課後、少し話しただけでも結城くんのうっとりとした表情が本能を騒がせた。もちろん欲目もあったとは思う、しかしこんなに本能が騒ぎ出すような、独占欲がわいてくる感覚は初めてだった。改めて、時間をかけてでも絶対パートナーになりたい、なにより杉山にとられたくない、と強く思ったのだ。  Domには特有の「グレア」と呼ばれる威嚇行為ができる。グレアはSubに恐怖心や喪失感、虚脱感を与え、強制的に服従させることだってできるが、同意のない強姦やレイプと同等の罪として罰せられてしまう。グレアにあてられたSubは最悪の場合失神までさせてしまう場合もある。怒りなどによる興奮状態でグレアを発動してしまうこともあれば、意図的に発動させることもできる。結城くんにグレアを使って一時的に服従させることは可能だが、それではパートナーとは程遠い信頼関係皆無の行為であり僕自身がそんな強制的な関係を望んでいない。あの杉山という男は、それをやりかねない野蛮さがある。絶対に守りたい。そのためには結城くんと一刻も早く信頼関係を築いて、お互いに認め合ったパートナーになる必要があるのだ。  そして先日、結城くんと抱きしめ合うなどという夢にまでみた行為ができる仲になれたのだ。最近あの距離感バグを起こしている結城くんは、挨拶をしてくれたり音楽室以外でも声を掛けてくれたりと、僕と積極的に関わろうとしてくれる。僕としても嬉しいし、なによりあの杉山から結城くんを離しておけるのであれば問題はない。  「結城くんがいつも一緒にいる、安藤くんと杉山くんとさ、遊びに行ったりする?」  音楽室でまったり過ごす昼下がり。杉山の動向を探ろうとしてみたら束縛する恋人のような聞き方になってしまった。 「うーん、放課後にあいつら部活サボるって時とか、どっか寄ったりはするかな」  タレ目が特徴的で柔和な顔が「どうして?」と僕を覗き込みながら小首を傾げる。こういう仕草にいちいちドキドキしてしまうのだ。この大型犬さながら人懐こい人間を目一杯甘やかし可愛がり、そして心から僕を求めてほしい。本人にはいえない劣情を隠しながら、欲が弾けるギリギリのふれあいをして杉山から守っているふりをする。我ながら姑息だとは思うが、ずっと消えない焦燥感や不安は元を断たねば…。  「今度、彼らもいっしょにお昼誘ってみる?」  「えー、あいつら下品だし、ほっとこう」  「そうかな、楽しそうだなって思ってたよ?」  「…相沢くんがそうしたいなら、俺も一緒に」  煮え切らないような、少々呆れた様子ではあるけど、なかなか嬉しいことを言ってくれる。声色や視線、表情から彼らしい優しさをいつも感じる。ああ、やっぱりこの男が好きだ。僕たちには僕たちなりのペースがある。変に横槍を入れられる前に牽制しておかなければ…まずは敵地を偵察しなければこちらも行動できまい。  昼休み終了間近を告げる予鈴が鳴った。出入り口の小窓からは死角になる壁際に行き「“ハグして”」と昼休み最後のコマンドを伝える。嬉々として包み込んでくれるこの大型犬のような人を、どうにかして僕は絶対に守り抜くんだと心に誓った。  次の日にさっそく、安藤くんと杉山のところに僕たちもお邪魔させてもらうことにした。  「え? 結城と相沢くんって仲良かったの?」  「そそ。なんか下品なこと言ったらまじで許さんからな。特に安藤」  「俺そんな下品なこと言わねえよ。ところで相沢くんの好きなセクシー女優教えてくんね?」  「もう帰れお前」  ぎゃはは、と安藤くんの笑い声。この賑やかな雰囲気はいつも遠くから見ていたから、目の前で繰り広げられるコントに自然と笑みがこぼれる。安藤くんのちょっと間抜けな反応はおもしろい。今まで仲良い友達ができたことがなかったので、教室で誰かとこうやって集まるのは新鮮で少し緊張してしまう。  「相沢くんゲーム詳しいんだ、じゃああの新作持ってる?」  