12 / 19
十二、考える暇もありません
春日の別荘から戻ったその日の夜。両親はまだ自分たちの郷里にいるので俺は一人。本来ならば俺は盛大にフィーバーしていただろう。
(春日、今何してる?)
返信まで三十分ほど時間があり、俺は勉強などしてみようと思ったものの、結局はスマホの画面を眺めていた。
『接待』
(お客さん来てるの?)
『出かけてる所。家戻るまで待って』
仕方なく、俺は今度こそ自習を始めた。集中はできなかったが、ノートを二頁消費したところで着信。
『で、何?』
春日の声音は明らかに俺を突き放していた。
「いや、何してるかなーって思っただけだよ。ってか、春日ってドライだなー」
『伊集院がこんなにベタベタしてくると思わなかった。イメージ狂った』
って、あれ?
「……志門くんって呼んでくれないの」
むっつりと黙り込む気配がして。
『だって、人前でうっかり呼んじゃったらまずいかなって』
「藤岡もそう呼んでたし、大丈夫じゃないの」
『おかしいよ! バレるよ!』
「バレるかなぁ。俺と春日が付き合ってるなんてみんな考えないと思うけど」
『それは、そうだろうけど!』
これは、顔真っ赤にしてそうだ。
「春日から見て俺ってどうだったのよ」
『どういう意味、それ』
「だって、俺がこんなにベタベタしてくると思わなかったって」
『……あの』
ものすごく言いづらそうに。
『もっと淡泊だと思ってた』
そう思われるような心当たりは、あるにはある。俺はその手の浮いた話を嫌がるような所はあった。今思えば、自分の性衝動と向き合うのが嫌だっただけかもしれない。
『ヤることで頭いっぱいのドスケベだとは思ってませんでした』
「なんだよ、その言い方。春日は俺がスケベなのが嫌なの?」
空気さえ静止したかというほどの、沈黙。
『……そういう意味じゃないけどさ』
「じゃあ良いじゃん」
『でも、俺の告白に気づかないのは、ちょっと酷かったんじゃないですかー? 俺がゲイだって分かってたんでしょー? それであの反応ってどうなの?』
う。なんかこの件、よっぽど恨まれているらしい。
「いや……こう……俺のことを尊敬してます的な話に、聞こえたし……」
『確かにそういう意味もあったけどー、今はもうないかなー』
「えっ、どうして!?」
『志門くんがすっごくドスケベだって分かったから』
春日は電話の向こうで本当に愉快そうに笑った。俺はむかっとしながらも、ほっとしていた。
「うん……二人っきりの時は、そう呼んで欲しいかな」
俺が言うと、春日が「あ」と言ったきり、黙ってしまう。
「何となく。俺は春日のことはそのまま呼ぶけど……」
『うん……俺も、春日って呼ばれるの好き』
やっぱりそうなのか。
『なんかね、志門くんの「春日」は特別なんだよ』
俺は首を傾げてしまう。春日がそれを見たかのようにくすりと笑った。
『志門くんは俺を呼ぶ時に何にも考えてないのが分かるから好き』
「それは……褒められてる?」
『うん。他の連中は、俺に媚びたり、俺にやっかんだり、何かね、「色」がついてるの、分かるよ。俺、すごく色んな人に名前呼ばれるし』
人気者は苦労するんだな、やはり。
『俺あんまり自分の名前好きじゃないし。志門くんみたいなお洒落な名前が良かったな』
「それたまに言われるけど、伊集院との組み合わせが最悪だと思うんだけど」
俺が言うと、電話の向こうで大爆笑されてしまった。うん、その反応含めて最悪なんだよ、まったく。
『良いじゃん、名字も名前も豪華でさ』
「分けてあげたい」
『そうだね』
まだウケているらしく、春日はくつくつと笑っている。ウケすぎだ。怒るぞ。
『……ねえ、志門くん。二十一日なんだけどさ』
「あれ、だめになった?」
『いや……十時待ち合わせって言ってたから、午後用事ある?』
「ああ、講習。でも夜からのコマだし。五時から」
『そう』という相槌が妙に固かった気がした。
「どっか行きたい所ある? ああ、別にT駅でなくて良いんだけど」
無意識の内に、塾の最寄り駅を指定してしまった。大きな駅だから色々あるし、困りはしないだろうと思ったのだが。
『映画観に行きたいんだけど……待ち合わせ早くしてもらっていいかな、朝イチの回にしたいから』
春日が観たい映画か。何とか芸術祭に出るような格調高いのでなけりゃいいけど。
「別に良いよ、後で時間送って」
『あと、制服は着てこないで』
「塾には私服で行ってるけど」
『うん……なら、良い』
なんかちょっと元気がないぞ。
『あの……じゃ、二十一日ね』
「え、あ、うん」
話題がなかったのでそのまま切ってしまったが、ちょっとガッカリした。
それからも、ダラダラとメッセージを送ってみたのだが、別荘に滞在する春日は社交に忙しいらしく、あんまりゆっくりと話せなかった。
春日は待ち合わせの駅をY駅に変えてきた。T駅と同じ路線だが、俺はそこを利用したことはなかった。おまけに待ち合わせが八時半。春日が観たいという映画がやたら早い時間から始まるのだ。B級っぽいパニックアクション映画で、公式サイトのあらすじには、あらゆるペットが突如として凶暴化して人間を襲うとか何とか……これ、B級で済むのか?
