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必要悪な出逢い
めちゃくちゃに気まずい一日を過ごしてから、俺と鬼崎さんはほとんど話をしなくなった。第三次無干渉期に突入したのだ。
幾度も似たような危機を乗り越えてきた俺たちだが、今回は段ちがいにしんどいかもしれないと感じる。距離を取られているのでも避けられてるのとも違くて、ふつうに会話はする。
見えすいた優しさ、見えすいた笑顔。あの日以降、弱ささえ見せてくれなくなった鬼崎さんの存在がめちゃくちゃに遠い。彼の心はとても自分には掴める場所にない。わかっていたからこそ追い求めてきたけれど、さすがに俺の足も重たくなった。
それから数日経ったころ、俺はいつも使わない駅で、とある人と待ち合わせていた。
ホームに入ってきては出て行く電車を見ながらしばらく待っていると、十五分後に次の電車が到着するのが見えた。
そして改札を通ってくる群衆のなかに、その人を見つけた。
「待たせたわね、ごめんなさい」
「んーん、別によかったのにお礼なんて」
「そんなの気にしないの。私が若い子とデートしたいのよ」
すらっとしていて背が高いのに、雰囲気は頼りなくて小枝みたいな女性だ。そうと言われなければ、三十代の息子がいる年齢には見えない。
女性の名前は花枝 さん。彼女との出会いは鬼崎さんの仕事場を覗きにフードフェスへ行った日。花江さんが会場である商業施設内で大切なあるものを落としたというので、一緒に探すのを手伝ってあげたという経緯があった。
当日中に落としものは見つかり、ぜひお礼をさせてほしいと頭を下げられてしまったため、やむを得ず連絡先を交換することになった。
今日は花枝さんの後ろにもう一人の男性がいる。見た感じ、学生には見えない。社会人で大人だろう。自分よりは歳上、だけど鬼崎さんよりは歳下くらいか。
ネイビーのコートから見える私服センスは地味で、ファストファッション量販店の無難な上下を合わせた服装だった。この人が息子? 二人はまったく似ていないが、どういった関係なのだろうかと思う。
「花枝さん、もしかして俺のこと話しくれてないでしょ?」
「どうだったかしらね・・・・・・」
曖昧な口調の花枝さんに、付き添いの男性は苦笑いでこちらを見た。
「言ってません」
「だよね。俺はこの人の息子みたいな者です。誘われたからついてきたけれど、君が、えと、蓮太郎くんだったよね? もし蓮太郎くんが迷惑だったら帰ります」
「あ、いえ、そこまでは。せっかくなので一緒に」
「そう、よかった」
息子みたいな者と、言い方が若干引っかかる。だが俺は花枝さんと二人きりにならずに済み、ほっとしていた。
「八千宏紀 です。よろしくね」
俺よりも歳上だろうに礼儀正しく腰が低い。ペコリと頭を下げると、にっこりと笑ってくれた。
この人なんだろう・・・・・・。同性なのに、目を惹くような不思議な魅力がある。大人しそうな優等生をそのまま大人にした感じ。なのに、ふとした表情に視線を持っていかれる。
歳下の俺がこう言っちゃ失礼かもしれないが、男心をくすぐられる。庇護欲が刺激されるというか。サビに感じる可愛さとは別の色気っていうか。
「蓮太郎くーん?」
「あ、すみません。ぼーとしてました」
「ははは、なんだそれ」
ほぐれたように笑われたことで俺の目はさらに釘付けになった。
———この人、やっぱ、可愛い。
その日は一日、八千さんから目が離せなくなった。三人で向かったのは高級ランチを提供しているレストランで、花枝さんが好きに喋っているのをなんとなく聞き流しているうちにお開きの時間になった。
無理やり持たされたお土産の菓子の紙袋を下げ、俺は待ち合わせたときと同じ駅のホームにむけて手を振った。
