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第51話
「突然すみません。ありがとうございます」
黒木の部屋の玄関が開き、母親らしき人が顔を出して、俺は頭を下げた。
綺麗な人だけど、なんかちょっとキツい感じがする。
「たまたま私がいてよかったわ。勝手に入って持っていってくれるかしら?」
「あ、はい。すみません。じゃあ、お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎながら、なにを質問すれば聞きたいことが聞けるか考える。もちろん期待してるのは心の声だ。
「あの、黒木くんのお母さんですか?」
「ええそうよ」
『友達ねぇ。あの化け物、まだ懲りないのかしら。この子も可哀想に……』
さっそくかよ、と怒りゲージのメモリが上がる。
俺、帰るまでゲージ持つかな。満タンになったら爆発しそうだ。
黒木の母親は、勝手に入って持っていってと言うわりには警戒しているのか俺のそばを離れない。俺的には好都合だけど。
「あの……黒木くん、いつ頃帰ってくるんでしょうか」
ゆっくりと寝室に向かって歩きながら俺は質問する。
「え? あの子はもう帰ってこないわよ? アメリカの高校に転校したの。聞いてない?」
『ギリギリまで行かないって言い張って。あんな化け物がいたらおちおち外も歩けないわよ。本当に清々するわ』
怒りゲージが上がる。
俺は怒りとショックで声が震えそうだったが、なんとか力を込めて声を発した。
「でも、黒木くん、戻ってくるって言ってました」
本当は戻れるように努力する、だけど。
「なんだか悪あがきしてるみたいだけれどね。でももう手続きさえ済ませてしまえば転校なのに。ふふ。……あらごめんなさいね。笑うところではなかったわ。めずらしくあの子がわがまま言うのが可愛くて」
『化け物の母親役もこれが最後かしら。そう思えばやりがいもあるわね。ああもう、嬉しくて顔が笑っちゃう』
怒りで手が震えるなんて、たぶん生まれて初めてだった。
本当にこれが実の母親なのかと耳を疑うレベルだ。
化け物はお前のほうだ、と叫んでやりたい。
黒木がこの母親と小六までは一緒に住んでいたんだと思うと、いまの黒木が奇跡だと思える。こんなのと毎日一緒だと心が死んでもおかしくない。壊れてしまって当たり前のレベルだ。
俺の親がもし力のことを知ったら、この母親のようになるんだろうか。
いいや、ならない、と思った。
そう信じたいだけかもしれないけど、それにしたってこれは酷すぎる。
「僕、いつも黒木くんに勉強を教わってるんです。おかげですごく成績が上がりました。すごく優しくて、すごくいいヤツで、本当に大好きなんです。だから絶対戻ってきてほしい。戻ってくるって信じてます」
息子がいなくなって寂しいというような、うそくさい表情の母親に、俺は目いっぱい笑顔で言い切ると背中を向けて寝室に入った。
着替えを持ってきたときの紙袋をクローゼットの隅から取り出し、どれを持ち出そうかと物色した。
『あいつが化け物だって知ったらこの子どうするかしら。こんなに化け物を信じきってる顔を見ると可哀想でならないわ……。アメリカに送ったのは正解ね。この子を化け物から救ったんだもの』
もうダメだ。怒りゲージなんかとっくに満タンだ。
涙がにじんできてこぼれないように必死でこらえる。
俺も化け物だって言ったらこの人どうすんだろ。言ってやりたくなった。
震える手でなんとか服を何着か袋に詰めて立ち上がる。
「忘れ物ありました。ありがとうございました」
涙目を見られないように振り返り、同時に頭を下げてうつむいたまま歩き出す。
「じゃあ僕、帰ります」
「そう。気をつけてね」
「はい、ありがとうございました」
もうさっさと帰ろう。そう思って玄関に向かいながら、ふと疑問がわいた。
あんなに連日ここに入りびたっても一度も出会わなかった母親が、なんで今日はここにいるんだろう。
なにしに来たんだろう。
「あ、あの、この家はどうするんですか? 黒木くん、戻ってくるかもしれないから、そのままですよね……?」
「戻って来ると信じたいのはわかるけど、もう戻らないのよ。だからもうここは整理するの」
多少予想はしたけど、それでも俺は絶句した。
黒木は、戻れるよう努力するって言った。もし戻れないと確定してるなら、きっと連絡をくれてるはずだ。
先生だって、きっとまだ書類を受理しないで頑張ってくれてるはずだ。
この人を止めなくちゃ。黒木の家がなくなっちゃうっ。
考えろ。考えろ。どうすればいい?
玄関までゆっくり歩きながら俺は必死で考えた。
「……あの。ここを整理するってことは、もし黒木くんが戻ってきたら、また家族で一緒に暮らせるんですね」
「……え?」
「黒木くん、絶対戻るって言ってたので、また家族で暮らせるって知ったらきっと喜びますね」
俺の言葉で、母親の顔がサッと青ざめたのがわかった。
嫌だろ? 絶対嫌だよな? だから黒木の家にこれ以上さわるなっ。
『化け物と一緒に住むなんて冗談じゃないわっ。あの人ちゃんと化け物を引き止めてくれるのかしら。もし本当に戻ってきたら……。ああもうダメだわ……今日は諦めるしかないわね。もう転校が決定してからでいいわ……』
怒りゲージはもうとっくに振り切って壊れていた。
よかった、諦めてくれた。黒木の家を守れた。
俺はホッとして、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
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