Y駅方面の電車は比較的空いていた。Y駅はこぢんまりした駅で、利用者が少なめのせいか、清掃も行き届いていない感じがした。
改札口は小さいのが一つ。駅に面した通りを見ると、飲み屋らしき建物がぽつぽつ見えて、高校生が来るような場所には思えなかった。
「……志門くん」
首筋に囁きかけられ、俺は飛び上がった。
「驚きすぎ」
がばとそちらを振り向くと──
「うわ、なんだよその服」
黒のタンクトップに銀のメッシュ地のものを重ね着して、ギラギラと光って見える。下は短パン。耳にも腕にも、名称のよく分からないシルバーアクセサリー。別荘で見た春日は男主人のホストだったが、この春日は水商売のホストだ。
「なんか……志門くん、私服なのに予備校通いの受験生丸出しなんだけど」
春日はフッとため息。丸出しも何も、その通りじゃん、今の俺。
しかし、うらぶれた雰囲気のY駅周辺には、春日の服装はよく馴染んでいるようだった。それこそ、飲み屋街の明かりが灯るような時間帯であれば、バッチリ決まるんだろう……って、決まっちゃダメだよ、俺ら未成年なのにさ。
「さ、行くよ」
春日は俺の指先を掴んで、引いた。ひょっとして、手を繋いでくれるのかな。人前でイチャつくなとか言うと思ったのに。俺は嬉しくなって、ガッチリと春日の手を捕まえた。
「この辺、よく来るの?」
「ん、まあ……そうかな」
春日の答えは歯切れが悪く、会話が続かなかった。あんまり深く聞いちゃまずかろうと、俺は周囲をキョロキョロと見回す。道々のネオンサインや電球はどれも消灯していて、どす黒く見えた。筆記体でPUBと綴ってあるようだから、やはり夜の繁華街、っていうか、これ、歓楽街と言った方が良いかもしれない。
「ほら、ここ……入るよ」
春日が足を止めた映画館はずいぶんと年季が入った建物だった。『上映中』とある新品のポスターでさえ、しなびて見える。料金表は普通の映画館と同じだから穴場ってわけでもなさそうだ。
中に入ってみれば、これまたうちの学校の講堂の方が広いぐらい、一学年入りそうもない小ささだ。案の定、客は俺たちだけ。ヤケクソになってど真ん中を陣取り、色あせた臙脂のシートに腰掛ける。春日は何かを買いに席を立ち、俺はシートの背もたれを軋ませたり、スマホの電源を落としたりした。
何だって、初デートにこんな所に連れてくるんだよ。それとも春日なりに何か考えでもあるのか。
せっかくのデートだというのに、気持ちが暗くなってくる。と、春日が紙コップをいくつも抱えて戻ってきた。
「はい、ウーロン茶で」
「ん……ありがと」と答える声が、少しむすっとなってしまった。
隣に座った春日の手には、ポップコーンとコーラがあった。
「志門くん、コーラだめだったよね」
「うん……って、何で知ってんの」
そんなことを教えた覚えはないんだが。
「何でって……知ってちゃ、ダメ?」
春日の眉が悲しげに下がったので、俺はウーロン茶を飲む振りをして顔を背ける。
「いや、ダメってわけじゃないけど」
俺が誰かにそういう話をした所を、春日は見ていたんだろうけど、困るよなそういうの。困るよ。だって俺、全然気づかなかったし。女子に噂されてたって気づかないのに、春日に想われているのに気づけと言われても、困る。
何とも気まずい空気を打ち破ってくれたのは、上映開始のブザーであった。さしあたってスクリーンを見つめることにする。
目まぐるしく切り替わる予告編をやり過ごし、本編が開始する。何だっけ……ペットが凶暴化して人間を襲うとかいう話だよな。女の子がウサギを抱っこして撫でている。ペットのウサギの瞳に不自然にカメラが寄っていく。そして少女の悲鳴。血。