「うん、一応一周目クリアしてそのまま」  「まじか、俺あの樹海の呪いステージで詰んでるんだけどさ」  「ああ、僕はヒーラー抜いてアタッカーでゴリ押しして…」  安藤くんと話が合い、ゲームの話題に夢中になってしまう。これはまずい、杉山をマークする目的で輪に入れてもらったのに。  「杉山…くんは、ゲームとかする?」  「ん、麻雀ならする」  「今度僕と対戦しよう」  「おー」  あんまり食いつきがよろしくない。しかし接触の機会を増やさねば…まあ焦らずいこう。話せただけでも大きな一歩、あとはどう牽制するか、慎重に。  そんな日々が少し続いたある日の放課後。結城くんは帰ったみたいだし僕も帰ろうか、それとも図書室に寄ろうかと迷っていたら目の前に杉山が現れた。  「あのさあ、はっきり聞くけど、なにが目的なん?」  「な、なに、とは?」  圧を感じてギクリとする。周囲を見回すと人はいなかったのでよかったが、場所変えようと言う杉山について行くと、音楽室などがある特別棟の、端にある男子トイレに入っていった。  「ここなら人来ないだろ。んで、お前俺になんか文句でもあるって?」  「あ、い、いや、その」  いざ対峙すると緊張して言葉がでなかった。こんなにも臆病で弱い自分がいやになる。  「お前目がギラついてんだよ。なにを勘違いしてんだか分かんねえけど、俺結城とパートナーになろうとか考えてねえかんな」  完全に自分の考えが読まれていたのだろう、不意打ちの先手に言葉が詰まる。  「ていうか俺、ああいうなんも考えてなさそうな天然Subより、もっとSubらしい女の子の方が好きなの」  「だからって保健室でのああいうプレイはやめてくれ」  「へえ、聞いてたんだ。結城とはセックスしてないの?」  杉山がニヤッと笑う。隠そうともせず言われた生々しい単語に、一気に顔が火照ってしまう。  「ぼ、僕たちは、そういうんじゃ…」  「清い関係ってやつか。っていうかあいつがそういうの鈍感すぎんだよな。Domをぶっ飛ばせると思ってる」  まさにそれも悩みの一つだった。元はといば周囲の配慮不足でSubであることが一瞬にして広まってしまったのが原因ではあるが、特にSubにいたっては使役欲の強いDomに狙われてしまえばなにをされるか分からない。もちろん高校生でも本能のままに動く奴はいる。  僕は結城くんに焦らすようなことはしたくなかった。だからパートナーになろうにも時間がかかってやきもきしていたが、本当に少しずつだが理解してくれて歩み寄ってくれているのは明白だった。  「僕らには僕らのペースがあるから」  「正直俺からすれば、清い関係なんて捨てたほうが楽なんだよ。誰も傷つかなくて済む」  杉山は意味ありげにそう言い、はあ、とため息をついた。  「んで、結城とはまだパートナーじゃないんだ?」  「…うん…」  「でもプレイは?」  「少しだけ」  心を見透かされてるような質問に、不安で焦っている自分が浮き彫りにされ宙吊りになっていく気分に陥り、声のトーンも低くなってしまう。  「あわよくば付き合いたいんだろ?」  その質問に答えるのは抵抗があった。いくら同性愛に寛容な世の中であっても偏見をもつ人はまだまだ多い。杉山も冷やかしで聞いている可能性はある。  「まあいいや。せっかくだし、協力できることはする」  「な、なんで…」  「単純にあの脳筋がどう変化するか見たいから」  不敵な笑みを浮かべる杉山。僕が杉山を敵対視していたのは杞憂に終わったが、僕らを観察対象にしておもしろがろうとしている。本当に節操ないなと思ったが、だいぶ気が楽になった。  あ、と杉山が思い出したように言う。  「先輩にやべえDomの人いるらしいから、一応注意な。俺は会ったことないから単なる噂だけど」  そんな人がこの学校にいるのか? 聞いたこともないし誰かも分からないから対策しようもないな…と考えながら杉山と別れ、帰路についた。

ともだちにシェアしよう!