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六、私は悪夢を見たのです
砂まみれの俺が別荘に戻ると、春日はもうTシャツ姿で和気藹々と、大スクリーンの動画鑑賞会を主催していた。インターネットにも繋がっているらしく、面白動画を引っ張ってきては大喜びである。
俺はともかく、春日は何があったかと心配されるだろうに、一体どう誤魔化したのか。
ひっそりと風呂へ入ってからは、部屋の布団に寝っ転がり、消灯時間まで単語帳を眺めて過ごす。
「ついに勉強モードに戻っちゃったよコイツ」
枕を抱えた篠井が言うが、そういうお前だって世界史年表を持ってるだろ。
下の方からどっと笑い声が沸いたり、感嘆のため息が漏れるのを聞いたりしながら、俺たちは黙々と自習した。
「おーい、受験生、頑張ってるかー」
どやどやと班の連中が戻ってくる。が、一人足りないようだ。
「高田は?」
篠井の問いに、ぶんぶんと手を振って。
「秋本ん所に決まってるだろ、もう寝ようぜ」
ああ、そうか。まあ、そうだよな。これだけ広い別荘の中、いや別荘の外でも、いくらでもできるよな──いくらでも。たとえば、岸壁の陰でも──
「消すぞ」と篠井が言うと同時、部屋の明かりはぷっつりと落とされた。
俺は一人、じりじりと身を焦がし始める。いや待て、ちょっと待って、さっきあんなに──でも、俺、口でしてもらっただけだし。
その考えに、俺の首筋につうと冷たい何かが走る。
え、じゃあ、俺、どうしたいんだよ。いや、ええと、まあ待て、彼氏いたって言ってたし、高田が言うには、フェラチオってけっこう練習いるらしいし、でまぁ、すげえうまいし、ってことは当然、経験あるんだろうし、いや、経験って、男同士で経験って、なんか、えっと、尻の穴を……。
俺はぶるぶると首を左右に振った。いや、男だぞ。口でしてもらう分には男も女もそうは変わらないし。だって体つきとか全然違うじゃん。春日の、春日の身体って、あの、何か、絶対モデル体型の女を何人も侍らせて様になりそうな、マッチョってわけではないけど、男らしくて、なんか美術の石像みたいで、でも、じゃあ、それで、あいつは、たとえば、それで、男に、……。
俺はそろそろと布団を這い出た。音を立てないようにして廊下に出る。廊下を斜めに横切って、一度その部屋の扉に触れて──それから、俺はあのトイレを目指す。
扉を開けると中は暗かったので、壁際のスイッチを探り当てて電気をつける。扉を後ろ手に閉めて鍵を掛ける。
きっと何かの天然石なのだろう、漆黒の洋式便器の前に、俺は勃起したそれを突き出す──その前に、彼の幻を見ながら。
彼に抱かれて悦ぶ女はいくらでもいるはずだ。なのにあいつが悦ぶのは男に抱かれた時だ、あのしなやかな身体が情欲に塗れてくたくたになるのは、女を下敷きにする時ではなくて男に下敷きにされる時で──
洋式便器の前に倒れた彼は、俺の前に尻を突き出して俺を流し目に挑発する。そうか、お前はそうやって性欲発散してたのか、やっぱり何もかも完璧な人間なんていやしないんだ、そうやって屈折してる所があるのが人間だ!!
ポタポタと、精液は便器の中の水溜まりへときちんと落ちていった。今度は掃除の必要はない。水を流せば、後始末は終わり。
扉の方を見ても、そこにはもちろん誰も立っていなかった。
三日目になり、春日家の使用人たちが手分けして俺たちを観光に連れて行ってくれることになった。
駅からの送り迎えに使われたワゴン車が、俺にとっては護送車に思えた。もうどこへでも連れってくれ、刑務所でもさ。
車の中で、遠足のノリではしゃぎ回る馬鹿共を放っておいて、俺は呆然と流れる景色を見つめた。というか、俺が放っておかれてるんだけど、それはもういい。
別荘地らしい閑静な住宅街に遺された史跡、といっても立て看板一つだったりするのだが、それをまた、歴史になんぞ興味もない連中が有り難がって読む。なんだこの茶番。
由来も興味の持てない寺社に連れて行かれ、宗教心の一欠片もない参拝をした。
頭上の青葉がとにかくうるさい。両親の実家とは違う種類の蝉が鳴いている。海沿いだからか、波の音に似ている気がした。
いつの間にか、高田と秋本を中心に、男女二つの班は合体していた。そいつらが絵馬をいじり倒すという不敬な真似をしているのを、俺は離れた所で見ていた。
で、高校生集団からぴょこっと飛び出てやってくるのは、案の定、篠井なのである。
「おい、体調悪いのか」
「あっつい。昼飯どうすんの、今日」
「この後、土産物屋冷やかして、どっか好きな所に入ろうって話らしいぞ。ソバでも食いに行くか?」