それからが酷い有様だった。ペットが凶暴化するシーンでは、CGとかそういった工夫もなく、どこぞから払い下げられた着ぐるみ丸出しのイヌだのワニだのトラだのゴリラだのが大暴れ。ペットが凶暴化も何もない。そんでもって、スプラッタ描写だけがやたら凝っている。お手本のようなB級どころかC級、いやこれZ級だろ。
が、である。俺の横には、お気に入りのアニメの長編映画を見に来た子供みたいな顔の春日がいる。意外にも意外すぎて、怒る気にもならない。っていうか、俺は春日を見ていれば良いので、その意味では退屈ではなかった。こんな映画を誰かと観に来たくても来られないだろうし、だったら俺が一緒にいてやるぐらいは構わない。
画面の阿鼻叫喚がふっと静かになったので、何だろうとそちらを見れば、画面が妙に真っ暗で、もぞもぞと人間が絡み合うような……ああ、ラブシーンか。そういえば一応、主人公っぽい男と女がいたような気がする。
再び春日を見ると、春日は唇を真一文字にして、むっつりしている。男と女の濡れ場は苦手なんだろうか、それともスプラッタシーンでないと嫌なのか。
コーラを飲み終えて、紙コップは春日の手で小さく畳まれていた。俺は紙コップを取り上げて、代わりに自分の手をそこへ置いた。と、春日は肩をぶわっとすくめて硬直してしまった。春日の手を二三度握ってやってから、肩の方に回して、俺へ引き寄せた。
俺が顎をしゃくると、春日の口が開いて、抗うような言葉を発しかけた。それを吸い取るように唇で塞いだ。
唾液の音がどこから響いているのかもよく分からない。場面が転換するまでの間たっぷりと春日を求めてやる。肩に回した手で背中を撫でて、舌で中を掻き回して。
スクリーンの向こうでは夜が白々と明けて、惨劇に立ち向かう決意を新たにした男女が倉庫を漁っている。
何でもペットたちが凶暴化したのは新種のウィルスのせいだとかで、一帯を焼き払うしかないとかで、一斗缶などが持ち出されており、もしかしてこれは爆発オチじゃないのか。
しかも爆弾を作る役目は、カップルの親友である別の男。あ、だめだこれ。絶対こいつ爆弾抱えて死ぬぞ。
あまりにベタベタな展開に、逆に目が離せなくなってくる。俺もこの手の映画の楽しみ方が分かってきたぞ、なあ春日。とそちらを見れば、俺の肩にもたれかかったまま、目を伏せてじっと固まっており、もう映画なんて観てないのだ……あれ?
というわけで、俺は春日のさらさらの髪を手すさびに梳きながら、映画のクライマックスを見守った。俺の予想通りに映画は展開した。爆発はCGだったがショボすぎてコントみたいだった。
映画が終わっても、まだ十一時を回ったばかり、昼にはちょいと早いけど。
「春日、どっか昼飯行こうよ」
映画館を出たところで声を掛けるが、春日は答えない。腕に巻いたシルバーアクセサリーをもたもたといじくり回している。
「何だよ、まだ塾まで時間あるってば。行こうよ」
「あの……だから、さあ、困るの」
「え、どういう意味、それ」
「だから……もう、いい」
春日が歩き出したのは、Y駅の方向だ。なんだ、本気で帰るつもりか!?
映画を観ている時にちょっかい掛けたのがそんなにもまずかったんだろうか。他に心当たりもない。楽しみにしていた映画の最中にあんなことされるのは嫌だったか。って、初デートでいきなり振られるのか、俺。こう言っちゃ何だけど、もっと過激なことをとうにしているのに!!……そういう問題でもないか?
春日に追いつくのは難しくなかったが、すぐに追いついても掛ける言葉がないので、俺は駅前に戻るまで、そろそろと距離を取った。
ひび割れさえ目立つ灰白のコンクリの駅舎に、再開発で付けられた駅名表示板。その前で春日は立ち止まると、今度は左手を差し伸べて。
「あっち」と、指し示した方角に、ファストフード店が見えた。
「この辺で昼飯食えそうな場所」
って、紛らわしいぞ!
