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第8話

 そうこうしているうちに、馬車は鉄柵で囲まれた一角に差しかかった。 「ハルトさま、ご覧なさい。柵に沿って植えられた樹木の間に見え隠れする瀟洒(しょうしゃ)な建物が領主館の、本館なのです」 「つまり悪の巣窟なんだな、よっしゃー」  いつでも馬車から飛び出せるよう、ハルトは扉の掛け金に指を添えた。ところが馬車は衛兵が両脇を固める門を素通りして、倉庫街へと(ひづめ)の音を響かせる。屈強な男たちが、がなり合いながら荷車を()いて走る通りを抜けると視界が開けた。  青一色だ。地平線を赤々と染める夕陽を見て育ち、現在(いま)、生まれて初めて水平線を目の当たりにした。波が寄せては返し、外輪船や帆掛け船が行き交う。帆柱でひと休みした鳥が羽ばたく。  黒い瞳が、きらきらと輝く。 「移動曲馬団の団長が話してた、あれが海? 舐めたらしょっぱいって本当?」 「ワシュリ領国最大の湖、ウタリ湖でございますよ。波止場で船に乗り換えて、イスキアさまが待っておいでの小島に渡るのです」 「うぅう、まだ着かないんだ……」  ずるずると座席に沈み込む。分教場で領国の地理について学んだものの、その広大さは自分で旅してみなければピンとこない。山岳地帯と穀倉地帯では気候も風土も住民の気性もまるで異なるだろう国を統べるイスキアに、ほんのちょっぴり興味が湧いた。  ハルトが乗る船の甲板から桟橋へと渡し板がかけられた。ついに馬車を降りて都の地を踏みしめる……はずが、全身が座席の形に固まってしまったように、よちよちとしか歩けない。それでも、しっかり胸を張って渡し板を進む。さしずめ草原の(たみ)、代表という役どころなのだ。みっともないザマを見せてたまるか。  ちなみに、そら豆のような形をしたウタリ湖の外周はおよそ二百キロ、水深は計り知れない。神秘のヴェールに包まれている部分が未だ残るがゆえ、湖にまつわる伝説は数多い。  中でもまことしやかに囁かれているものは、湖底に棲む半人半魚の水妖が嵐にまぎれてヒトを食べにくる──。  外輪船は水しぶきをあげて(はし)る。ハルトは船べりから身を乗り出して、白く砕ける航跡を指でなぞった。愛馬に跨ってユキマサと駆けっくらするときとはまた違う爽快感に心が弾むと笑みがこぼれて……冷たい汗が噴き出した。行き先は小島ということは、 「本土側、でいいのかな? あっちに戻るときも船に乗せてもらうしかない、とかだったりする……?」 「イスキアさまは、都の喧騒に不慣れなハルトさまを気づかって別館のほうに招待したのでございます。なんと、お優しい」  船に酔って蒼ざめた顔をハンカチで扇ぐ使者に負けないくらい蒼ざめた。四方を水に囲まれた場所につれていかれるということは、小島に上陸したが最後、袋の(ねずみ)だ!

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