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薫る椿
悲鳴のような刃 で醒めて、俺は結之助の刀を弾いて、後方へ退いた。
どちらも息が上がっている。
だが、その身魂に退きはない。むしろ、内なる焔は迸りを増すばかりだ。
刺し違える。もしくは敗ける、かも知れない。
それはならない。結之助の牙を受けとめ、殿に戻ると約束した。
そしてこれ程まで全霊を以て向かう結之助に、劣りを見せることも、男として、断じて嫌だった。
結之助が、上段に構えた。
研ぎ澄まされる。俺を斃 そうと、その開いた眼の、獅子の開いた牙の鋭さが俺を呑みこもうとする。
——来る。高揚するような戦慄を覚えながら、俺も全精力を賭け受けとめようと、刃の柄を握りしめた。
俺と結之助は、昔から無心に竹刀、木刀を打ち合ってきた。
だから知っている。結之助の太刀。
上段から腕が消え、疾風 のような一閃が空気を裂くも、その陰で途端に脇腹ががら空きになる。
馬鹿。またお前はと、いつもそこを忠告していた。
それに結之助は答える。
『その一太刀に、生命 をこめているからだよ』
笑顔が掠める。
だけど俺の刃は、既に結之助の内腑 を、深く抉り潰す感覚を覚えていた。
そして俺は見た。
俺の真剣での一閃を腹に受けた結之助の、腰にみるみる、頸から落ちたような、
まるで椿のような真の紅が、惨いまでの鮮 らかさで、染められていくのを。
くぐもる呻きと血飛沫を吐き出し、結之助は木偶 のようによろめいた。
「結之助、」
駆けてその躰を掬ったが、仰向いた顔は、早くも紙のように血の気をどこかに吸い込まれていった。
「流石に、…………痛いな」
心の臓が苦しい。結之助は、もっと苦しいだろうに。
熱く迫り上がった珠が眼球から零れ落ちそうで、結之助の顔が見えなくなりそうで、
堪えたいのに、何故こんな体たらくなのだろうと、俺は本当に、 本当に、馬鹿だ。
「狼の名が、泣くぞ……」
寒い……と聞こえたから、掌を包もうとしたら、懐から震える手で、小刀を伸ばされた。
絢爛な金丸のなかの三葵 。結之助の血で塗 れていた。
結之助の、授けられた士 としての誉れ。
どうか、許して欲しい。結之助は、最後まで自分の刀しか使わなかった。
「志狼…………」
生命の息吹が消えいりそうな結之助の、最後の想いを、総て残さず掬いとるべく、俺はその言葉を、待った。
「この國 を…………」
結之助は、漢だった。
俺より、よっぽど、
俺が本当は"希んで"いたものも、露ほども挟まず、最期まで国を憂い、浄らかなままでいた、
日の本一の、漢だった。
結之助、俺もだよ。
俺もお前と同じ、この国を想う、漢だよ。
だけど結之助、知っていたか。
お前が、この国を想うのと同じくらい、
俺も、お前がこの一番の打ち掛けを羽織り、腰に椿を挿した艶姿 で、お前のその、焚き染めた香を、抱きしめて鼻いっぱいに吸い込んで、
互いに、ずっと。いつまでも笑い合えていたなら。
どんなにか幸せであったろうと、思っていたことを…………。
最早唇から息吹が途絶え、瞼を落とした結之助の、伽羅の薫りたつその躰を、俺は強くかき抱いた。
結之助の流れる血が、俺の肌にもまだ熱く、染みるように溶けこんでいく。
ひとの血とは、こんなにも熱く、やさしいものであるのか。
結之助が遺したこの熱さ、想いは、一体俺を、どの様に染めてゆくのだろう。
ただ、ひとたびだけ。
結之助は、後にも先にも、ただ、この一度 だけに。
俺が最も欲していた、最上に美しい芳しさと、華を、
その身魂と尊い血潮に注いで、俺だけに与えてくれた。
桃の花が緩む弥生。季節外れの牡丹雪が降りおちた早朝。
時の大老が、江戸城下で脱藩の志士達の凶刃に斃れ、その春雪に衝戟 の血が流された。
その紅 は、瞬く間に国の志士達の熱き血潮へも染まり、揺るぎない、抗うすべのない巨巌を砕く暁の魂 で、国を巨きく突き動かしていく。
了
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