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八、好きだと言われても困ります
車が走ることしか考えてない道路の脇、車道に白い線が引かれただけの歩道を、春日と二人、縦に並んで歩く。
俺は春日に怒るべきではなかろうか。さっきの行為は明らかに陵辱であり侮辱だ。だが、それよりも大きな謎が立ちはだかっているために、いまいち感情が動いてくれない。
つまり、春日は、どうして俺にこんなことをするんだろう、ということで。
さっきちょっと考えたけど、春日はホモで、恋人と別れたばっかで寂しくて、俺にちょっかい掛けてんだとしたら、まあ、何というか、それなら人間、そういう気分になることもあるんじゃないか、ぐらいに流せてしまう俺って何だろう。
時々、制限速度を無視したような自家用車がビュンと走り抜ける度、俺たちは足を止めた。
「ねえ」
何度目か、車が通り過ぎた後に、春日が振り向いた。
「……少し話していいかな」
返事をする前に、また車があっという間にすぐ側を走って行った。
「……ここで?」
「海行こ」
勝手知ったるなんとやら、信号もない車道を、春日は歩きで突っ切った。俺は右見て左見てまた右見てから、小走りに横断した。
渡った先は、緑地がなだらかに下降しており、そこを降りると別荘でない住宅街が広がっていた。
階段でもないかと思っていると、春日はスライディングの要領で緑地を降りて、住宅街の道に着地。ええと、俺にもそれをやれと。
運動音痴ってわけではないが、いまいち大胆さが足らないのか、俺は緑地を掴みながら少しずつ降りていった。
春日は俺を馬鹿にするかと思ったが、なんだかつまらないものを見たという風な顔をしているものの、何も言わずに、また歩く。
古ぼけた印象のある、資料写真のような懐かしさのある住宅街は、田舎の祖父母の街並みにも似ていた。道の際に生えているのは、線の細い雑草が多くて、山と海ではちょっと違うなと思った。
「こっち」と、言われるがままに道を折れていくと、視界が開けて、空の青を映したような海が一面に出た。堤防に遮られていて砂浜はない。海釣りを楽しむ者はちらほらいる。
「向こうの方に海水浴場あるよ。プライベートビーチってのは、紳士協定みたいなもん。中途半端にあそこだけ広くて、そこをうちが別荘建てて、使わせてもらってんの」
春日は手で方向を示しながら、事情を説明してくれた。
堤防にひょいと座り、買い物袋から瓶を二本取り出す。へにょりと袋は潰れてしまい、それが中身のすべてだったらしい。
「ほい」と、瓶は俺に差し出された。
受け取って、春日の横へ座る。栓を開けるとプシャリと音がしたので、炭酸飲料かと思って口を付けると、何の味もしない。水? まぁ、ベタベタしなくて飲みやすいからいい。
「って、これ、頼まれた買い物じゃないのか」
「嘘に決まってんだろ」
そうかそうか。俺を便所に一人にするための嘘か……ってどういうことだよ!!
