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50.道しるべ
* * *
リハームは今日も実務をこなし、自室に戻って寛いでいた。専属の侍女がいれた茶を飲み、お気に入りのソファーにゆったりと座り、ランプの元で本を読む。
この屋敷で最も豪華な部屋の一角にお気に入りのスペースを作り、使用人も下がらせ、一日の終わりに自分だけの時間を楽しむのが日課だった。
そんな静かな時間が流れる中で、リハームはわずかに顔を上げ、読んでいた本を閉じる。
同時に、戸を叩く音が部屋に響いた。
「お入りなさい」
リハームが声をかければ護衛が重く豪奢な扉を開く。そこに立つのは、リハームが予測した通りの人物だ。
「夜分遅くに失礼します」
「かまわないわ……こんな時間に来るのはアナタぐらいなものですから」
息子、ライルを迎え入れ、リハームは手ずから新しいティーカップに茶を注ぐ。
そしてライルの前に置くとライルは少し驚いた顔をしたが、大人しく向かいのソファーに腰を下ろした。
「話があって参りました」
「それはそうでしょう。アナタが用も無しにここに来るはず無いですもの」
少し棘のある言葉を吐くが、ライルは気にする事なく差し出された茶を一口飲んだ。
ティーカップをソーサーに置くと、ライルが真っ直ぐリハームを見るので、リハームも視線をライルに合わせた。
「まず、大切な事から言わせてください。あの時、将来の見えなくなった私を生かしてくださり、心より感謝しています」
落ち着いた声で、ライルは言う。一言一言を間違えないように、確実に相手に伝わるように。
しかし、そんなライルをリハームは笑った。
「……あの坊やにそう言えとでも言われたのかしら?」
皮肉った口調に、ライルは眉をわずかに動かす。それでも声は荒らげず、ただリハームだけを見て言葉をつむいだ。
「……気づかせてくれたのは彼です。今の言葉は、現在の私の本心です」
「そう……」
視線をそらさず母親と向き合うライルを、リハームもまた静かに見つめる。
寝る前のひとときの為につけられたランプは少ない。
広い空間の一角で二人だけを照らすランプの明かりは、お互いの表情をわずかに隠す。
「母上の願いをすべて叶える事は出来ないかもしれません。しかし、母上に救われた命をけっして無駄にはしません」
そこで言葉を切り、ライルは立ち上がる。背筋を伸ばし腰を折り、一つにまとめた黒髪がパサリと横に流れてランプの明かりを揺らした。
「伴侶の事は、母上の理想通りには出来ませんでした。ですがもう、私は彼を手放す事など出来ません。家業の事や跡取りについては母上の希望にそえるよう努力いたします。ですからどうか、ターリクの事を認めていただけないでしょうか」
深く頭を下げるライル。
深夜の屋敷は静かで、最上階のここは虫の音すら聞こえない。
静まり返った空気を震わせたのは、足を組み直したリハームの布の擦れる音だった。
リハームはすっと胸を張り、頭を下げるライルを見据えて口を開いた。
「私は認めないなどと言っていないでしょう? もう反対はしないと言ったはずです」
「……それはどういう──」
リハームが言い終えると、ライルが腰を折ったまま顔を上げた。
驚いた顔を見せる息子に、リハームは言葉を遮り続ける。
「──好きになさい。ただ息子が可愛らしいお嫁さんを連れてくるかと思ったら男を選んだんですもの。少しぐらい受け入れる猶予が欲しいものだわ」
ライルの驚いた顔が、更に呆けたものになる。
しかし、本人も緩んだ顔を自覚したのか、口元を締め直しまた頭を下げた。
「寛大なお心に感謝します」
頭を下げ続けるライルに、リハームが手を軽く下から上に振る。
それを合図にライルは顔を上げる。そしてしっかりリハームと目を合わせ、再度礼をしてその場を離れた。
「ライル」
扉に手をかけた所で、リハームが呼び止める。振り返ったライルに、リハームは最後の言葉を投げかけた。
「アナタ、今幸せ?」
薄暗い中で振り返ったライルは、しばし動きを止めた。
そしてリハームへ一歩近づき、月明かりの届く場所で微笑んだ。
「母上とターリクのおかげで」
言って、ライルはきびすを返し今度こそ扉を開いて出ていった。それはまるで、照れ隠しをする子供のようだった。
ライルが去り足音も次第に遠くなる。息子が出ていった扉を見つめていたリハームは、再び視線を落とし本を開いた。
しかし、どうにも頭に文字が入ってこない。だがそれは、今に始まったことではなかった。
ここのところずっと、一人の青年の声が頭でこだまし続けるのだ。
『ちょっとで良いから聞いてください』
突然やってきた、無礼な青年。叱っても叱ってもケロリとした何とも迷惑な使用人。
そんな彼が、どうしても話を聞いてほしいと言って、護衛と揉めながらもリハームの元に来たのだ。
