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第37話

 ともあれ紳士のたしなみとして、しゅるしゅると柔肌に吸い寄せられる視線を懸命に引きはがし、引きはがしながら夜着をかき合わせてあげた。  波打つ金髪を束ねて長衣の袖をまくる。煩悩にまみれるのは後にして、看病に専念しなければ。  ところが「おいで、おいで」をしているように見えるものがある。それは枕元の小卓に置かれた吸い吞みだ。琥珀色の薬湯をたたえた、それ。  イスキアは吸い吞みを燭光(しょっこう)に翳し、じっくりと検討した。ハルトを抱き起こして背中に手を添え、しかるのちに吸い吞みを口許に運ぶ。溺愛道の教えに照らし合わせると落第点をつけられそうだが、最善の方法と言えなくもない。  ──役得をせしめる妙案が浮かんだくせして、いい子ちゃんぶるな。 「わたしの(うち)にひそむ邪悪なわたしよ、不埒な言い種はよさぬか」  つい大声を出してしまい、しーしーと人差し指を立てた。口移しで薬湯をそそぎ込むだなんて、たとえ一瞬にしろそんな誘惑に駆られるとは下劣きわまりない。さもしい真似をしてはならぬ、ならぬと言ったら、ならぬのだ!  苦難のすえに掘り当てた金鉱を泣く泣く埋め戻す思いで吸い吞みを小卓に置きなおした。  看病にかこつけて接吻をかすめ取るなど、ドブネズミのようにこせこせとして、みっともない。などと屁理屈をこねて、やせ我慢を張るあたりが損な性分だ。  ただでさえハルトが領主館(別館)で暮らしはじめて以来、誘惑と闘いつづけている。それは帽子をかぶらずに炎天下、キュウリ農園の草むしりをするくらいの苦行だ。  何しろにこにこしているときも、拗ねているときも、不敵にゆがんでいるときでさえ、ぷっくりした唇はついばんでほしげに艶めくのだから。 「う……ん」  ハルトが壁を向く形に寝返りを打った。じわじわと洩れ出した(よこしま)な思いを遮断するように。イスキアはそう感じて、いったん次の間に退いた。  だが〝ハルト〟を摂取しないとのたうち回る羽目になる、という禁断症状が早くも現れたように息苦しい。下敷きになれば大の男でもぺしゃんこ、という書棚を揺さぶって自分をなだめた。  ──腰抜け、ヘボ。カッコばかりつけているから溺愛道の入門編どまりなんだ。好機をにするな、根性を見せろ。  人格が分裂したように、欲望に忠実な〝イスキア〟がけしかけてくる。抗いきれず寝台のそばに舞い戻った。  恋とは、かくも紙魚(しみ)のごとく理性を食い荒らしてくれるものなのか?  口移しで薬湯を服ませるぶんには、こぼす心配が減る……詭弁を弄するのはやめろ。ちょんと唇を重ねるだけ、それなら看病の範疇(はんちゅう)におさまる……こぎつけがすぎるぞ。

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