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第20話

舟だ。この島では足代わりに重宝するが、漕いだことはあるか」  竿の両端に楕円形のヘラを()ぎ合わせたような形をした櫂なる代物を差し出してくるのを、後ろ手を組んで拒む。 「おれが欲しいのは船は船でも、本土まで乗せてってくれる船」  吐き捨てるように言ったのもつかの間、黒い瞳が悪戯っぽくきらめいた。 「こいつを、ありがたくちょうだいして自力で湖を漕いで渡るのもありかも」 「もっとも近い対岸まで、およそ二十キロ。漕ぎ疲れて休憩している間に櫂を波にさらわれる、何かの拍子に船底に穴があく。どちらに転んでも悲惨な末路が待っている」  指の間の皮膚が蛇腹めいて伸び縮みする手が下がっていって、沈没する様子を描いた。 「二十キロくらいチョロいもんねえ、だ」  ハルトは櫂をひったくると、ひらりと船べりを跨いだ。ところが舳先側(へさきがわ)のいわば左舷から右舷へ、同じく(とも)のそこに渡された二枚の板の間で立ち尽くす。  ひと口に漕ぐといってもブランコを漕ぐのとは勝手が違う。馬と異なり意思の疎通ができないものを、どう操れば思い通りに動かせるのだ? 「まごつきようから見て、まったくの初めてらしいな。では前方の板に腰かけなさい、櫂さばきを手ほどきしてやろう」  しぶしぶ指南役を務めるふうを装って、イスキアは舫い綱をほどいた。内心では願ったり叶ったりの展開に鼻歌が出かねないのをからくも抑えて、後方の板に移った。  小舟が揺れたはずみに、ハルトは尻餅をつく形で横板におさまった。手ほどきしてやる、という恩着せがましい響きに神経を逆なでされて、いっそのこと櫂をへし折ってしまいたい衝動に駆られる。だいたい小舟の漕ぎ方を教えていただくも何も、なんとしてでも今日中に草原めざして出発するのだから無駄じゃないか。  船着き場に視線を流すと、杭に止まった蝶がおいでおいでをするように(はね)を広げて、たたんだ。  ふと名案が浮かんだ。用を足してくると偽って小径に駆け戻り、島のどこかに隠れておいて、イスキアを送り迎えする快速艇が錨をあげる瞬間を狙って、こっそり乗り込む。本土側の港に着きししだい、一路ふるさとへ!  衣ずれが鼓膜を震わせ、羊の群れは幻と消えた。イスキアが真後ろにいて、その存在を意識すると腰がもぞつく。売られた喧嘩は買う主義といえ、まんまと思う壷にはまって、おれの馬鹿馬鹿。だが今さら櫂を突っ返すと、怖じ気づいたがゆえと誤解されるかもしれなくて、それでは沽券にかかわる。

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