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第35話

 気が揉めるのに比例してツムジのぐるりおよび、その中心部の潤い度が危険値に近づく。恋情と、領主業のしがらみの板挟みとなり、愁いを帯びた風情に令嬢たちがキャアキャアとさざめいたのは、さておいて。  結局、イスキアが饗応にまつわるすべての行事から解放されたのは丸一昼夜ののちだ。領主号こと、ずば抜けた速さを誇る快速艇は波を蹴立てて小島へ急ぐ。接岸するのももどかしく渡し板を駆け下りて、波止場に出迎えにきたメイヤーに詰め寄った。 「あの子の容体は。医師の診立ては、なんと申した」 「熱がいささか(たこ)うございますが、懐郷病と呼ばれる一過性のものであろうかと。たっぷり休養をとるのが一番の薬とのことでございます」 「では、あとはわたしが()る。人払いを」  ハルトの私室にと選んだ部屋は、とりわけ眺めがよい。西翼の最上階に位置するそこからは、茜色に染まった空のもとで、あるいは月光に照り映えて、四季折々に変化する湖面の多彩な表情を堪能できる。  安らげるよう鎧戸が閉め切られている現在(いま)は、色タイルを敷き詰めた床のそこここに家具調度の影が落ちて、幻想の世界へといざなわれるようだ。  イスキアは忍びやかに寝台に歩み寄ると、恐る恐る天蓋の中を覗いた。するとハルトは殻に引っ込んだカタツムリさながら上掛けにくるまっていて、黒髪がひと房はみ出しているのみだ。  そろりと上掛けをめくる。そしてホッと溜息をついた。病みやつれた寝顔を目の当たりにすることになるかもしれない、と髪飾り風の帽子の下でが赤と青のまだらに染まるようだった。  取り越し苦労に終わり、穏やかな寝息がハープの音色のようにイスキアの心を震わせる。ただ、レース仕立ての夜着をまとって夢の通い路をたどるさまは、日ごろのハルトが元気の塊なだけに、なおさら儚げに見える。  解熱作用がある薬草の抽出液と、キュウリのしぼり汁を混ぜ合わせたものに浸した湿布が敷布に転がっていた。だしぬけにハルトが目をぱっちりあけたら、財布をすった瞬間に捕まった掏摸(すり)のごとく弁解する必要に迫られるに違いない。  そう思うと湿布を額に載せなおしてあげることすらためらいがちになり、切なさを含んだときめきが胸を満たした。  どうにかこうにか湿布を載せ終えたあとで、イスキアは寝台の傍らに椅子を持ってきて腰かけた。仏頂面という仮面が剝がれ落ちたように、うつむいた横顔にやわらかな笑みがにじむ。いざハルトに相対すると、彼の反応にいちいち気持ちをかき乱されて、それをごまかすため居丈高にふるまうという悪循環に陥りっぱなし。  身構えることなく、そばにいられる。貴重なひとときが少しでも長くつづくことを願う。

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