行っちゃったな、なんて少しだけ彼のことが気にかかったまま帰ろうとした途端、俺の前に本人が現れた。
「あれ?! 八千さん帰ったんじゃ?!」
「うん、母だけ電車に乗せて戻ってきた」
穏やかに微笑む八千さんに唖然としてしまう。
「ゆっくり話せなかったからさ、まだ時間ある?」
「は、・・・い」
「うん、じゃ行こっか」
流されて連れて行かれたのはカラオケだ。
初対面の男と歌を楽しみたいわけじゃないだろう。たぶん、狙いは個室。八千さんはドリンクのメニューをテーブルに広げ、「何にする?」と首を傾げた。
「・・・・・・コーラでお願いします」
「了解、んー、コーラはダイエットのと普通のがあるよ?」
「あっ、そしたら俺が頼みます」
そう言って受話器を取り、八千さんに視線をやる。
「ありがとう。俺はアイスコーヒーにしようかな」
「わかりました!」
注文を済ませて席に着いたが、話が開始される気配がない。待っている間に店員がドリンクを運んできて、氷たっぷりのコーラをひと口啜った。
アイスコーヒーのトレーにはガムシロップが三つ。それらをみて八千さんは不思議そうな顔をする。
「ブラックでよかったんだけど、ガムシロップ追加で頼んだっけ?」
「え、そうか、必要なかった」
ぽかんとして、慌てて気がついた。今一緒にいるのは鬼崎さんではないんだった。コーヒーを注文した口で無意識にガムシロップを多めにと言ってしまったのだろう。
「すみません、癖で、うっかりでした」
頭を掻きながら言い訳をすると、八千さんは目を細める。
「いいや。ふふ、蓮太郎くんの近くにはすごく甘党のひとがいるんだね」
「はい、見た目は大人なのにブラックが苦手なんです」
「へぇ」
その会話で端を発したように個室内の空気が和んだ。
「もしかして、その人って蓮太郎くんの彼氏?」
「え」
「いやね、俺と同じ匂いがするなぁって思ってさ。蓮太郎くんってゲイでしょ?」
口が緩んだのか、いきなりセンシティブな質問をされてたじろぐ。なるほどと思った。公の場では言いにくい内容だから、カラオケの個室を選んだのだ。
「それを聞くために俺に声をかけてくれたんですか?」
「うん、だってこういうのは普通の男友達には話せないでしょ、そうだったら嬉しいなって思って」
不躾な問いをぶつけてきたのがこの人でなかったら許さなかったかもしれないが、柔和で蠱惑的な彼の笑みを見ていると怒るのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
しかしゲイだと言うのは嘘になってしまうので、正直に「ノンケ」だと答えた。
「その甘党の人は男です。でも、これまではずっと女の子が好きでした」
「そういうタイプだったかぁ、いるよねたまに」
八千さんはわずかに目を丸くしただけで、俺から視線を逸らした。
「すみません」
期待に添わない答えだったような気がして、なんとなく謝る。
「ああ、いいのいいの、こっちこそごめんね」
八千さんはケロッとしていた。そしておもむろにガムシロップを一つ手に取ると、蓋を摘みぺりぺりと剥がす。
ブラックのアイスコーヒーの中に注ぎ入れられる透明な液体。ガラガラとかき混ぜられる氷の音が個室内に際立って聴こえた。
彼は残りの一つ二つと手に取り、三つ分のガムシロップをストローで攪拌 し口をつける。
「あっま・・・・・・、蓮太郎くんの彼氏やばいね」
「はは、たしかに。俺もそこまで甘いのは苦手です」
呼吸を止めて見つめていた俺は息を吐き出せた。気分を害したわけではなさそうで安堵する。
「そんなに固くならないで」
と、八千さんは言い、ずいっと身を乗り出してきた。
「ねえ、気になるんだけどさ、ノンケの蓮太郎くんが男を好きになった馴れ初めを聞いてもいい?」
「はい、えと・・・・・・」
