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夏は合宿②

 昇降口を出ると、増田くんはいつもの様にまず公衆電話の方を見た。そこには相変わらず女子が長い行列を作っている。それを気にする増田くんのことが俺は気になる。 「どうかした?」 「いや、よくうちの妹がお母さんにポケベルが欲しいって強請(ねだ)ってるんだけど、そんなに面白いのかなと思って」  妹がいるのか。増田くんってよく喋るけど、家の事はあまり話さないんだよな。俺も話さないからお相子だけど。 「あんなに並ぶんだから、きっと何かあるんだろうな。俺達には解らない面白さが」 「短いメッセージも送れるらしいけど、結局あれって、電話くれって催促したりされたりする為の機械なんでしょ」 「たぶん」 「ぼくが思うに、すごく役に立って有難いと思う事があるとしたら、クラスの連絡網を回す時かなって」 「これから電話するって予告?」 「うん」 「同級生の家に電話したら親が出たっていうの、嫌だよな」 「同級生が家に電話してきたら親が出たっていうのも嫌だよ。だって、うちのお母さんうざったいんだよ。電話代わるとき横でニヤニヤしながら『だれ? 今のだれ? 付き合ってるの?』ってさ」 「女子ん家にかけたらそういうの聴こえたことある。あれは気まずいよな」 「相手にも失礼じゃんって言ってるんだけどね。ねーねー、堀越くんちの親はそういう事言わないの?」 「うちの場合、電話取るのは大体俺だから」 「あぁ、それなら安心だね」  そうそう、安心して電話かけて来てもいいよ。ってすかさず言えて、うちの電話番号を伝えられれば良かったのだが。こういう時に限って、俺の瞬発力は働かない。  増田くんは、 「そうだ、今朝の蛙まだいるかな?」  と言うと、慎重に左右を確認してから道路を斜めに横断していった。背中には中身が詰まってパンパンなリュックを背負い、肩には重そうなスポーツバッグを斜め掛けして、右手には長い傘を持っているが、両手を軽く上下に振りながら、タタタッと軽快な足音をたてて駆けていく様はふわふわとして、まるで身軽な小鳥のような印象がある。  道路の向こうで、増田くんは身体を斜めに傾けたり、しゃがんでスポーツバッグを膝の上に抱えたりしながら、叢の中を覗き込んだ。 「いなーい!」 「そっか」 「不思議だね、本当に幽霊みたいに消えちゃった」  増田くんのもう一つの下校時のルーティン。橋を渡って数百メートル先の曲がり角を曲がった所から次の曲がり角までの短い区間を、後ろ歩きをしながら俺と対面で話すこと。最初は面白いことをするんだなと思ったけど、増田くんの転び易さを徐々にわかってきてからは、ちょっと危ういなと思うようになった。  しかし、何でこの区間に限って後ろ歩きをしたがるんだろう? 俺だったら、他にもっとやりたい事がある。なぜなら、この道は両側とも長くて高い塀が続き、しかも前も後ろも曲がり角だから。誰かが曲がって来ない限り、ここは密室のようなものだ。 「どうかした?」  増田くんは怪訝そうな顔で首を傾げた。つい、よく動く増田くんの唇の動きに気を集中して、話を聴き流してしまっていた。 「いや、」  言い淀んだ時、冷たい雫が落ちてきて鼻の頭を濡らした。 「また雨だ」  増田くんはすかさず傘を開いた。俺は折りたたみ傘を教室に忘れてきた。 「よかったら一緒に入ろうよ」 「ありがと」  俺は増田くんから傘を受け取って差した。黒色で飾り気のない大きな傘だ。増田くんが濡れないよう、傘を少し左に傾ける。増田くんはスポーツバッグを大事そうに抱えて俺の方へ身を寄せた。 「あのさぁ。ずっと気になってたんだけど、それ、何入ってるの?」 「辞書と、あと体操着」 「辞書? そんな重いもん、毎日持ち運びしてるの?」 「家に辞書がないからさぁ。家庭学習の最中に、ふと調べ物をしたくなったら困るでしょ」 「あ、あぁ……」  家で勉強なんか、受験の直前にしかしたことがない。