うん、さすがに怒ろう。怒った方がいいぞこれは。よし怒る。
「春日、お前、どういうつもりだ、さっきの」
「二人っきりになりたかった」
……えぇと、なんか、すとんと答えられてしまったぞ。
「あの店、ご近所さんと会うし。さすがにあそこで抜いてあげるのは無理かなー。どうかなー。そんなに俺に抜いて欲しかった?」
春日がくりと俺の方を向いた。俺はぷいと春日から顔を逸らした。
「で、俺の話なんだけど」
話題もう変えちゃうんだ。
「藤岡って覚えてる?」
俺がうなずくと、春日はミネラルウォーターの瓶をラッパ飲みにあおった。
中学三年生のクラスには、二年生から不登校だった藤岡がいた。ちなみに春日も。というか、俺と春日、中高六年間ずっとクラス一緒なんだよな。
「藤岡が登校してくる前の日、俺は担任に呼び出されていた」
唐突に、春日は昔語りを始めた。
「担任は言うわけ、春日くん、藤岡くんのことちょっと気にしてあげてねって。そういうことだよな、俺が藤岡の面倒をみることになると」
「なんだよ、それ。初耳なんだけど」
「初めて人に話すからだ!!」
分かったから、怒鳴るな。
「それで、俺は登校してきた藤岡に、『おはよう、元気してた』って声掛けたの」
「それで、どうなったんだ?」
「その後はお前だって知ってるだろ!」
藤岡が中三になって初めて来た日……えーっと……ああ。
「藤岡ガチギレしてなかったっけ?」
「したよ! 俺が声を掛けた瞬間、『ふざけんな!』ってガチギレして大暴れだよ! そこにお前が教室来てさ!」
出てきて……何だっけ? 担任と保健室の先生が駆けつけて、んじゃ保健室行きましょうって、藤岡は教室出て行って……ああそうだ、昼休みに心配になって、見舞いに行ってやったっけ。
「お前、藤岡に何て言ったか覚えてない? ガチギレして机ひっくり返して、椅子を壁にぶん投げてる不登校児に!」
「そんな昔のこと覚えてないよ」
「お前はな、藤岡に向かって、『あれ、お前なんでいるの?』って言ったんだよ!」
藤岡とは中一の時には同じクラスだったので、顔は覚えていたのだ。中二では分かれたので、不登校に至るのに何があったかは知らないし、俺も訊かなかった。
「お前が言った瞬間、クラス中顔面蒼白だよ! なんで忘れるんだよ!」
うーん、春日はそんなに藤岡のことを気にしていたのか、律儀な奴。
「なら、藤岡がお前にどう言い返したかも覚えてないの?」
「だから、昔の話じゃん、そんなの」
「……『伊集院は嘘をつかない』って、言ったんだよ」
そんなこと、さっぱり思い出せない。
「俺はその時さ、藤岡は、ひねくれてるだけだと思ったんだよ、そりゃ藤岡を本気で心配してるわけじゃないけど、でも久々に学校来た奴に声を掛けるの普通じゃん。そこでガチギレして暴れるってさ、被害妄想ひどすぎるって思ったよ」
そこでまた、春日はちびちびと瓶の中身をすする。喉が渇いたわけじゃないが、俺もちょいと瓶を傾けた。辛みのある炭酸の刺激が目を冴えさせる。
「……でも、そうじゃないんだ」
春日は海へ目を転じた。気が遠くなるほどに真っ直ぐな水平線と、アルミホイルをグシャグシャにしたみたいな海面と。
「お前はその後、藤岡と隣の席に『させられて』、それで藤岡の相手して、教室がみんなホッとしてんの。厄介な奴を引き受けてくれた奴が出てきたって。俺もホッとしてんの。これで藤岡に無理して声掛けなくて良いって。それで……は」
何か言いかけたことを、春日は不自然にかき消した。
「それで、伊集院は、藤岡と、漫画の話したり、勉強の話したり、それがさ、『お前なんでいるの』って言ってるのと、ホント同じなんだよ、喋り方が。藤岡なんて、どう考えてもただの腫れ物じゃん。なのに普通にくっちゃべって普通に友達になってんの。修学旅行も一緒に楽しんでんの」
春日の長広舌を、俺は狐につままれたような気分で聞いていた。藤岡が厄介者扱いなのは分かっていたつもりだが、ここまで悪く思われていたのかと、俺は藤岡をこの時初めて気の毒に思ったのだ。
