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36.諦めて

   深い青の瞳に小さな光が灯っているように見えた。その灯火から目が離せない。  冷たい空気と熱い腕の中で、リクは無意識に息を潜めた。 「お前が当たり前にしていた事は、当たり前なんかじゃない」  リクはそんなはずないと思うも、もう口には出せなかった。否定してはいけない気がしたのだ。  リクの中では違うと思ってもライルの眼差しにとらわれて、否定なんてとても出来なかった。 「寒くないか、暑くないかと尋ねて心地よい風を送り温かなブランケットをかけていたな。リクが髪を梳いたのも、髭を剃ったのも、手を握ったのも覚えている」  ライルの手が震えている。彼は何を恐れているのだろう。 「覚えているとも、忘れるはずがないだろう……その度に私は──」  ──救われたのだから。  そう話すライルは、どこか苦しそうで、それでいてリクを見る目は泣き笑いだった。  そんなライルが語る話は、リクの心まで締め付ける。  アナタはいったい、どれほどの苦しみを味わったのか。  人として扱われず、己を邪魔な物とし乱暴に動かす使用人たち。  本人を目の前にして、遠慮なく発せられる心無い言葉。  怒りは悲しみに変わり、惨めな思いがつのり、次第に自尊心は消えていく。  じわりと侵食した闇はライルの心を蝕み、抵抗も出来ぬまま死んでいく。  もう何も感じない、何も思わない、何も期待しない、もう、希望など忘れ去った。  そのはずだったのに── 「──そこにリクが現れた。リクが話しかける度に、少しずつ人としての心を取り戻した。死んだ感情が蘇った。私は……リクのおかげで物から人間に戻れたんだ」  どれほど嬉しかったか、救われたか、暗闇に支配されたライルに灯火が現れた。  その小さな火はライルをじわりと温めいつしか安らぎを覚えるようになった。  いつしか未来を考えるようになって、希望を持つようになった。  その光に手を伸ばしたくて、必死に足掻き求めて残酷な現実から戦って、そして── 「──なぁ分かるか。私が目覚めたのは、リクが私を人間に戻したからだ。私が目覚めたいと強く願ったのも、リクに会いたかったからだ……」  周りはライルが奇跡を起こしたと称賛する。しかし、それは違うとライルは言う。 「……私に奇跡を起こさせたのはリクだ。リク、お前が奇跡を起こしたんだ」  しばし、沈黙が訪れた。  静かに聞いていたリクは、始めは他人事のように感じていた。  だって自分はそんな大層な事はしていない、どうしてもそう思ってしまうから。  けれど、ライルの震える手で思い出す。  彼と出会った時も、震える手で抱きしめられたのだった。彼はいったいどれほど──  話し終えたライルの顔はやはり泣きそうだったが、もう苦しみの色は見えない。かわりに幸せを噛みしめるようにリクを見るから、先程とは違う胸の締めつけを感じた。 「……改めて言わせてくれ。私を救ってくれて、人間に戻してくれてありがとう。私に奇跡を……与えてくれてありがとう」 「え、えっと……いえ、そんな……──」  こんな時は何と返せば良いのだろうか。 『どういたしまして』と言うには自意識過剰な気もするし、かといって『違います』なんて言えない。言えるはずがない。言っては駄目だ。  ライルがこんなにも幸せそうにしているのだ、もうこの幸せを奪いたくない。  彼の苦しみを知ってしまったから、これからはできる限り彼の苦しみを取り除きたいと心から思うのだ。  でも、じゃあ自分はどうすれば良い?  どうすればライルが心から幸せになれるのだろう。  彼の幸せを奪いたくない、けれど自分がそばにいても幸せに出来る自信なんてない。  ライルの腕の中で顔には出さず悩むリクだったが、そんなリクの心情などライルにはお見通しだったようだ。  ライルはふっと小さく笑ってリクへ告げる。 「もう無理だ」 「……はい?」  唐突なライルの言葉にリクは悩んでいたのも忘れてきょとんとする。  いったい何が無理なのかと問う前にライルが更に言葉を重ねた。 「手遅れだリク。リクも色々と思う所があるのだろうが……私はもう、リクを愛さずにはいられない」 「……っ」  あまりにも真っ直ぐ過ぎる愛のささやき。  これにはリクの悩みもぶっ飛ばさずにはいられなかった。  言葉を無くしてソワソワしだしたリクをライルは抱きしめる。  そしてそっと耳元で、 「だからもう、諦めてくれ」  と、とどめをさされた気がした。  

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