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43.底なしの沼のよう
「ライル様……」
忌々しげに顔を歪めるライルに、リクは何も言えなくなる。
けれどなんだろう、どうにも胸がモヤモヤする。
辛そうなライルの顔を見ているはずなのに、脳裏に浮かぶのは知らない人物。
あれは誰だったか、どこで見たのだったか。
様々な記憶が入り混じって少し気分が悪くなるが、ここで思考を止めてはいけない気がした。
白い部屋。一台のベッド。部屋にも入らずに立ち尽くす、一人の男。あれは、誰だ。
──はよ目ぇ覚まさんか……っ
「──……あ」
突然せきをきったように、記憶が流れ込んでくる。
それは到底愉快とは言えない、今でも胸をえぐるほどの辛い記憶。
そうだ、これは前世の記憶だ。
病院で働いていて、若い患者が入院した。何かの障害で寝たきりになってしまった若い男性だった。
家族は悲しみ、毎日のように見舞いに来た。
手を握って、声をかけて、大切な家族の快復を願う日々。
そんな中、たまにしか来ない家族が居た。男性の父親だ。
まれに他の家族と共に来るが、部屋にも入らずに他の家族が見舞いを終えるまで待っていた。
来たのならせめて部屋にぐらい入れば良いのにと、当時の自分は思った気がする。
その日も、妻と共に見舞いに来たのに、やはり部屋の外で待っていた。
妻が一通り息子に声をかけ、不足品を売店に買いに行った時だった。
父親はそのまま部屋の前で待っていたが、視線はベッドで眠る息子に向いていた。
ジッと睨むように、動かない息子を見る父親から、苦しそうな声がもれたのはその時だ。
『──はよ目ぇ覚まさんか……っ』
部屋にすら入らない父親が、悔しそうに、漏らした苦しみ。
そこで知る。入らないのではない。入れなかったのだと。
息子に触れられなくなるほど苦しんでいるのだと。
その親子がどうなったかそこまでの記憶は無い。今更遅すぎるかもしれないが、どうか救いがありますようにとリクは願う。
「……っ、ライル様!」
「どうした」
リハームはリクを知っていた。
ライルの世話をする使用人はたくさん居たはずなのに、その中でもっとも丁寧に世話をしていたのはリクだと知っていたのだ。
それは、なぜだろうか。
「……僕の願いを何でも叶えてくれるとおっしゃいましたよね?」
「もちろんだ! リクの願いならば何でも叶えようっ」
いきなりの図々しい申し出にも、ライルは躊躇なくうなずいた。
少しぐらい怪訝な顔はされるだろうと覚悟していたリクは拍子抜けする。
「……もしかしたら、ライル様が不快に思われるようなお願いかもしれません。ライル様の意に反しているかもしれませんよ?」
だからもう一度確認したのだが、ライルは、
「かまわない。リクがそう願うのなら私の思いなど関係ない。私は全力で叶えるまでだ」
と、譲らぬ態度で深くうなずく。そんな頑なな態度にリクは吹き出しそうになった。同時に、安堵と愛しさがこみ上げる。
だからだろう、やはり言わなければならないと強く思う。たとえライルから嫌われようとも。
「じゃあ……じゃあ、僕の代わりに伝えていただけませんか?」
「伝える? 何をだ」
「ライル様にしか頼めない事です。リハーム様、ライル様のお母様に伝えていただきたいのです」
「っ!」
リハームの名を出すとライルは目を見開くが、すぐに真剣な目つきに戻る。そして早口になり、少し興奮気味に言う。
「もちろんだ! 何を伝える? 私から余すことなくリクの怒りを伝えようっ」
「いいえ、いいえ……違います。伝えてほしいのはそうじゃないんです」
「そうじゃない、とは?」
ライルはてっきり悲しみや怒りを代弁してほしいのだと思った。しかしリクはゆっくり首を振って否定するから、ライルはまた不思議そうに目を開く。
そんなライルを見ながら、リクは息を吐いて拳を握り、意を決したようにライルへと告げた。
「どうか、伝えてください。ライル様を守ってくださって、ありがとうございます……と」
「……っ! 何を……っ」
今度こそ絶句するライル。やはり嫌な思いをしただろうか、と不安になるも、リクはどうしても伝えずにはいられなかったのだ。