仕方なく話を聞けば、彼は言う。
『ターちゃんの言葉を伝えたいんです。どうしても聞いてほしくてさ』
これからまだ仕事があるというのに、と、立ったまま腕を組み彼の言葉を聞いていた。
どうせまたくだらない事だろう。これ以上迷惑をかけるようなら、本格的に罰を与えようか。
そう謀る最高権力者の前に立っても、彼は臆することなく言葉を続けた。
『ターちゃん言ったんだよ。リハーム様は命がけでライル様を守ったんだって。一人でライル様を守る為に戦ったんだって。だから誰よりも感謝しなきゃだめなんだって。俺さ、そんな事まで考えた事無くて、ターちゃんってすげーなって思ったよ……思いました』
『……』
妙な敬語をおりまぜて友人の言葉を伝えようとする青年。
彼はライルから呼ばれたらすぐに対応出来るよういつも近くに控えている。
その日も近くの部屋で休んでいたら、窓からバルコニーに居る彼らの会話が聞こえてきたのだと言う。
『ライル様を守ってくれて、ありがとうって……』
風に運ばれてきた言葉を、どうしてもここまで届けなければならないと彼は考えたらしいのだ。
『えーと……そんだけです。何が言いたかったのか自分でも分かんねーけど、でもリハーム様に言わなきゃいけない気がして』
一方的に話をすると、あっさり帰ってしまった無礼極まりない使用人。
本来なら何かしらの処分が下るところである。
しかしそんな気も起きなかったのは、あまりに突然だったから呆気に取られていたからか、それとも……
リハームは冷めきったお茶を飲みきり、本を閉じた。
ランプを消し、暗くなった部屋から月明かりの見えるバルコニーへ出る。
『──リハーム様は命がけでライル様を守ったんだって。一人でライル様を守る為に戦ったんだって──』
今でも残る言の葉が、心の奥底を撫でていく。
「皮肉なものね」
と、リハーム苦々しく笑う。
リハームにとって不都合な人物だった。
なんとか排除しようとした。彼は自分の人生で必要無いと判断したから。これが息子の為なのだと信じていたから。
しかし、自分の一番の理解者も、また彼だったのだ。
息子が目を覚まさない。あの時、突然の悲報に唖然とした。
優秀で将来有望で、ナジャーハの未来を背負うはずだった息子。
そんな息子の変わり果てた姿を見て、しばらく現実が受け入れられなかった。
ライルは寝ているだけよ、きっと目を覚ます。
そう信じても刻々と過ぎていく日々。弱っていく息子。水分すら摂れない体は悲鳴を上げる。
だったら、強引にでも食事をさせれば良い。
まわりの反対を押し切って、鼻から管を通し無理矢理にでも胃に栄養を送った。
異様な光景に周りは眉をひそめる。
『可哀想に……』
そんな言葉が飛び交った。リハームに向けてではない。ライルに向けられたものだ。
『こんな姿になってまで無理矢理生かされるなんて』
なんとでも言えば良い。彼は生かすだけの価値があるのだ。
周りにこれほど有望な息子を死なすのは勿体ないのだと言い聞かせ、非道と言われようとライルを生かす選択をした。
『私欲の為に息子を苦しめている』
だから何だ。そんな事は百も承知だ。
だったら息子を殺せば満足か。お前は自分の子どもを殺せるのか。
分かっている。分かっているのだ。
これは自分の自己満足。当の本人の為なんかじゃない。
それでも、何でもいいから、一日でも一分でも長く、生きてほしかった。
──そのくせ息子の世話は他人に任せていたくせに……
自分には悲しむ権利など無い。
己が息子をあんな姿にしたくせに、その姿を見ることが出来ないなんて、どれだけ愚かなのか。
『──ライル様を守ってくださって、ありがとうございます……』
それでもアナタは、愚かな私にありがとうと言った。
急に、呼吸がしやすくなったのを覚えている。
苦しみもがきながら探し続けていたモノが、見つかった気がしたのだ。
「……私と彼のおかげ、ね」
幸せかと尋ねた時、少しだけ幼い顔を見せたライル。
しかし、大切な人を認めてほしいと頭を下げる彼は、自立した一人の男だった。誰かを守ろうとする、男の顔だったのだ。
「ずいぶん大人になったものね……」
もう、守られる存在ではないようだと、今の息子の姿に、リハームは思う。
辛くなかったかと言えば、辛かった。後悔なんて毎日していた。
終わりの見えない苦しみから、何度逃げ出そうと思った事か。何度泣き叫びたくなった事か。
けれど、私は間違っていなかった。
「……そう思って良いのでしょう。ターリクさん」
星を見上げる彼女の胸元に、ポツリポツリとシミができた。
頬を流れる温もりを、優しい風が撫でていった。
彼女が戦い抜いた足跡は、いつしか同じ悲しみを持つ者の、道しるべとなるだろう。
【end】
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