「でさ、多分、伊集院は、それ藤岡だから出来たんであって、別の奴が不登校だったらそんなことはしなかった。藤岡が不登校だったからって、同情してそうしたんじゃない」
「そりゃあ、当たり前じゃん?」
「だから、それが当たり前ってのが……だからさ、みんな嘘を吐くんだよ、そういう時は嘘を吐くんだよ、みんなが受け入れてくれそうな嘘をさ、だから」
春日はクルクルと手首をぶん回し、言葉を探す。
「だから……篠井って俺のこと嫌ってんじゃん」
気づいていたのか。でも、それを肯定して良いのだろうか。
「だから、嫌ってるの。でも、篠井は俺に嫌いだとか言わないでしょ。でも、し、じゃなくて、だから、伊集院は、そういう時に、なんか嫌いって言う方じゃん、多分」
「えっと……誰が、誰を?」
「だから、もしも」
そこで、春日の白皙がさっと青ざめたような……気がした。
「もしも、伊集院が俺のこと嫌いだったら、『俺、春日のこと嫌いだから』とか言う。その……だから、別荘とか誘っても、絶対に来ないとか、そういう……」
春日はもごもごと口ごもり、言葉は消えた。何を言わんとしているのか、おそらくはこうだろうという推測を、口にしてみる。
「つまり……俺は正直すぎるとか、言いたいわけ?」
「伊集院はさ、いつも自分に正直に振る舞ってさ、絶対俺のできないことをするんだよ」
「春日ができないことって?」
「俺は、自分に正直になって、誰かの心を開くことなんて、出来ない……いつだって、一番数の多い奴が考えそうなことを追いかけて、みんなに嫌われないように、嫌われても反発されないように、うまくやっていくことしかできない」
「いや、それけっこう凄いと思うぞ、俺そんな器用な真似は無理」
「知ってるよ」
うーん、馬鹿にされてるんではなかろうか。
「あの、だから……伊集院は、だからその……だから……」
さっきから『だから』が多いな、春日。
「そういう伊集院を、ずっと見てた……だから……その、ずっと、好きだったんだよ」
なんだ、そうだったのか。春日にそこまで評価されていたなんてちっとも知らなかった。
「そうか、でも春日も、そんなに自分を卑下するなよ。やっぱり、お前は人から妬まれやすいから、そうならないように振る舞うってのは必要だろ。俺なんか……ああ、そう。名字を羨ましがられることがある。『伊集院』って。でもさ、小学校の時に……」
「何の話してんの?」
うっわ。なんか凄い顔してるんだけど。人刺し殺しそうな顔。刃物持ってないだろうなこいつ。
「え……いや、だって、俺のこと、正直で良いとか言ってたからさ」
「うん、言った。で?」
「で、って……え? 自分はあんまり正直になれないから、俺のことずっと見てて好きだみたいなこと言ったじゃん」
ゴンと鈍い音がした。春日が空き瓶の底を堤防のコンクリートに叩きつけていた。割れなくて良かった。
「あのさ……くそ、ふざけるな」
ちぃと鳴らされた舌打ちは低く、俺の鼓膜に張り付いた。
俺は春日の言葉を反芻するが、藤岡のことを延々話してただけだよな。
「ちょっと良いかな?」
春日はふて腐れるあまり、声は低くなるどころか、若干の歪みさえ持ち始めている。
「あ、はい、なんでしょう」
「俺、彼氏いたって言ったよね」
「別れたんだろ?」
「うん、この間ね」
それからしばらく、たっぷりと潮騒の音を聞いた。
あ、俺から続ける意志を示さないとだめだなこりゃ。
「……付き合い、長かったの?」
「付き合ったのは半年もない。知り合ったのは高校上がってすぐの頃」
「初めての……」
「んなわけあるかよ!!」
キレるポイントが分からない。
「三人目」
多いのか少ないのか。ちょっとイメージが湧かないので、仮に女の話だとして、春日に今まで彼女が三人……うん、普通か。
「初彼氏は中三」
あ、はい……それはどうも。
「相手は大学生だったけど、ちょっと性癖がおかしい奴で、高校上がったら振られた!」
それけっこう酷い話なんじゃね?