面白いのだろうかと思いながらも、かいつまんで話をする。もちろんアブノーマルな危うい部分はもの凄くオブラートに包んで。
以降は詳しく突っ込まれることなく、「へぇ」「そうなんだぁ」と相槌を打たれるだけで終わった。八千さんの恋愛話も聞きたかったけれど、「また今度ね」と連絡先を交換し、俺たちは解散したのだった。
その八千さんから「家に来ない?」と誘われたのは一週間後。彼の仕事が休みだという土曜に、俺は遊びに行く約束をした。
鬼崎さんとは相変わらず変な空気が続いていて、外へ逃げられる理由に飛びついてしまったのだ。
「蓮太郎くん、こっちこっち!」
最寄りだと教えられた駅に着くと、八千さんは白のセーターにジーンズといった出立ちで迎えてくれた。冬であったが晴れて気温が高かったため、暑くて脱いだのだろうコートは腕に抱えている。
「週末なのにごめんね、彼氏怒ってなかった?」
そう訊かれて、俺は首を横に振った。
「そっか」
「はい・・・」
他愛のない会話をしながら歩く道のりは何分ほどだったか、「ここだよ」と指でさされたマンションは築浅でスタイリッシュな印象だった。
「若い単身者にわりと人気なんだよねぇ、空きが出るまで粘ってやっと引っ越せたんだ」
楽しそうに話す横顔に、気分が明るくなる。
———今日は来てよかった。つられて嬉しくなったが、パタンと閉められたドアの音がした瞬間、八千さんの笑顔がふっと消えた。
「駄目だよ蓮太郎くん、ゲイの男の家に上がるときはもっと警戒しなくちゃ」
「八千・・・さん?」
ハッとさせられる。玄関で立ち止まった彼は、細身だけれど俺よりも背が高かった。柔らかなイメージで外見までも誤って見えていたらしい。俺の目はとんでもなく節穴だった。
男が男を襲う。
一年前は考える必要もなかったことが、現在は日常になりつつある。
「最初からそのつもりだったんですか?」
「どうかな。でも残念。俺ネコだから襲っても楽しくないや。蓮太郎くんもだろ?」
最悪の事態は免れたようだ。俺が頷くと、八千さんはにっこりと笑った。
「だよね。けど、男の家に行ってきたなんてぜったいに彼氏には言っちゃ駄目だよ。どうせ内緒で来たんでしょ、俺だったら行かせないもん」
「おっしゃるとおりです」
「悪い子だな~」
すっかり元通りの八千さんだった。ぺしんと軽くデコを弾かれて、「どうぞ上がって」と中に案内される。
「お邪魔します」
「うん、適当に座ってよ」
彼の部屋は家具家電メーカーのパンフレットに載っていそうな雰囲気だった。腰掛けたソファも、他の物たちも同じ色合いでまとめられている。
そこに、あまりにも不釣り合いなものがある。シンプルで統一されたインテリアに混じって、さりげなく置かれていた。
「気づいちゃった? これはね、俺の趣味」
八千さんは洋書風の置物の横にあった玩具を手に取った。
「それってディルドですよね・・・・・・」
「そうそう、未使用だから綺麗だよ。はい」
いやいや渡されても・・・と思ったけれど、目の前に差し出された濃桃色のディルドを受け取る。太く立派な男根を模したそれの底には強力そうな吸盤がついていた。
「アダルトグッズが好きなんですか?」
どうしたもんかと困惑し、視線を彷徨わせながら訊ねれば、八千さんは親指でリビングの隣を示した。
「もっといっぱいあるから見てみる? 俺のコレクション」
呆気に取られてしまい返事に詰まった。
半透明のパーテーションで仕切られる仕組みになっている部屋。八千さんはその向こうに姿を消し、大きな収納ボックスを抱えて戻ってくる。
「その中身が全部?」
「ご名答」
蓋を開けられ、次々と玩具が並べられていく。使用済みのものを触るのには躊躇われたが、うちの一つが目について拾い上げてしまった。
「お、蓮太郎くんは首輪がお好みかぁ」
「別にそういうわけじゃないんですけど」
