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二、それは高校最後の夏休みのことでした

 高三の夏を満喫するクラスメイトを後目に、俺は夏期講習の日々。  中学で受験を終えて、後は楽しくやりなさいという母の配慮と裏腹に、俺は外部受験を選択した。行きたい大学に成績が届きそうだったから。  俺のクラスで他に外部受験を選んだのは、高校から入ってきた篠井だけ。今までそう仲良くはなかったが、学部こそ違えど志望校が同じ、講習を受ける塾まで同じとなると、何となくつるむようになった。 「伊集院、あのラインの、どうする?」 「あのラインって?」  小腹が空いた俺と篠井は、自習室を抜け出してファストフード店に入っていた。母はあんまりいい顔をしないが、腹が減るのは仕方ない。 「見てないの? 春日が回してた奴、別荘に行くって」  シェイク片手に、スマホを確認する。 『高校最後の夏! うちの別荘に来たい人募集中! 海の側だよ! 今年ちょっと予定に空きがあるから、友達好きなだけ呼んで良いってさ。おやつは一人二千円まででよろしく!』  既読をつけただけで記憶に残っていなかった。時期はお盆だから、ちょうど夏期講習も休みの時期ではあるが……。 「行けるわけないじゃん、受験なのに」 「……伊集院、行かない?」  篠井はギョロッと上目遣いになり、銀縁眼鏡からはみ出た黒目で俺を見た。おい、待て待て。 「行きたいの!?」 「……だって、春日ん家の別荘とか、すごそうだし」 「そりゃあ、確実にすごいだろうな。海の側って、どうせあれだろ、プライベートビーチとかだろ。船とかもあるんだろ」 「あるって返信あったぞ」  本当に絵に描いたような金持ちだな。 「でもさ、俺らすっかりクラスから浮いてんじゃん。急に行くって言ったら」 「だから伊集院も来いって」 「いや、でも……」  両親の反応を想像するが、間違いなく「良いじゃないか、行ってこい」と言うよな。 「ちょっと考えさせて」 「良いじゃん、行こうぜ。出てくるメシとか絶対うまいし」  篠井は漫画みたいなガリ勉面で、実際に勉強の話をしている時はその通りなんだが。 「お前、けっこう意地汚いな」 「よく考えろよ伊集院。俺たちがハル電機の社長の別荘に行けるチャンスが、今後の人生であるかどうか」  ……うん、まあ、確かにその通りだ。その計算高さは、確かに優秀な証拠だろう。  家に帰って遅めの夕飯に風呂、そして就寝──俺は、別荘行きのことを親に話せなかった。  鼻息を荒くする篠井の手前、行けないとは言えなかったが、俺は行けない。今の俺は絶対に行けないのだ。  真っ暗な部屋でベッドに横になって、俺はすぐに下着の中へ手を突っ込む。もちろんそこは、反り返っている。乱暴に掴み取り、しばらくは下着の圧迫感の中で昂奮を高めていく。  いや、風呂場でも抜いた。それどころか、駅の大便所でも。それまで俺は自慰に消極的だった──快楽はあるが、夢中になるほどではなかった──ところが、高三になってから、いきなり火が点いた。クラスの連中のちょっとした猥談にも反応するようになり、学校のトイレでもやった。それでも制服を着ている内は我に帰ることもあった。自分を恥じることも。しかし、夏休みになって、私服で行動するようになってから、箍が外れてしまった。  股間の火照りが暑苦しくなってきて、下着とスウェットを下ろして空気に晒す。先端を皮ごとグリグリとしごいてやると、うっとりするほど気持ちいい。  指を揃えて、裏筋を丁寧に撫でていく。そうして舌を思い浮かべる。柔らかくて温かくて、優しい舌を。  口の中に挿入する妄想は、手だけではなかなかうまく行かないが、しかし器具を購入する勇気は持てなかった。代わりに、両手ですっぽりと竿を包んで、一生懸命に腰を使う。  ベッドがギシギシと音を立てる。まるで誰かとそうしているみたいだ。あんまり音が立つと親にも怪しまれる、ああ、でも、もう少しだ。  眉間がつんとなって、手の中にどっと開放感が押し寄せる。  自分の精液を両手で受け止めた俺は、すぐに拭き取らずに、ぼうっとしてしまう。 (……クラスメイトと泊まりとか、絶対無理)  お盆は家族と里帰りということにしよう。今年は受験だから俺だけ留守番なんだけど。  だが、翌日にラインの履歴を見ると、篠井は勝手に「俺と行く」と返信を流しており、しかもクラスメイトたちは意外に歓迎ムードではないか。  