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35.あの日の二人

  「自分は、私から思われるほどの人間では無いと言ったな」 「えぇ……」 「ここまで感謝されるような事もしていない、とも」 「そうですね」  言われて、否定はしない。その通りだと本心から思うからだ。  地位も権利も才能も持ち、大富豪の未来を担う優秀な男。  そんな彼が思いを寄せるには、己はあまりに粗末すぎる。  たかだかほんの少し仕事を真面目にしたからって、ライルが思いを寄せるほどの人物じゃない。そう、心から思うのだ。 「……リク」 「はい」 「……」  名を呼び、じっと見つめる瞳はどこか寂しそうだった。  自分の思いを否定されたのだ、悲しいのは分かっている。  けれど、やはりなあなあで済ませていい問題じゃない。ライルの為を思えば今だけは自分の意志を突き通す必要がある。アナタのためなのだ、きっといつか分かってくれる、とリクがそっと微笑めば、ライルも少し間をおいて微笑み返した。 「──……どこから話せば良いのだろうな……」  そう言うライルの声は、とても穏やかだった。  ライルは一度まぶたを閉じて、顔を上げると同時に開け放たれたバルコニーを見つめた。つられて、リクも視線を移す。  日が沈みかけ、星が輝き出した空は藍色で美しい。  少し冷たい風が二人を包み、頬を撫でる。  ふと、あの頃を思い出す。とても静かだったあの頃。人の話し声も足音も久しくなってしまった、静かすぎる空間。  そうだ、誰も寄り付かない寂しい部屋でライルは── 「……っ、ライル様」 「なんだ」  ライルの瞳が再びリクを映し、言葉が返ってきた。 「あ……」  ライルのまぶたが開かれて、リクの声に言葉を返してくれる。たったそれだけが、今更ながらとても嬉しく感じた。  当たり前の事が、凄い事のように感じたのだ。まるで奇跡を見ているみたいだ、と。 「ライル様の瞳って……」  そうだ、あの頃はどんな声なんだろう、どんな瞳なんだろうっていつも思っていた。  どんな色で、どんな眼差しで自分を見るのか。握る手は大きくて、梳かす髪は少し硬い。じゃあ、閉じられたまぶたが開かれた時はいったい、何色の瞳が自分を映すのか── 「……美味しそうな宝石みたいな色だったんですね」 「……」  なぜだか、ライルが固まりシンと静まり返った。何かマズい事を言ってしまっただろうかと僅かに緊張したが、 「ふ……はは、そうきたか」  と吹き出したので、とりあえず緊張はとけた。笑われている理由は分からないが。 「……ライル様ってけっこう笑い上戸ですよね」 「それはどうだろな」  まだクックッと喉を鳴らし笑いをこらえきれないライルが面白そうに言う。そんな様子に、どう考えても笑い上戸だろとリクは思う。  笑われている理由が未だに分からず少しむーっとするリクだったが、 「リクは宝石をそんな目で見てたのか」 「へ?」  とライルが言うので、ようやくライルのツボに入った理由を知る。 「や、ちゃんと綺麗だなって目で見てましたよ!」  確かに、あの言い方では宝石まで食べようとする食い意地のはった変人に思われても仕方ない。  だから違うのだと弁解しようとするのだが、なんだか上手い言い訳が出てこない。  なんせ本心で美味しそうだと思ってしまったのだから仕方ないだろう。  さてどうしたもんかと頭をひねるリクだったが、いつの間にかそんな頭を優しく撫でられている事に気がついた。 「……ライル様?」  顔を上げればいつもの優しい笑みのライルがいて、とても嬉しそうにしていた。  宝石まで食べようとすると思われたのなら不本意だが、もうライルの表情に悲しみが見えなくてひっそり安堵する。  もうすっかりライルの優しい笑みに慣れてしまったのだ。それが無くなるのはリクとて悲しい。 「リク、お前はいつも食べ物にたとえるな」 「そんな事ないと思いますが……」 「私の髪は黒豆のようだと言われた」 「言いましたっけ!?」  確かに、ライルの波打つ艷やかな黒髪は甘く煮た黒豆のように綺麗だが、ライルに言った事などあっただろうか。  アワアワしながら記憶を辿る。そんなリクの手をライルが握った。 「手はパンのようだとも言われた」 「え……、ご、ごめんなさい?」 「別に不快には思わない」  確かに思ったような気もする。けれどライルに言ったのはいつだったか。  頭をフル回転させて記憶を辿り、行き着いた結論にリクは驚いた。 「もしかして……僕、ライル様が寝てる時に言いました?」 「思い出したか」 「やっぱりぃ……っ」  なんてこった、まさか聞かれているとは思わないじゃないか……と熱が集まる顔を手で隠す。  確かにあの時、リクはライルにたくさん語りかけていた。意識があろうとなかろうと相手が不快になる様な事はしないよう心がけた。  しかし、ほとんど独り言に近かった言葉まで覚えているなんて。 「ライル様……全部覚えてます?」 「すべてでは無いが覚えているとも」 「うわぁ、恥ずかしい……」  今考えれば、確かに食べ物の話ばかりしていた気もする。完全に無意識だったから気にもしなかったが、気づいてしまうととても恥ずかしい。  恥ずかしくていたたまれなくてこの場から逃げ出したくなるが、ライルの手はリクを離さない。  むしろもっと引き寄せられている気がして、いつの間にかとても近くに顔があった。 「覚えているとも」 「もぅ、忘れてください……」 「忘れない」 「うぅー……っ」  いじわるだと睨んでみたが、ライルは優しく笑うだけで変わらない。  そんなライルが、リクの手をいっそう強く握って静かに語りだした。 「いつもリクは私に話しかけていたな」 「忘れてくださいよぉ」 「いいや忘れない、忘れるわけがないだろう」  言いながら、ライルはリクの手を持ち上げ口づけた。まるでとても大切な宝物を扱うように。 「絶対に……忘れない……」 「え?」  噛みしめるように言うライルが気になり、リクは改めてライルを見る。  そこには変わらぬライルが居るのだが、視線は何かを訴えるように強かった。  その強さに、リクは口をつぐむ。 「返事もなければうなずきもしない私に、リクはいつも話しかけていた。おはようもこんばんはも、いつもリクから言われていた──」  なんて事ない、当たり前の話。挨拶をして時に世間話をして、不快が無いように体を拭いて痛みが無いように体を動かす。  そんな当たり前の話を、ライルはなぜそんな顔で語るのか。  そんなリクの考えが伝わったのか、ライルは少しだけ笑った。そして、 「──リク、お前だけなんだ。リクだけが、私に話しかけてくれたんだ」  と、わずかに震える声で言ったのだ。  

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