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41.身の程
夜になり、庭師の仕事も終えてリクは帰りの支度をする。
「親方、お疲れ様でした」
「おー、おつかれさん」
始めは庭師の親方もリクに気を使う素振りを見せていた。
しかし仕事が始まると、それとこれとは別なのか、はたまた仕事に没頭すると忘れてしまうのか、しっかりリクを顎で使った。
そして今ではすっかりいつもの通りだ。
この時間になると他の使用人も少なくなり、ようやくいつもの日常に戻ったようで安堵する。
整えられた庭は月明かりに照らされて美しく、心身ともに疲れたリクを癒やした。
「ターちゃん帰るの?」
「はい、お待たせしましたカルイさん」
帰りの気配を察したのか、カルイが頭をかきながらやって来る。
寝癖が付いているがいったいどこでサボっていたのやら。
「で、今日はどっちに帰るんだ?」
カルイは未だに庭を眺めていたリクに、どちらに行くのかと選択肢を迫る。
「それはもちろん──」
少し間をおいて振り返ったリクは、楽しそうな顔でカルイへ返事をした。
* * *
足音が響かないよう気をつけながらリクは屋敷内を歩く。
別に響かせたからといって叱られるような事はないのだが、大理石の美しい床を己の足音で鳴らして天井高く響かせるのは、まるで我が物顔をしているようで気が引けるのだ。
そう、ここはナジャーハ家の者が住まう屋敷。宮殿と見紛うほどの屋敷は何度来ても緊張してしまう。
「ターちゃんが自分からライル様の所に行くのって初めてだよな」
「そうでしたっけ?」
カルイから言われて今までの自分を思い返してみる。すると確かに自分からライルを訪れた事は無くて、自覚するとなんだか恥ずかしくなった。
かといえ今更戻るなんて言えないので、リクは黙ってカルイの後を付いて歩く。
リクが訪れれば必ず嬉しそうに笑ってくれるであろう男の顔を思い浮かべ、自然とリクの顔も穏やかになった。
「ありゃ?」
そんな、ライルの笑顔を思い浮かべて胸を温かくしている最中だ。
カルイのけげんな声にリクは我に返る。
せっかく心地よい幻想に浸っていたのに何事だ、と訝しげに前を見る。
するとそこには背の高い女性が立っていた。
ただ立っているだけなのに優雅に見え、その人物の品格の高さを伺わせた。
腕を組んでたたずむ彼女は艷やかな黒髪をアップスタイルにし、ランプの明かりで鋭い視線を光らせる。
明らかに只者ではない人物の登場にしばし呆けたリクだったが、我に返り慌てて頭をさげた。
なんなら土下座したい勢いだったが、この世界に土下座の文化は無いのでぐっと我慢する。
国内有数の資産家、ナジャーハ家の最高峰が突然目の前に現れたのだからパニックになっても仕方ないだろう。
「こんばんは、リハーム様」
そんなド緊張を強いられたリクのそばで、カルイはいつもの調子で軽く頭をさげてリハームへ挨拶をする。
この男ある意味大物かもしれない、とリクに謎の尊敬が生まれた。
「カルイ、アナタはもうさがっていいわ」
「いやー、ライル様にターちゃんから離れるなって言われてるから無理っすね」
「……アナタは相変わらず怖いもの知らずね」
「それほどでも!」
「褒めてないわ」
二人の会話が交わされいる間、リクは空気になるべく努める。
間近で会うのは初めてだが、なんだか不機嫌なようにも感じるリハーム。自分に矛先が向きませんようにと願いながらずっと頭を下げていたリクだが、その願いは早くも砕かれる。
「ターリク、といったかしら?」
「……っ、はいっ」
リクはギクリと肩を揺らし、少し裏返った声で返事をする。
どうにか無関係のまま乗り切りたかったが、名を呼ばれてしまっては不可能となる。
何より自分の名が彼女に認識されている事に驚いた。ライルが話したのだろうか。
「ライルが前に世話になったわね。感謝しています」
「いえ、あの、勿体ないお言葉で──」
「──けれどだからといって、あの子から甘やかされるのはご褒美にしても過剰な報酬ね」
「……っ」
淡々と語る話し方はライルに良く似ていた。だからこそ余計に胸に刺さる。ライルの家族から自分はどう思われているだろう、と考えた事はあった。けれど、ライルがあの調子だからきっと家族も大丈夫だと心の何処かで軽く考えていたのだ。
それがどうだ。甘い考えがいとも簡単に打ち砕かれ、言葉が出ない。
自分の立場を理解していたつもりだが、なんとも浅はかだったようだ。
「別に甘やかされてないっすよ? だってターちゃん全部断っちゃうもん」
「アナタが口を挟む事ではありません」
「はーい」
庇ってくれようとしたカルイも軽くあしらわれて、リクは二の句が継げない。
リハームの言い分は正しい。それに母親なのだから、大切な息子に貧相で余計な虫が付いたら嫌がるのも当然だ。
「回りくどい言い方は嫌いだからはっきり言いましょう。身の程をわきまえなさい」
「……かしこまりました」
これ以外に何と返事をすれば良いのか。
本来なら会話するのすら許されないような天上人に言われたのなら、それがすべてだ。受け入れる以外に答えなどない。
未だ頭を下げたまま、リクは震えそうになる声を叱咤し言葉を返す。
言われて当たり前の事を、言われて当たり前の人物から告げられているだけ。
そう納得しようとしても、リクの目の前は更に薄暗くなっていく気がして息が苦しくなった。
「余計な手出しはしないでいただきたい、と言ったはずですが?」
突然、澄んだ声がリクの耳に届いた。
すると急に呼吸がしやすくなって、暗闇に支配されそうだった世界に色が戻る。
わずかに顔を上げると、いつもより眉間にシワを寄せたライルが足早に近づいてくるのが見える。
極度に緊張したリクはリハームの声と自分の鼓動の音しか拾えず、ライルの足音には気づかなかった。
しかしリハームはライルが来ている事に気づいていたのか、特に驚く様子も見せずにライルへと振り返った。
そしておもむろにライルへ言う。
「あら、もう反対なんかしないわよ。だってアナタもう聞かないでしょう? ただ、彼が図に乗らないよう母として釘をさしただけです」
「それが余計な事だと言っているのです」
互いに棘のある言葉を交わしながら、ライルはリハームの横を通り抜けリクの隣に立つ。
肩を抱かれ、自然な仕草で顔を上げさせられる。
リハームはその様子を、感情の読めない顔で見ていた。
ピリつく空気の中、一番に動いたのはリハームだ。
「余計な事をしたようねターリクさん」
「い、いえ……っ」
言葉につまりながらも返事をしようとするリクを、ライルが腕で包んでリハームから隠す。
まるで返事などしなくて良いと言われているようだった。
「もうアナタの前には現れないから安心してちょうだい。ですからアナタも、私の前に現れないでちょうだいね」
「母上……っ」
「さようなら」
そう言い残し、リハームは去っていく。
その背中をライルは怒りを宿した目で見送った。
リハームの姿が見えなくなると、「あー緊張したぁ」と緊張感のないカルイの声だけが広い廊下に響いた。
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