「照れなくてもいーよ。首輪って興奮するよね、俺も好き」
ところどころ革が剥げている曇り空みたいな色の首輪。手に持ったまま答えられないでいると、八千さんは一人で話を続けた。
「それね、もとは鮮やかな青だったんだ」
「・・・・・・かなり古いものなんですね」
「うん。でもずっと捨てられないのはそれだけかな」
俺は首輪を戻して、並んだ玩具を観察してみた。じっと見ていると、ほかに気がつくことがあった。
鞭、様々な形状の手錠、縄、凶器的にも思えるグロテスクな張り型。
人の身体を痛めつけるために生まれたような道具ばっかりだった。
「趣味」
ぽつりと溢してしまった呟きに、八千さんは振り向いた。
「俺に痛みと屈辱の快感を教えてくれた人がいたんだよ」
つまりは、生まれつきの性癖ではないということだ。
「とても酷い性格の相手だったんですね」
「うーん、どうだろうね。気づいてなかっただけで、俺にもそういった癖 があったのかもしれない。散々な初体験だったのに、そのときから俺のあそこは乱暴されないと勃たないし」
冗談めかして言われた言葉が余計に胸に刺さる。
「俺の見立てでは蓮太郎くんも、こっち側じゃないかなぁって思ってるんだけどな? ほら、首輪が似合う」
八千さんは選んだ服をあてるみたいにして曇り空色の首輪を俺の首元にあてた。
胸が激しく鳴った。
彼に首輪の件は教えていない。知っているはずもないのに、見透かされている気がしてならなかった。
「なぁんてね、もしかしたらって思っただけだよ」
「ああ・・・ですよね、びっくりした」
興味を失くされて箱の中にしまわれる首輪。俺は消えていくそれを目で追っていた。
中身は三分の二が出されて箱の底が見えている。ちらりと覗いたものに咄嗟に目をすがめた。
玩具の下敷きになっていたのは写真だ。
自慰を行うときに誰かの写真を使用しているのか———? 角が折れて色褪せた写真は首輪に劣らず、年季が入っている。
「これ」
何故だか気になって、俺が手を伸ばして拾おうとすると、八千さんがヒョイっと指でつまみ上げた。
「あ、これね、例の初体験の人だよ。せっかくだから教えてあげる、俺に乱暴したこの人、実は俺のにいさんなんだ。ふふ、捨てたと思っていたら、入れっぱなしにしてたみたいだ。にいさんは、今はどこにいるのかなぁ?」
俺は一瞬、時が止まったのかと思った。
それくらいの衝撃だった。
写真に写っていたのは鬼崎さんだ。けれど、ずいぶんと若いころの。写真の中の鬼崎さんは裸に学生服を羽織って、横を向いていた。高くて綺麗な鼻筋は今のままだけど、ひどく顔を顰めて煙草をふかしている。
背景にあるのは見慣れた景色を映している窓。壁には水着を着た女がポーズを取っている古いグラビアのポスター。シングルサイズのベッド。昔の鬼崎さんの部屋?
なんだよこれ・・・との想いが駆け巡った。だって、いろんなことが一致しない。
「蓮太郎くん、どした?」
落ち着き払った声に苛立ちを感じ、俺は自分の気持ちにゾッとした。
「俺、帰ります」
「えぇ? 来たばかりじゃん」
「すみません・・・・・・、用事を思い出しました」
頭が混乱して、どこかで聞いたことのあるような言いわけしか出てこなかった。
八千さんはふぅんと鼻を鳴らして立ち上がった。
「そう、じゃあ、また時間のあるときにね」
「はい」
俺は八千さんの顔を見られずに彼の部屋を出て、後ろでドアが閉まったと同時に走りだしていた。
どうあっても情報が整理できないから、激しく胸を打つ心臓の音で、ぐちゃぐちゃに曇らせておきたかった。
息苦しさを覚えるまで走って走って、暴れまわる心臓の音だけが自分の耳に響くように。
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