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夏は合宿④

 エミさんはグラスを傾けながら、まじまじと俺を見た。その強くて暗い視線は、脅迫めいている。普段、お客さんに対しては絶対にこんな顔はしない。もっと気さくな感じで、どんなにシャイな客からも気難しい客からも、自然に言葉を引き出してしまう。話し上手である何倍もの聴き上手だ。なのに、俺に対してだけ、時々こうして無言の圧力をかけてくる。 「俺、そんなに話したそうに見えますか」 「ぜーんぜん。何だよこのオカマまじでうっぜーなぁーって言いたげな顔してる」 「思ってませんよ、そんな事。……好きな人に、バイトしてる事を話しちゃって。そしたら、カッコいいって言われて。嬉しいけど、それは多分、そう言わせようと思って粋がって話しちゃったからで……。そんな事する自分はなんてカッコ悪いんだろうと思った。それだけです」 「その、好きな子っていうのは、どんな子なの?」 「小さくて可愛い。思わず守りたくなる」  エミさんは手を叩いて笑った。そのうち笑い過ぎて一人で立っていられなくなり、俺の肩に腕を回し、首元に顔を埋めてひぃひぃと今にも息が止まりそうな声を出した。そしてひとしきり笑うと、グラスに残っていた水割りを一気に(あお)った。 「あーおかし。あんた、意外と純情なのね。しかも、今どき珍しいくらい」 「別に、普通だと思いますけど」  その時、バリバリと木の幹が裂けるような凄まじい音がして、店全体が微かに揺れた。近くに雷が落ちたのかもしれない。白熱灯の光が揺らめいたが、停電はしなかった。この季節にはよくある事だ。エミさんはちょっと天井に目を向けたあと、肩を竦めた。 「リュウちゃんも何か飲むでしょ」  俺が答えるよりも先に、エミさんはタンブラーに氷を入れ、棚からスミノフ・ウォッカの瓶を下ろしてメジャーカップで計り、グラスに注いだ。そして、オレンジジュースの瓶を振って言う。 「あたしがあんたを見つけた時、あんたは一人で公園のバスケットゴールに向かって、黙々とシュートの練習をしていた。ゴールの近くから、入れるごとに一歩後ろに下がって、坦々と。やがて飽きたのか、ボールをつきながらのんびりと歩きまわっていたけど、それから何でもないって感じの動作でゴールの正面の、かなり離れたところに立ち、シュートした。そのフォームがとっても綺麗で、まるで流れるみたいでね。その時、あたしは自分が映画監督にも小説家にもならなかった事を後悔したわ。出来る事なら、あの瞬間を撮るか書くかして、永遠に保存したいって思った。さ、どうぞ」  目の前にオレンジジュースを満たしたタンブラーが置かれた。軽く掲げてから口をつけた。甘酸っぱくて、ほろ苦い。ただのオレンジジュースよりも飲みやすいかもしれないけど……。 「どう?」 「よくわかりません」  答えはこれに限る。頼んでもいないのにエミさんが次から次へと貸してくれる恋愛小説に対する感想と同じだ。本当は、「よくわからない」ではなく「全然わかりたくない」が正しい。それをわかってしまったら、二度と戻れない世界があって、そこにどうしようもなく未練がある。増田くんはそっちの住人だから、俺もそこに居たい。せっかく、増田くんと再会出来たんだ。また自分のヘマのせいで離れ離れになるなんて御免だ。  昔、まだ小さかった頃、増田くんと友達になりかけた矢先に、俺は自分のせいで幼稚園を退園(クビ)になった。スーパーで盗みを働いて捕まったのを、誰かが園にチクったのだ。  まだ子供とはいえ、それくらいの年齢には基本的なものの善悪をわきまえているのが普通らしい。だが、俺はそうではなかった。当時の俺は、腹が減ったが家に食べ物がないとなれば、コウちゃんと一緒に出かけては店のものを盗んでいた。それに何の罪悪感も、疑問さえも覚えたことがなかった。  ある日突然、明日から園には来ないようにと言い渡された。園長先生からこんこんと諭されたのを、覚えている。悪い事をする子は、日向に生きているみんなとは一緒に居られないんだよ。そう言われた。  その日はちょうど、俺のせいで増田くんを大泣きさせてしまっていた。それについてちゃんと謝ることも出来ないまま、増田くんとは別れる事になってしまった。  この出来事が、俺に倫理というものを植え付けた。世界には日向と日陰があって、いい人は日向に、悪い人は日陰に生きている。日向に住む人間と仲良くなりたいならば、悪い事はすべきではない。悪い事とは……例えば盗みとか。目立たず要領も良く、盗むのが上手いことを褒められ便利がられこそすれ、非難されたり叱責されたりしたことがなかった俺は、自分が悪人だったことを初めて知った。  今はもう、世の中というものはもっと複雑だという事を知っている。人と人を別つものは、ものの善悪ばかりではない。もっと細々とした価値観によって、人の居場所は細分化されている。  この店は、陰か日向かといえば、どちらかといえば日向の方だ。来る客はもっぱら昼間は堅い仕事をしている人々だし、エミさんや俺らは、客に酒を提供して少し話に付き合うくらいの接客しかしない。けど、根っから日向の住人の増田くんのような人には、どう見えるのだろうか。今更、気にしても遅いのかもしれないが。 「なに、好きな子の事でも考えてるの?」 「別に」 「微笑ましくっていいわ。存分に謳歌しなさいよ。でも、あたしの知らない所で勝手に大人になるのは、許さないんだからね」  って片目をつぶられても……。この人、どこまで本気で言ってるのか、分からねえんだよな。

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