春日に至っては『お前ら断るかと思った、来てくれて安心した』とか言ってる始末。ちょっと待て。行かないって言えないぞ、この空気!  どうやら春日の別荘には、クラスのほとんどの連中が押しかけることになるらしい。これも春日の人徳だろう。  春日の別荘地までの往復旅費は数千円、手土産こと『おやつは二千円まで』。当然に親は「いってらっしゃい」。  せめて俺は自慰行為を我慢する方法を考えたが、頻度を落とせば逆に一度の快楽が高まるほどで、かえって病みつきになってしまう。  ヤケクソになって、出発日前夜には痛くなるぐらいに抜きまくってやった。これで少しは収まってくれりゃ、いいのだが。  別荘の最寄りの駅に現地集合。電車に乗っている時から、うちの学校の制服の奴をちらほら見るから妙だと思ったが、さて改札口に出てみれば、集まっている人数は、完全に学校行事のそれだ。私服で着ちゃったけど、制服の方が良かったのか?  おおい、と篠井が俺に手を振って、手招きしてくる。比較的話せる部類の男子が五六人固まっていた。 「他のクラスの奴まで来てるらしいぜ。んでもって、春日も断らんわな。で、これが、はい」  と手渡されたのが『合宿のしおり』。いつ合宿になったんだよ。 「伊集院は俺と同じ班な」  ってか班分けされてんのかよ。 「よーし、これで全員集まったな」  リーダーよろしく号令を掛けたのは高田である。仲が良いとも悪いとも言えないが、今は席が近いので、雑談することはある。 「今日はこれから別荘に移動、クルーザーに乗せてくれるって。さすがに全員いっぺんは無理だから班ごとに順番だ。プライベートビーチが使えるのは明日までで、明日の晩飯はバーベキュー。観光したかったら三日目にまとめて。車回してくれるそうだ。あ、三日目の夜に花火大会あるってさ」  高田が立て板に水に喋る予定は、しおりのタイムテーブルそのままだった。 「しおり作ったのは俺だもん。春日に頼まれたんだよ」 「へえ」と俺が感心した声を上げると、高田は得意げに鼻を鳴らした。  だが、俺が感心したのは、春日が高田を巧みに利用したことにだ。真にリーダーシップのある奴は、他人を適材適所に配置するのがうまいのだなと、春日を見ているとよく分かる。 「皆様、お集まりでしょうか?」  燕尾服──ではなかった、白いポロシャツにプレスの効いた青いズボンの中年男性が、高校生集団に声を掛けてきた。  それで「はぁい」と全員で返事をする様は、本当にこれただの遠足じゃないのか。  そして俺たちは黒塗りのベンツ──ではなく、レンタルのワゴン車に小分けに輸送されていった。  別荘の外見は、意外にも地味、というか、どこかの公民館のような雰囲気であった。冷静に考えてみれば、個人が公民館みたいな建物持ってる時点でおかしいんだけど。ぐるりと楕円の形をした壁が海に突き出ており、ガラス張りのバルコニーからの眺めはきっと良いんだろう。 「あれだね、成金趣味って感じじゃなくて、品が良い」  別荘の何が分かるのか知らないが、篠井は訳知り顔でそんなことを言った。  建物の出入口も玄関と呼ぶよりエントランスと呼んだ方が相応しい広さだ。 「おー、いらっしゃーい」  男主人の風格で、春日がそこに立っていた。同じ高校生とはとても思えない。赤系統のアロハシャツに白いズボンって、一歩間違えたら馬鹿みたいな格好が、ここの住人なら絶対そうでなくちゃダメだというぐらいに決まってる。少し首を傾げると、学校によっては校則違反とドヤされそうな、栗色の長めの髪が頬を叩く。 「人数が予想より増えちゃったからさ、ゲストの部屋以外も使うことになって……寝具足らないから、布団だけど、ごめんね」  いやもう、ベッドだろうが布団だろうが、ここに泊まるのに不満のある奴なんていまい。  俺たちの班の部屋まで、春日が案内してくれた。さりげなく置かれた陶器やら絵画の調度品を、俺たちは庶民丸出しでチラチラと見ながら廊下を歩く。 「はい、ここ。俺の部屋はあそこ」  春日が指さしたのは廊下を挟んで斜向かい、重厚な飴色の扉はどこの会社重役の部屋だという風格である。 「あ、春日の部屋に一番近いの、俺ら」  高田が首をひゅっと伸ばして、格の違う扉をひょこひょこと見比べる。まあ、俺たちの部屋の扉も、一般家庭の部屋のそれではないんだが。 「うん、そう。女子が夜這いに来たら助けに来て」  春日が苦笑した。「シャレになんねー」と誰かが笑った。  