そちらへ行こうとする春日の手首を掴んだ。
「なに、お昼食べたいって言ったじゃん」
「そうじゃなくて、ちょっと、さっきのは」
「さっきって、何が」
言い合う内に、電車がホームに到着する音がした。降りてくる人の気配に、俺と春日は傍らの電柱の方へ寄っていった。
降車してきた数名は、夜の街の従業員だろうか、若いのにくたびれた感じがした。彼らが散り散りに姿を消すのを待ってから。
「何か言いたいことあるだろ、俺に。困るって、何が困るのかちゃんと言ってくれないと、俺だって困る」
俺は春日を電柱に追いつめて問うた。背はそう変わらない、というか春日の方が少し高いぐらいだと思うけど、そうしていると春日がとても小さくなったように思えた。少し罪悪感はあったが、ここで追及を緩めるのはよくない、と思う。
「俺、何か、悪いことした?」
「そういうんじゃなくて、だから、だから……」
どん、と。
春日は俺の胸に飛び込み、顔を伏せて、拳を打ち付けてくる。あれ、なんか、これって。
「ずっと、好きだったの、俺の方なの、分かってるでしょ」
「うん……聞きました……あのぅ、その節は」
「良いんだよ、もう、それは!」
肺を殴るな、苦しいってば。
「だから、だから、俺が志門くん好きなんだから、志門くんからあれこれするの、止めて欲しいんだってば」
春日の声は震えていた。哀れだった。そうか、ごめんな、春日。
「お前、すっごい、いろんなこと、我慢しながら生きてるのな」
あまりに器用に人生を生きすぎた代償がこれか。俺に求められるのがそんなにも怖いのか。馬鹿な奴。
「でもさ、あんまり冷たくされると、俺は悲しいんだけど」
「……ごめん。でも、その」
春日がぎゅっと俺のシャツを、その下の皮膚さえ握り込む。痛いよ。
「どうして良いか分からない……」
「とりあえず、メシにしよ」
俺は春日の背中をポンポンと叩いた。安心したせいか、一気に腹も減ってきた。
ファストフード店に入った春日は一転して饒舌になった。どうやらああいうZ級映画ばかりを買い付ける配給会社があるとかで、春日に言わせれば今回はまだ観られる方だったそうである。ただ俺のせいでオチが分からなくなったというので、オチは俺が解説してやった。
「あの親友はもうちょっと早くに死ぬと思ったんだけどな」だそうである。あいつの爆弾のせいで世界は救われたのに酷い扱いだ。
それにしても、この調子ではお昼に解散である。俺が受験生だから、春日も気を遣ってくれているんだろうけど、もうちょっと一緒にいたい。
「ねえ、志門くん……」
話の種もフライドポテトも尽きたところで、春日がおもむろに切り出してくる。
「もう少し、一緒にいられる?」
二つ返事で「良いよ」と言うべきところだった。
けれど、春日が俺を見る目は、勝負を挑むような緊張感があった。俺はそれに圧されて、言葉に詰まってしまう。
「ねえってば」
「え、あ……うん、もう少し、ぐらいは」
「だよね?」
春日は念を押す。俺はこくこくうなずいた。
昼食を終えた俺たちは外に出ると、飲み屋街を突っ切る方へ歩いて行った。人通りがない、抜け殻のような街。
春日はいったいどこに行くつもりなのだろう。お、通り一本曲がったら雰囲気が変わったぞ。あれは何の建物だろう。壁に料金表が出てて、なになに、休憩と宿泊というのは……えぇと……あの……。
「春日……ここって」
「どういう所が良いの」
春日はつんとそっぽを向いて、ぶっきらぼうに訊いてきた。
「なんか、希望があれば……」
「希望って、え、何の?」
「だから、どういう所が良いか、とか」
「いや、俺、わかんないし……あの、何で?」
「何でって、何が?」
「あの、えぇと、だから、ここに来たのは」
春日が俺の手をつねる。痛いよ。
「この辺なら、男同士でも入れるの!」
そうなんじゃないかという気はしてました、はい。
俺たちはラブホテル街のど真ん中で立ちすくんだ。
「どこが良いんだよ」
と、言われましても。ラブホテルらしき建物をよくよく見ると、外装に施された装飾がチープに過剰で、泊まる目的のホテルとは違うのが分かる。あ、向こうの方にコンビニがある。本当にどこにでもあるんだな、コンビニって。
「早くしろよ!」
怒気をはらんだ声で耳打ちされる。思わず、春日の知っている所で良いと言いそうになったのだが……それ言っちゃダメだよね。っていうか、春日は俺が知らないこと分かってるはずで、それでも俺に決めろと言ってくるのは。
「あの……じゃあ、じゃあね、あの……」
「うん」と、うなずく吐息はちょっと熱かった。
「あの……お風呂一緒に入りたい……」
と、春日がついと俺の手を引く。なすがままに、俺は春日とその建物の中へ入っていった。
ともだちにシェアしよう!