中間テストが終わったばかりだというのに、増田くんは毎日勉強しているのか。さすが、上のクラスの人間は勉強家だ。 「それに体力作りになるかもと思って。でも、『そんな重いもん毎日肩から提げて歩くと背骨が歪むよ』って、この間伯母さんから言われて」 「うん」 「家用のを買おうかなぁーって。……ところで、ねえ堀越くんって、なんかアルバイトしたことある?」 「あるよ。っていうか、いまもやってる。週末だけだけど」 「へぇー!」  増田くんは、まるで珍しい物でも見たかのように目をキラキラと輝かせた。 「それってどんな仕事? どこで働いてるの?」 「いやぁ……別に、大した事じゃないよ。飲み屋で……下働き、みたいな。グラス洗ったりとかそういう」 「大変じゃない?」 「別に、そんなには」 「飲み屋さんかぁ、なんかカッコいいなぁ」  なんて、素直に感心されるとこっちが照れる。本当に、そんなに大したことなんかやってないんだって。 「実は、ぼくもアルバイトがしたいなと思ってて。お金を稼がないと。辞書とか参考書とか、家用のを買いたいし、本や漫画も欲しいし、あと画材とかも」 「うん」 「それに、人生経験にもなるし」 「あぁ」 「でも大丈夫かなぁとも思って。ちゃんとぼくに出来るのかなとか、勉強との両立とか」 「うん」 「でも、堀越くんも頑張ってバイトしてるんだなと思ったら、ぼくも思い切ってやってみようかなって勇気出てきた」 「そっか」  それは良かったけど、絶対、仕事の内容バレたくねぇな……。    駅に着いたら柳瀬がいた。部活で手首を捻挫して、これからかかりつけの整形外科に行くところだって、柳瀬は増田くんに言った。そして当然のような顔をして柳瀬は俺と増田くんの間に割り込んだ。柳瀬は俺のことが見えないかのように振る舞った。増田くんは柳瀬の話し相手をしながらも、迷子のような今にも泣きそうな顔で俺を見上げた。「いいよ、話しなよ」という意味を込めて俺は頷いた。  二両編成の車内は、この時間はいつも空いている。ロングシートに俺と増田くんは隣り合って座り、柳瀬は増田くんの目の前に吊り革に掴まって立ち、俺にはわからない、上のクラスの話や他校に進学した中学の同級生の噂話をした。さっきまではドナドナされていく仔牛状態だった増田くんも、今は楽しげに話している。幼稚園からずっと学校が一緒の仲……いわゆる幼馴染というのは、馬が合うとは言い難くても、ある程度の結束はあるらしい。邪魔しないよう、俺はエミさんから借りた文庫本を鞄から出して読んだ。増田くんの降りる駅まで約三十分の間、視線は同じ行を行ったり来たりするばかりだった。耳は嫌でも二人の声を拾う。上辺だけの会話してんなと思う。  もうすぐ駅に着くと増田くんに教えたのも柳瀬だった。増田くんは、 「また明日」  と俺に向かって片手を上げて言い、足早に降りていった。俺も手を上げて応え、すぐに視線を文庫本に戻した。  ゆっくりと電車が動き出す。やっと読書に集中出来る。  ……と、目の前でドンッと床を蹴る音がした。顔を上げると、柳瀬が俺を冷ややかな目で見下ろしていた。 「なんなの、お前」 「何が?」 「M中の堀越だろ」 「だから?」 「何が目的で増田に絡んでんだよ」 「別になにも」 「テメェ、増田に何かしたら締めるぞ」 「やれるもんならやってみれば?」 「兄貴の威を借るクズ野郎が」 「どうとでも言えって」  忌々しげに、柳瀬は舌打ちをし、車両を移っていった。  すっかり読書をする気を削がれ、シートの背もたれに寄りかかった時、ふと隣にスポーツバッグが置き忘れられていることに気付いた。増田くんのだ。持ち上げてみると、本当にずっしりと重かった。うちに持ち帰って、明日渡そうかと思ったが、そういえば体操着も入ってるって増田くんが言っていたのを思い出した。着替えが入ってるバッグを持ち帰られるのは嫌だよな。だから、駅で降りたら窓口に忘れ物があったと届けることにした。

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