家柄・容姿・性格の全てが整っているんだから、当然に春日はモテる。が、もちろんそんな境遇の春日には決められた交際相手がいて、噂では付属大学に通う、つまりは年上の彼女らしい。  恋人か。そんな相手がいれば、突然に性欲が暴走して一人で悶々とすることもないんだろう。だいたい、春日のような奴がそんなことする所想像つかないし……ああ、自己嫌悪。 「おーい、伊集院、何やってんだ」  見れば、班の連中がぞろぞろと部屋に入っていくところだった。  俺はバックパックを軽く背負い直し、部屋に入ろうとした。 「大変だな、受験」  すると、春日が俺に直接話しかけてきた。 「んー、まあ、そこまでじゃない」 「自信あるんだ」  そう言われても何と答えていいのか分からない。まだ夏だし。 「……まあ、頑張るさ」  平凡な答えを返して、俺はそそくさと割り振られた部屋に引っ込んだ。  こうして、三泊四日の一日目が始まった。  今日の昼飯だけは各自で持参だが、あとはすべてご馳走してくれるらしい。といっても『おやつは二千円まで』。よくこんな言い回しを思いつくよな。  で、その二千円までのおやつは食堂のテーブルに置いてくれとのことなので、俺は母の用意した焼き菓子の箱を置いた。同じように土産を置きに来る連中は、ちらほらと水着に着替えていた。  部屋に戻ると、もう誰もいなかった。篠井もいないので、俺は立ち往生する。一応、単語帳持ってきたけど……いや、いくらなんでもそれは悲しい。でも、水着に着替えて泳ぐって気分じゃない。  変な所に入らなければ、館内を探検するぐらい、いいだろう。しおりにも案内図が入ってるし。ええと、俺たちの部屋は二階のここで、風呂場は二階の突き当たり……ああ、じゃあ、この湾曲した所がさっきのバルコニーの所かな。  俺はだらだらと廊下を歩く。他にも似たようなことを考えている連中とすれ違う。  視界が突如として開けた。ガラス張りの渡り廊下。青々とした海に、鈍色の砂浜。弧を描いて立ち並ぶ小さな街並み。なんだか絵はがきみたいな眺めだ。こんなものを生まれながらに独占できる人生か。  ぽかんとしていると、尻ポケットが震えた。何だろうと見ると「お前、船乗らないの?」という篠井からのメッセージ。  俺たちの班は、クルーザー一番乗りの班であったらしい。俺は別荘を飛び出した。 「何やってたんだよ、おっそーい」  春日が船に乗らず、俺を待っていてくれた。  船着き場にある白い流線型の船は、せいぜい家族で楽しむ大きさで、大勢を乗せられるものではなかった。 「集団行動、苦手なの?」 「いや、しおりとか見たの、今日だし」  慌てて船室に乗り込むと、直ちに発進した。鈍いモーター音に、ふらふらと揺れる船内。 「なんか釣りでもしたくなるな」 「父さんはよくやってるよ」  班の連中と春日がたわいもないことを言っている。 「なあ、外出てもいい?」  乗せてもらっておいて何だが、船室はきゅうくつに思えた。すぐ向こうに、何の境界もない世界が広がっているのに。 「それなら、ベスト着てベスト」  春日がテーブルの下をごそごそやり始める。  俺は春日から渡された救命胴衣を着込んで、船室の上にある甲板に出た。  ごうと風に髪を引っ張られる。  上にも下にも何も──邪魔な物は何もない。夏になって、ずっと壁と机とホワイトボードしか見てなかった。全てが閉ざされた世界。  他の連中は上がってこないのか、もったいない……と、下をちょっと覗き込もうとしたら、春日がひょいと顔だけ出してきた。 「海が好きなの、伊集院は」 「いや、そういうわけじゃ……でも、山ん中なんだよね、俺の田舎」  父と母は同郷なので、お盆の里帰りはいつも同じ所だ。蝉が手を伸ばせる位置にびっしりとついた木の幹なんてのも、楽しいには楽しいが。 「そっか」とだけ言って、春日は引っ込んでしまった。まあ、春日にしてみれば、こんな眺めも飽き飽きしているんだろう。  砂浜近くを走った時などには、向こうから手を振られたので振り返してやった。そうしてごくごく短い船旅は終わった。  晩飯までの時間は、班の連中にくっついて過ごすことにした。高田の彼女の班と合流して遊ぶことになって、俺は初めてビーチバレーなるものをやったが、気づけばガチの勝負になっていた。体育の時間でもこれほど汗だくになることはなかったと思う。  晩飯はバイキング方式だった。