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第9話

 しかし、時すでに遅し。島影が行く手に現れた。その、こんもりと在る小島に建つ白亜の領主館(別館)が、青々とした湖面を背景に存在感を放つ。    そのころ話題の(ぬし)──イスキアは、そわそわしどおしだった。伝書鳩がもたらした(しら)せによると、ハルトを小島へと送り届ける船は出港したとのこと。到着まであと二日はかかると予想していただけに、うれしい誤算だ。()を日に継いで領国を横断したとおぼしいが、無理をしたのは許婚に会うのが待ちきれなかったため、と解釈するのは自惚れがすぎるだろう。  ともあれ待望久しい再会のときが刻々と迫るにつれて、水をがぶ飲みするそばから喉が渇く。ツムジのぐるりが乾く速さといったら、炎天下に置いたキュウリがあっという間にしなびるさまを思わせる。  種族の象徴たるに、たっぷり水を含ませたうえで髪飾り風の帽子を留めつけなおした。準正装にあたる(にしき)の長衣に皺が寄っていないか点検し、それから咳払いひとつ、 「あ、あああああああああ~!」  べつに気が()れたわけではない、いたって真面目な発声練習だ。ハルトに対面し、長旅の疲れをねぎらう瞬間に舌がもつれでもしたら興醒めもいいところだ。  思い起こせば十年前、草原の片隅でへたばっていたみすぼらしい旅人が、領主かつ許婚と同一人物であるとはなかなか納得しがたいに違いない。おさおさ怠りなく準備を整えて、好印象を与えなければ。  折りしも汽笛が鳴り、バルコニーにまろび出た。エメラルドグリーンの瞳が船影をぽつりと捉え、のろま! と思わず罵倒してしまうほど、ゆっくりと近づいてくる。イスキアはバルコニーの端から端まで歩き、端から端まで歩いて、さらに端から端まで歩いた。  それから小一時間後、ハルトはポンチョをはためかせて小島側の波止場に降り立った。大役を果たしてやれやれ、という使者から領主館(別館)づきの召使いに引き合わされて、いわば謁見の間へと案内された。 「ひゃー、きらびやかな部屋あ」  感想といえば、そのひと言に尽きる。大理石を敷き詰めた床はスケートごっこができそうなくらいピカピカに磨かれている。高い天井をアーチ型の梁が支えて、等間隔に何本も渡されている様子は、龍の肋骨を(かたど)ったかのようだ。ステンドグラスが数枚、壁にはめ込まれていて七色にきらめく。  ハルトにとって美の基準は、羊の毛艶だ。たいがいの領民がたじろぐだろう絢爛たる室内を見回しても、無駄に広いと、けなすありさまだ。  そもそも真冬は窓枠さえ凍りつく草原の家は開口部が少ない。暴風雪に屋根を吹き飛ばされないよう天井は低い。どっしりで、がっしりした造りが一番なのだ。

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