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恒星:ここから先は○○です 3

「お、おい。泣くなって。場所変えるぞ」  慌てて彼の腕を抱えて慌てて席から立たせた。俺がまるでクズ男みたいじゃないかーー実際、褒められたもんじゃないけどさ。このままだと常連の女性客全員を敵に回しかねん。  店を出て、行き先も決まらないまま繁華街の上り坂をだらだらと登ってゆくーーこの辺もお洒落系の通りにすっかり変わってしまったよな。やってるかやってないかわからない店が立ち並ぶ、垢抜けない街並みがよかったのに。  決して部外者に聞かれたくない話をするには個室のある店がいいんだろうが、二度と酒は飲みたくない。  「僕の部屋とかどうですか?」  外に出て気分が変わったのか歩み寄られて機嫌が直ったのか、明るい声で遠山が聞いてきた。 「はああっ?」  言ってしまってからしまった、という表情をした遠山を思い切り侮蔑の表情で睨みつけた。 「てめっ……それ、俺に言う?」  どこぞの路地裏に連れ込んで、よほど本気で締めてやろうかと思った。 「違います違います、そういう意味で言ったんじゃありません。ここから近いし、人の目を気にしないで納得行くまで話せるし……」  慌てて訂正しながらつぶらな瞳にまたもうっすらと涙を浮かべた遠山は、小心者の大型犬みたいで少し可愛そうに思えてきた。 「そうしたらごしゅ……いえ、恒星も昨夜あったことをもう少し思い出せるかも……」 ーーにしても、成人男性がこれだけ泣きやすいってどうなの?仕事の場ではどうにか取り繕ってるのかもしれないけど。 「わかった。他に適当な場所も思い浮かばないし、それでいいよ」  いつの間にかタメ口と敬語を使うべき人が入れ替わってないか?と薄っすら思いながらも、さっきの会社での悪夢を思い出すととてもこいつにこれまでのような敬意を払う気にはなれなかった。 ーー本当に……いいのか俺?  真実が人を幸せにするとは限らない。むしろ何も思い出せなかったとしても、合意の上で無かったことにできるならもうそれでいいような気さえする。  もしもこのパンドラの箱を開けてしまったら、底にはさらなる絶望しか残されていないかもしれないのだが……ええい、毒食わば皿までだ。  遠山のマンションに向かう道沿いに工事現場があった。立ち入り禁止の区域に黄色と黒の警告色のトラロープが張ってある。実家の仕事でもカバープランツや苔の養生に使う事がある。  自慢じゃないが物心ついてこの方「入ってはいけません」「やってはいけません」と言われると余計やらかしてみたくなる性質(たち)で、昭和の親父然とした祖父ちゃんからいくら拳骨をもらっても懲りないガキだった。  少し大きくなって仕事を手伝うようになると、祖父ちゃんや職人がいい仕事をするためにどれだけ手間と時間をかけているかわかってきて家ではやらかさなくなった。  外ではまだ、相変わらずなところがある。我ながら幾つになっても本当にガキだ。 ーーまあでもこの人、性癖はアレだけど根は善い人そうだし、びびってると思われるのも何かシャクだし……  正直、生まれてこの方清く美しく(?)由緒正しき庶民オブ庶民道な人生をひた走ってきた俺だから、絵に描いたようなアッパークラスのエグゼクティブである玄英がどんなところで暮らしているのか……という、純粋に下世話な興味もある。  万一押し倒されたら体格的に不利かもしれないが、こっちにはヤンチャ時代に数々の修羅場を潜り抜けた一撃必殺系のパンチがある。ちょっと気は咎めるが、あの文化財級の顔面に容赦なく浴びせたらきっと逃げ切れる。  キープアウトの彼方(あちら)此方(こちら)、ノーマルとマイナー、健全と猥褻、日常と禁忌……  この無機質な仕切りにさえ従っていれば、今日も明日も無事に過ぎてゆくのだと頭ではわかっている。不意に乗り越えるだけなら簡単だ。  

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