「二人目は社会人で、なんかやたらプレゼントしたがるんだよ、金とかもよこすから、そういうの嫌だって言って、俺からフェードアウト」
なるほど、援助何とかっぽい空気になってしまったと。
「三人目は……ゲイのお水関係……それまでも相談乗ってもらってさ……でも、そいつ二股掛けてた……あの、チャットで知り合ったんだけど、同じチャット仲間だった」
そうか、仲間内でそういう浮気みたいなことをされるのはつらいだろうな。
で、男性遍歴を聞かされた俺はどうすればいいんだろうか。
三人も付き合ってるってことは、経験はあるんだろうな……うん……その……まあ……あの……。
「で、俺が何言ったか分からないわけ?」
「えっと……苦労したんだな、と」
春日の顔が、どす黒い。どういう血の巡りでそうなっているのか分からないが、色白の皮膚がどう見ても黒い。なんだ、何なんだ。
「え……ええと……じゃあ……あの……一つ……気になってることが……」
「何が?」
「あの……あの……春日は……」
「俺は?」
「どっ……童貞ってことは……ない、よな?」
春日は、ひょいと首を傾げた。唇をすぼめて、ひゅうと笛を吹く。全体的に「笑み」の形に顔面の筋肉が動いてはいるんだが、これがもう、全然、見ている者にその印象を与えない。
「……ああ、そう、そーゆーことを、考えるわけですか」
「あ、いや、えっと……あの、なんかね、一昨日、高田が妙なことを……秋本がさ、その、高田と付き合う前に彼氏がいたんだけど、そいつとは何もしてなかったとか、そんなようなことをだね……うん……だからその、付き合ったからといって……いや、その……」
「俺、童貞だけど?」
ぶっちゃけた!!
「そっちは頼まれても断っちゃう。俺ネコだし」
なんだって?
と、春日がすっと俺に顔を寄せてきて、俺は思わずのけぞったのだが、頭をがっちり掴まれて、耳元で、
「ホモの女役だっつってんだよ」
と、言われた。
掴まれた頭に、五本の指がグイグイと食い込んでくる。春日の呼吸が、俺の耳の穴に差し込んでくる。
「で、それでどうすんの? そんなこと知って何したいの? ん? 何考えてそんなこと聞いたの?」
「た……ただのこう……好奇心、的な……いや、悪い、その……」
耳たぶが舌でひょいと持ち上げられた。
「言えよ」
「え」
「『俺の童貞、春日のケツマンコで卒業させてください』って言え」
……なんか、一部ちょっと理解しがたい表現があったんだが、だいたいの意味は分かってしまった。
「え、なに……え?」
「物覚えが悪いね。そんなので法学部行くつもりなわけ?」
「それ、関係な……ぐ」
股間がグイと掴まれた。その掴み方は、乱暴な愛撫などではなく、握りつぶしてやるという敵意に満ちていた。痛めつけられこそしていないが、あと少し力を加えれば、激痛が襲うだろう。
「しらばっくれてないで、言え」
「あ……えっと……」
口を開けたら涎が垂れそうで、俺は一度唾を飲み干した。それ、言ったらどうなるんだよ。
「言わないなら、それでも良いけど?」
「あ……あの、言う……ので」
「うん」
「あの……お、俺の……童貞を……その……春日の……春日で……卒業……」
「誤魔化すな」
ふっと耳の奥に息を吹きかけられた。
「じゃあ、あの……春日の……春日の……」
春日は息を殺して俺の言葉を待っている。
「あの……俺の、童貞……春日の、ケツマンコで……卒業、したい……です……」
これでだいたいは合ってるはずだ。
と、俺は春日に突き飛ばされた。俺の上体が大きく傾いで、傍らの瓶を海へと落としてしまった。拾おうにも、それはゆらゆらと波を泳いで遠ざかっていく。
「ああ、おい、瓶……」
春日は堤防の上に立ち、そして道へと飛び降りた。
「春日!! ちょっと待て!!」
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