「……ん。そうしようか」
全員で行動すると十人以上になるのだ、飯屋とて迷惑だろう。もういい、篠井と二人行動にさせてもらおう。
「本当に大丈夫かお前、ちょっと顔色悪いぞ」
「んー……いや。まあ、あんまりしんどかったら、別荘戻らせてもらうけど、とりあえずメシは食う」
「……なんか、悪かったな」
篠井が申し訳なさそうにうつむく。
「無理矢理連れ出しちゃってさ」
「いや、別に篠井のせいで具合悪いわけじゃねえし、いいよそういうの」
「なんかさ、俺、ちょっと……あ、おい、車出るぜ! メシ行こう、メシ」
篠井は何かを言いかけたが、ワゴン車に続々と班の連中が集まっているのを指さして、そちらへ駆けていった。既に俺たちは班からハブられ確定のようだ。まあ、別に、そっちの方が楽で良いけど。
『古風』が演出された街並みに下ろされて、篠井が「大所帯だし分かれようぜ、二時に集合で」と仕切ったら、待ってましたとばかりに散り散りになってしまった。
篠井の希望通りに蕎麦屋で昼飯を終えて、土産物屋の小路を歩く。店先に並ぶ小物は、白と黒と金、それに赤の縮緬を使ったものがやたらに多いように思う。
細い路地をあてもなく歩いていると、ついに篠井が口火を切った。
「春日、苦手なんだよ、実は」
二重の意味で意外な発言だった。春日を「苦手」なんて言う奴がいるのか、というのと、いやだって、春日と仲良さそうだったじゃん、というのと。
「だからその……春日って、誰とでも分け隔てなくって感じじゃん。で、実際、小学校からの奴とさ、俺みたいな高校からの奴、みーんなに愛想が良いしさ。よく知ってるよな、社長のこととか」
「ああ……俺知らなかったんだけど、それ」
「いやだって、放送部の弁論大会でのネタだもん、去年の文化祭の。なんでそんな所までチェックしてんだよ、こえーよ正直」
ああ、まあ、春日だったら、文化部のしょうもない展示だって真剣に見て、頭に叩き込みそうだ。
「嘘っぽいんだよ、なんか。でもそういうこと言うと、あいつ味方多いし。別荘には来たかったし。昨日の肉うまかったよな?」
話が逸れているが、「まあな」と相づちを打ってやった。
「ええと、だから。ああそう、春日はね、他人に嫌われないようにってすごく努力してて、しかもその努力が滑らないのがすごいんだけど、それがおかしい」
──よく篠井を誘えたよな、お前。
──違う、お前が篠井を連れ出したの。
「あの、ひょっとして、俺と……友達でなかったら、来てなかった?」
「そりゃあ、春日がおかしいって言って、平然と話聞いてくれそうなの、お前だけだよ」
ハル電機社長の別荘には興味があるが、春日は嫌い、それをさらけ出せる相手が必要だったから俺も誘ったと、そういうことだろうか。
「まあ、春日は……多分……」
我慢してることも多いんじゃないかなぁ。だってあいつ、ホモだし。学校の連中にバレたらまずかろう。そういう所を含めて、春日は演技を重ねているのか……じゃあ、ええと、俺が見たのが本当の春日ってこと? え? それどうなの?
「何赤くなってんの、伊集院」
いや、だからですね。春日にオナニー見られたらフェラチオされたりですね、覗きやろうとしてる所を取り押さえられてがっつりと……なんだっけ、あれ、イラマチオだっけ。えぇと、だから、それで、何だっけ、えーっと、俺はとうとう春日で抜きました。はい。
「なんだよ……お前、実は春日のこと」
「いやいやいや、それはない! そういうんじゃない!」
「そんなムキになって否定しなくてもいいだろ」
「否定って……いや、どうかな……俺は……俺……でも……」
どうなんだろうか。春日が俺にそういうことをするのは、同性への興味だけだと思うし。彼氏と別れたばっかりだって言ってたし、溜まってたんじゃないのか。
「万が一にも、俺がそうだとしても、春日はそうじゃないと思うぞ」
「まあな、春日にしてみれば、下々の人間にやっかまれたところでどうともないさ」
「え? 何の話?」
「だから、お前も春日が嫌いなんだろ。顔真っ赤にするほどって、何か恨みでもあるのか? 俺が正直に言ったんだから、お前も言えよ」
あ、はい。
そうでしたね。
そういう話をしていましたね、俺たち。
「伊集院?」
「……いや、良いんだ。そう、それでいい。そういう話を俺たちはしていた、良いな」
「うん……まあ、土産でも見ようぜ、家に買ってくだろ」
篠井なりに察してくれたらしく、話を変えてくれたので、俺は心の底から安堵した。
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