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玄英:昨夜のふたり 1

   遠山玄英はかなり遅めの夕食を済ませようと自宅近くのカフェに立ち寄った。20席にも満たない店内はその夜に限ってなぜか混み合っていて、カウンター席が一つだけ空いていた。 「マドンナ」という店名のその店は、レトロな隠れ家的カフェというよりは今どき珍しい「昭和の純喫茶」と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。  令和の街並からそこだけタイムポケットに落っこちてしまったような空間で、いつ来てもほどよくまばらな常連客とマスターのご近所話をBGMに、読みかけの本を消化しがてら長居するーー半年前にこの街に越してきて以来のお気に入りの時間の過ごし方だ。  が、カウンター席に座るのはその夜が初めてだった。 「今日、混んでますよねえ」  左隣でコーヒーを飲んでいたスーツ姿の若い男性が愛想よく声を掛けてきた。飲み会の帰りらしくほんのり出来上がって上機嫌だ。 「珍しいですよね」  玄英も愛想良く答えた。  カウンター席に座り年齢不詳のマスターと親しげに話す彼を何度か見かけたことがある。他の場所で見かけていたら記憶にも残らなそうな、平均的な見た目のサラリーマン客だが、昭和生まれのリタイア、もしくはプレリタイア世代が中心の客層の中では珍しく若い客なので印象に残っていた。 「ひょっとして、作家さん?」 「……はいっ?」  玄英はスーツを着て歩いていても会社経営者や研究者とは見てもらえず、初対面の人の大半はモデルか俳優か夜関係の仕事かと聞いてくる。いい加減慣れっこになってはいるものの、文筆家と間違えられるパターンは新鮮だーーオフでしか使わない丸眼鏡をかけているとはいえ。 「ああ、いや失礼。いつも窓辺の席に座って私服で本読んでらっしゃるでしょう。雰囲気のある方だからつい…… まあ、学生さんに見えないこともないけど」  平日の夜に、愛用のコットンセーターとチノパン姿といういでたちは、この国では職業不詳の人物に見えるのだろう。外部との予定のない日はほとんど自宅でリモートだ。玄英はからからと笑った。 「僕きっと、あなたより年上ですよ」 「じゃあ……研究者さん?」  お、と思った。何の下情報も無しに第一印象で本職を当てたのは彼が初めてかもしれない。 「あなたこそまだ学生に見えるけど。刑事?それとも探偵?」 「何でそうなるんだよー。俺は普通の会社員だよー。お兄さんこそまさかヤバい仕事の人だったりしてー?」 「まさか。僕も普通の自営業です」 「そうだったんだー、あははっ。じゃあ、お兄さん社長さんかー。若いのにやるねー」  わざわざ年上だと自己紹介したのにタメ口になったのはちょっと予想外だが、酔っ払いに細かいツッコみを入れても仕方がない。 「おしゃれな本だねよえ」  彼は玄英がカウンターにおいた本を指さした。 「皮表紙の洋書ってやつだ」  年上だと断ったのに、恒星は何故かいきなりタメ口になった。 「ああ……これはブックジャケット……いや、日本じゃブックカバーって言うのか」  玄英もタメ口で返す。  これまで住んでいた国には読んでる本にブックカバーを掛けるという習慣がなかったが、日本に住むようになってから書店でもらったのをきっかけにコレクションするようになった。今使っているレザー製のカバーは、使い込んだ風合いが気に入っている。 「で、何読んでんの?やっぱ横文字の本?でも、エロ本読んじゃっててもこれならバレないよなあ。お兄さん考えたなあ」 「普通にビジネス書だよ、日本語の」  涼しい顔をして見た目以上に酔っ払っている彼に、玄英は苦笑した。日課の読書もあきらめた方がよさそうだが、不快だとか黙っていて欲しいいう感情は不思議と湧かない。  初対面の日本人からは自分の見た目や語彙のチョイスから開口一番「ハーフかクォーターか」などと聞かれ、自身のルーツやこれまで住んでいた国のことから説明することが多い。  相手が好意的に興味を持ってくれている限り、「ああまたか」と思いながら友好的に対応はするし、それに慣れてしまってもいるが。  だが、典型的日本人の見た目と、若そうな見た目の割にはどこかーーそう、例えるならお気に入りの名作映画に出て来る「寅さん」的なーー古臭い昭和ノリを併せ持つこの男は、それらを全くすっ飛ばして「今の自分がしていること」のみに関心を持ってズバリとついてくる。それが少し新鮮な驚きだった。

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