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第36話

 急逝した父親の名に恥じぬよう、また若輩者と侮られぬよう、肩肘を張って(まつりごと)を担ってきて数年。  老獪(ろうかい)な近隣諸国の君主と渡り合い、謀叛(むほん)の芽を摘み、と神経をすり減らす明け暮れのなかで、草原の片隅で健やかに成長している許婚の存在が心のよりどころだったのだ。  だが満を持して領主館(別館)に呼び寄せたものの、それも恋わずらいの一症状なのか、自分の敵は自分という泥沼にどっぷりはまってしまい、おかげでハルトに疎ましがられる一方だ。  こんな体たらくでは溺愛道の奥義を会得するのは、いつになることやら。  イスキアは苦笑交じりに胴衣の衿をゆるめた。と、閃いた。ハルトはぐっすり眠っている、ということは予行演習に励むにはお誂え向きの状況だ。改めて求愛するときに備えて、できれば精神感応の働きで、今この瞬間に伝わることを(こいねが)って、  ──わたしは十年来、そなたにぞっこんで首ったけでメロメロなのだ。  そう心の中で熱っぽく囁きかけるそばから、照れ臭さのあまり一目散に逃げたくなった。肘かけを握りしめて、早、浮いてしまった臀部を座面に縫いとどめる。  かくも片恋こじらせ童貞三十路男の前には、天まで届くような山がそびえるのだ。  などと悩みは尽きないまでも看病するという大義名分が立ち、なおかつハルトを独り占めにできるとくれば、まさしく願ったり叶ったり。  くうくうと敷布の波間を漂う寝息の、なんと愛らしいことか。あどけない寝顔の、なんと魅惑的なことか。エメラルドグリーンの双眸はハート形の集合体と化すようで、いつしか寝台に突っ伏す寸前まで身を乗り出していた。 「う……ん」  羽虫にたかられる夢でも見ているのか、虚空をはたく仕種にぎくりとして、イスキアは凍りついた。そのくせ愛しい、愛しいと訴える視線は狂おしさを増すばかりで、うるさげに瞼がひくつく。  うろたえ、いっそう背もたれに張りついた。すると棚ぼた以外の何ものでもない出来事が起こった。上掛けが蹴りのけられた拍子に夜着がはだけたのだ! ほの赤く、それも極小の真珠のような乳首がちらついたのだ!  その罪作りな光景は猫に鰹節。いや、イスキアにみずやかなキュウリだ。  そそくさと窓辺に行くと、髪飾り風の帽子のぶんだけデコボコした頭の輪郭が、ガラスにぼうっと映し出される。  帽子──第二の皮膚のごときそれの下には秘密が隠されていて、それも越えがたい〝山〟だ。いずれ折を見てハルトにカクカクシカジカと打ち明けるさいには、に対する反応が、ふたりの将来を占う試金石になるだろう。  だが、まだ無理だ。臆病者と嗤われようが、まだ秘密を明かす決心がつかない。

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