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第12話

 イスキアが傍らに片膝をついた。縄張りを侵すに等しい接近ぶりを厭わしく思い、後ろにずれるはしから、にじり寄ってこられる。しっしっ、あっち行けというふうに退()がっても、再びずいと詰め寄られる。  面白がっていたぶっているのかもしれない、と勘繰りたくなるしつこさだ。後ずさっては距離を詰められて、イタチごっこのごとく繰り返すうちに壁に突き当たった。すると崖っぷちに追いつめた獲物を生け捕りにする素早さで、顎に指が添えられた。しかも無理やり仰のかされる。 「出逢った八歳当時、そなたの将来の目標は『世界一の羊飼い』であったな。現在(いま)も変わらぬ」 「男に二言(にごん)はない、ないったら、ない」    自信たっぷりに言い切ってみせると、仏頂面がやわらいだ。それは厚ぼったい雲がわずかに切れて、星がまたたいたような変化だ。  とはいえ数多(あまた)の娘を虜にしてきた男の色香は、ハルトには通用しない。むしろ顎を固定して離さない指をむしり取るのに忙しい。 「遠来の客にいささか礼を失するふるまいにおよんだ、許せ。のちほど正餐を共にするまで、ゆっくり休むといい」 「けっこうです。おいとまいたしますう、だ」 「そこの者たち。賓客だ、丁重に部屋へ案内いたせ」  との(めい)を受けて、ふたりの家臣がすかさずハルトの両脇を固めた。そしてジタバタするのを意に介さず、やんわりとだが逃がしてはならじと引きずっていく。 「草原に帰るってば、帰る! 聞こえないのか領主のバカちん、いばりんぼー!」  放牧地に散らばった羊たちを集める日々の中で鍛えられた結果、地声が大きい。下手人を牢屋へ引っ立てる図、といった一行が廊下の向こうに消え去ったあとも、わめき声はこだましつづけていた。  かたやイスキアは私室に引きあげた。領主館(別館)は謁見の間がある本棟を中心に東と西の翼棟が連なる。その東翼の二階の端に位置する部屋に入るなり、顔つきが変わった。マタタビに酔っぱらった猫さながら、ふにゃふにゃと笑み崩れて寝台に倒れ込むと、右へ左へごろごろと転がる。 「愛らしい、なんという愛らしさだ。実物は肖像画の何万倍も素晴らしい」  正しくは肖像画という名の空想画、だ。ハルトの顔立ちはこうこう、なるイスキアの説明を(もと)に、お抱えの画家が想像力を駆使して描きあげた作品群が額装されて壁じゅうを飾る。  凧を揚げる八歳のハルト(の想像図)。(そり)に乗って坂道を下る九歳のハルト(の想像図)。暖炉のそばで微睡む十歳のハルト(の想像図)──以下略。

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