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夏は合宿③
シャワーを浴びている最中に電話があって、おやっさんが取った。うちはあまり電話のかかって来ない家だというのに、三十分ほど前にはエミさんから電話があり、バイトに欠員が生じたから暇なら代わりに出てくれと言われた。電話のベルが鳴ったときから何となく俺あてなんじゃないかという気がしたが、今度は何なんだ。
「あ、ちょっと待ってね。ちょうど風呂から出て来たから。リュウくん、電話。三組の長谷川さんからだよ」
「はいはい」
帰りに話題に出たばっかりで、本当に連絡網が回って来るとは。今日の増田くんは色々と神がかってたなと思いつつ、受話器を受け取る。
「もしもし、堀越だけど」
電話の向こうで長谷川さんはクスクスと笑った。
『“リュウくん”だって。いまの、お父さん?』
「あー、まあ」
本当は違うのだが、面倒だから訂正はしなかった。用件は今日の配布物に訂正箇所があるってことだった。長谷川さんは手短に用件を話したあと、
『あのね、ちょっとお願いがあるんだけど……』
と、言い難そうに切り出した。
「はいはい、なんでしょ」
『堀越くんの次って松浦くんじゃん? 彼には私から連絡回すから、私が電話した時に堀越くん家は留守だった事にしてくれない?』
「わかった」
『ありがと、お願いね。明日、松浦くんから何か聞かれたら口裏合わせといて』
「了解」
増田くんの言う通り、ポケベルがあったら連絡網を回すのに便利だろうなと思った。そうすれば、俺は家で何と呼ばれているかがお喋りな同級生にバレなくて済むし、女子はただ同じクラスってだけの男に頭を下げなくていいのだ。
出勤前に、久しぶりにおやっさんの晩酌に付き合って、軽く腹ごしらえをした。
「学校はどう。楽しいかい?」
「うん、まあまあ」
「友達は出来たかい?」
「うん、そこそこ」
ハムカツを齧る俺に、おやっさんはうっとりと目を細めている。子どもが飯を食っている姿を見守るのが好きなんだという。客観的にみて、俺にはもう「子ども」と呼べるほどの可愛げなぞ残っていない。だが、コウちゃんが言うには俺は母親似だそうだから、それがおやっさんの琴線に触れるのかもしれない。
おやっさんはすごく良い人だ。もっとも、うちの母親の餌食になる男は皆極度のお人好しだから、おやっさんは俺が見てきた男のなかでは特別珍しいタイプではない。俺と兄のコウちゃんはそういう男たちに面倒を見られて生きてきた。俺はおやっさんの善意を有り難く受ける方だが、コウちゃんはめちゃくちゃに反抗する方で、いまもおやっさんの世話になるのは御免だと言って出ていったっきり、女の家に入り浸っている。
しばらくおやっさんは黙々とビールのグラスを傾け、俺は惣菜をつついた。
「あのねぇ、リュウくん」
おやっさんはグラスを置くと、急に改まった感じになって言った。
「なに?」
「おやっさんねぇ、来週の水曜にお母さんの面会に行こうと思うんだけど、リュウくんはどうする?」
出かける前に何かちょっとでも食べていけと、珍しく食い下がって来た理由はこれだったのか。
「いや、俺は行かないかな」
「そうか。平日だもんね」
「二人で水入らずの時間を楽しんで来なよ」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうよ」
「お母さんによろしく言っといて」
俺がそう言うと、おやっさんは赤ら顔を更に赤くしてデレデレと笑った。
家を出るとまだ雨がパラパラと降っていた。遠くの方から微かに雷鳴が聴こえる。遅い時間になってからまた天気が荒れるパターンかもしれない。こんな夜はどうせ店は暇だろう。エミさん一人でも店は回せるはずだ。バイトに欠員が出たなんてのはただの口実で、天気を言い訳にさっさと店を閉めて、暇つぶしに俺を構おうっていう魂胆だろう。
初めてこの店に連れて来られた時には、グラスや酒瓶が反射する飴色の眩い光に頭がくらくらしたが、最近はすっかり見慣れたものだ。制服姿も少しはマシに見えるようになったらしく、エミさんから「やっと馬子にも衣装って感じがしなくなってきた」と評された。だが任されている仕事といえば、トイレ掃除と洗い物に、グラス・ボトル磨きくらいのものだ。まず第一に姿勢よく、そして人の話を素直に聴ければ、それだけでも御の字だとエミさんは言う。俺も特に不満はなかった……これまでは。
そもそも、俺は別に自ら希望してここでバイトをし始めたわけじゃない。春休み中のとある平日、さびれた公園でバスケットゴールに向かって一人でシュートの練習 をしていた俺を、通りすがりのおっさんともおばさんともつかない不審者……エミさん……がナンパしてきて、よかったらうちの店で働かないかと言ってきたのだ。断る理由もないので誘いに乗ったというだけだから、熱意もやる気も特にない。永遠に初心者扱いされようが、どうでも良かったはずだ。
時刻は二十一時をまわった。時々、近場で雷鳴が轟いた。案の定、人っ子一人来やしない。暇なので、カウンターの内側で棚から酒瓶を一本ずつ下ろしてはクロスで磨き元の位置に戻す作業ばかりしていた。
バイトしてるだなんて話、増田くんにするんじゃなかった。本当に、仕事をしている時の俺は大した事なんかないんだ。なのについ口を滑らせてしまったのにはやっぱり、すごいと思われたい、あわよくば褒められたいという、さもしい気持ちがなかったとは言えないだろう。
「しのぶれどー色に出にけりなんつってー」
「うわっ」
いつの間にか、すっかり自分の思考に集中していた。気がついたらエミさんがロックグラス片手に至近距離にいた。ニヤニヤ笑いを浮かべながら、俺の脇を肘でつつく。本人はじゃれているつもりらしいが、筋骨逞しいエミさんの肘鉄はかなり痛い。
「どうしたの少年。さては好きな人でも出来た?」
「いや……好きな人は前からいるけど、」
「けど?」
「そうじゃなくて、ただ反省してただけです」
「何の?」
「今日の自分の行いを」
「えーなになに、そこんとこ、おねえさんに詳しく聞かせてよ」
「やだよ」
「聴いてほしくなかったら、そんな思わせぶりな言い方はしないのよ」
「うっ……」
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