リハームはなぜ、リクを見つける事が出来たのか。息子へ近づくことすら出来なかった男性を、なぜ今、思い出したのか。
リハームがライルのそばに居ながら、何故触れなかったのか本当の所は分からない。
けれど、目覚めぬ息子を、彼女はどんな思いで見ていたのだろうか。
鼻から管を通してまで栄養を送って生かすと決めた時、周りからどんな目で見られただろう。
安楽死が当たり前のこの世界で、どんな目で彼女は見られたのか。
無理やり生かして何になる。何の役にたつ。苦しみを引き伸ばしているだけだ。無意味だ。息子も可哀想に。
そんな声はあちらこちらから聞こえてきた。
きっと彼女の耳にも容赦なく届いただろう。
それでも、彼女は決断した。どんな形であれライルを生かす決断を。
蔑む声は途切れなかっただろう。哀れみと非難の目を幾度となく向けられただろう。
味方になってくれる人は居ただろうか。悲しみを共有してくれる誰かは居たのだろうか。
辛くない訳が無い、悲しくない訳が無い。
終わりの見えない苦しみに、途方に暮れた事もあっただろう。何度か、世間の空気に流されそうになったかもしれない。それが彼女にとっても、楽な選択だっただろうから。
それでも、それでも、ひたすら彼女は世界と戦い、ライルが生きる未来を選び続けたから……──
「──……だから、伝えてください。ライル様の為に、たった一人で戦ってくださって、ありがとうございます、と」
「な……っ」
リハームがリクにした事は理不尽だと思う。
けれどどうしても彼女を恨む気にはなれない。
どうにも自分は、前世の記憶があるせいで患者やその家族に甘いらしい。
辛さや悲しみで攻撃的になってしまう人々を幾度となく見てきた。その苦しみが分かっているから、何とかして理解したいと思ってしまう。
何より、ライルとリハームの親子関係をこんな所で終わらせくなかった。
おせっかいかもしれない、余計なお世話かもしれない、とんだ思い違いかもしれない。
けれどそれでも、もし万が一悲しいすれ違いが起こっているのなら──
「──伝えてください。僕の大切な人を守ってくれて、ありがとうございます、と」
「……大切な……」
非難されるだろうかと見つめていたら、驚いていた目が優しく細められた。そこで、一番大切な事に気づいてしまった。
自分がこんな考えになるのは、たぶん目の前の男のせいでもあるのだと。
だって、どれだけ他の者が反対したところで、この男は自分を離さない。どれだけ意に反した事を願っても、自分を愛し続けてくれる。他人から見れば自意識過剰だと思われるほどに、自分を求めてくれる存在。
その重すぎる愛から安心がうまれ、今こうして冷静に考えられるのだろうと思う。
絶対的な愛情を与えてくれたから、リハームを考える余裕が出来たのだ。
だから、自分も伝えなくてはならない。安心を与えてくれたアナタに、今度は自分が与えたいと思うから。
「ライル様、アナタが好きです」
「……ッ!」
ライルが息を呑み、呼吸が止まった。
一方リクも、緊張した面持ちでライルを見つめる。拒絶されるとは今更思わないが、なぜだかとても緊張した。自分の思いを伝えるのがこんなにも緊張して不安にかられるなど思いもしなかった。
けれどライルは、そんな思いをしながらも毎日好意を伝えてくれたのか。そう思うとなお愛しくて愛しくて……。
ライルがシャボン玉でも触れようとするように、そっと手を伸ばすから、リクもその手を取り己の頬に引き寄せる。
互いの温もりを確認して、互いが顔を寄せ合って、自然と唇が合わさった。柔らかくて、熱かった。
「……どうにかなってしまいそうだ──」
気恥ずかしくなって照れ笑いを浮かべるリクに、ライルも笑いながら呟く。けれど眉間にシワを寄せたままでうまく笑えないようだった。
そんな顔がとても美しいと、リクは思った。
「ありがとう、リク」
ありがとう、と、ライルは何度も囁いた。
震える手で抱きしめながら、何度も、何度も。
リクの耳には震える声と共に、すすり泣く声も聞こえてきた。
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