おそらく別荘地名物だろう魚料理が出たが、食えない奴のためにちゃんと肉料理も出されて、いちいち小憎たらしい気遣いがされていた。  風呂は予想通りの大浴場で、旅館としてやっていけるなと誰かが言ったので、「これ以上金を稼ぐ必要があるか」と突っ込んだら、大ウケしてしまった。  そして、俺の身体は一度も異常な性欲に襲われることはなかった。  もしかしたら、受験のストレスのせいだったんだろうか。自分をそこまで追いつめているつもりはなかったんだが。先生には「内部推薦、法学部は問題なく通るよ」と言われてるのに、俺のわがままで国立を受けると言い出し、それでもしも落ちたりなんかしたら、浪人なんてする必要のないことを……俺はずっとそれを心配していた。 「はー、疲れた」  風呂上がりの身体を、どさっと布団に投げ出す。久々に安らかな気持ちで眠りにつくことができそうだ。 「伊集院ってすぐ寝そうだよな」  布団に潜り込んだ俺を、高田がからかった。 「消灯は十一時ね。まるっきり修学旅行だ」  篠井がしおりを確認して感心した風である。 「別荘とはいえ、人の家だからな、仕方ないよな」  しおりを作った当の高田が何やら不満げではないか。 「お前、秋本ん所行きたいんだろ」 「ってか、夜這いだ、夜這い」  続けざまに飛んだ冷やかしに、布団の中の俺がぎくりと身を固くする。  ちょ、待ってくれ。そういう話は、しないでくれ。 「いや、だってさ……せっかくお前、こんな所まで来て……」  満更でもないという声音になって、高田がもぞもぞと語り出す。 「え、なに。秋本とやったの」  って篠井!! お前まで何を言い出す!! 「なに? 篠井、童貞?」 「悪かったな、そんな暇じゃねえよ」 「暇とかそういう問題かなぁ」 「おい、伊集院」  布団の上から、がくがくと揺すられる。おい待て、俺に話を振るな、俺に! 「寝た振りすんな、伊集院、お前童貞だろ、なあ」  童貞だよ!! 童貞だからほっておいて、お願い!! 「伊集院もアホだよな、コイツけっこう女子人気高いぞ」  高田が聞き捨てならないことを言った。 「マジで。伊集院がモテるの?」 「モテるっていうか、悪くない奴って感じで名前が挙がりやすい、と由岐が言っていた」  おい秋本由岐。俺は一度もお前からそんな話を聞いたことがないぞ。 「おーい、消灯だから電気消すぞー」 「見回りの先生でも来るのかよ」 「来ないけど消すの」  閉じた瞼を刺激する光の圧力が消えた。  そして、いよいよもって班の連中の雑談が、そちらの方面に向かう。 「でも、伊集院が良いとか言ってる女はすぐ男出来るってよ」 「だめじゃん」 「で、お前は秋本とどうなの」 「どうって何が」 「やりまくってんの」 「うわ童貞のひがみだ」 「ひがんで悪いか」 「秋本って前に佐々木と付き合ってただろ、Cクラスの」 「それがさ、佐々木とはやってなかった」 「マジかよ、じゃ秋本、処女だったん?」 「……おう」 「マジかよ……」  俺は耳を塞ぐべきだった。それなのに、息を潜めて、聴覚に全神経を傾けている! 「いや、でも、処女だったけど、最初っからエロいんだよ、あいつ」 「エロいって?」 「ってか、佐々木と別れたのって、佐々木がなかなかヤりたがらなかったからって」 「じゃ、何か、佐々木って童貞で、秋本とやらないまま別れた?」 「……んじゃねえのかな、多分」 「へー、あいつが、意外」 「でも、フェラはしたらしいぜ」  その高田の一言に、俺の心臓は鷲掴みにされた。 「だから、最初っからフェラだけうまいでやんの」  もうだめだ。無理だ。身体から抜けたと思ったはずの毒が、腹の奥からふつふつと煮えたぎり、俺の股間に集まり始める。  高田が自慢げに語る恋人の口の快楽。それらは音として耳に入るが、脳で意味を構成せずに素通りする。ただ跳ね上がった股間がずきずきと痛い。ああ、ずるいじゃないか、童貞処女のままであったって、恋人さえできればその快楽を味わえるだなんて、恋人さえ──だって俺、別に誰か好きなわけでもないし──でも肉体がこんなにも欲していて──  猥談はたっぷり小一時間は続いたような気がする。その内、エロ話にも飽きて、何かのキーワードから話題はまったくズレて、班の連中の人生相談になったり、篠井が受験の愚痴を言ったり、俺を除け者に深夜の青春劇場は繰り広げられた。

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