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第38話

 葛藤に苦しんでいるさなかに朱唇がうっすら開くと(たが)が外れる。イスキアは薬湯を口に含むと、枕元にそっと腰を下ろした。長衣の裾をさばいて上体をひねり、慎重に狙いを定めながら頭を下げていく。  あと十センチ、あと五センチ……睫毛の本数を数えられるまでに距離が縮まり、あとは慣性の法則に従って唇が触れ合わさるのを待つのみ。鼓動がうるさい。耳の中で掘削工事が行われているように。 〝口移し〟を阻むものは、もはや障害物ですらない空気の層のみ。なのに、この段におよんでためらいが先に立つ。  そのうえ息がかかったとみえて、寝顔に愛らしい皺が寄った。イスキアは迷った。可及的速やかに勇気ある撤退といくべきか。ささっとくちづける……もとい、特殊な方法による投薬をすませるべきか。  と、ハルトがぽっかり目をあけた。  イスキアはうっかり薬湯を飲んでしまい、むせた。反面、時と場合に応じてハッタリをかます必要に迫られる領主業で培われた技が、ここで活きた。〝熱を測ろうとした〟をはじめ、幾通りもの言い訳を瞬時にひねり出すとともに仏頂面をこしらえたものの、 「ふ、みゅう……」  難詰されるどころか、可愛いらしい欠伸が緊迫した空気を吹き飛ばした。  日中は水色の濃淡をなす湖面が、夕陽を浴びて桃色や緋色の衣をまとったように華やぎはじめる。寝間に点された蠟燭の(あか)りが、輝きを増していく。  イスキアは、ぐったりと椅子に腰かけた。ぶっつけ本番で〝口移し〟に挑むのは、軟弱な地盤に城を築くくらい無謀なことだった。だからといって、すごすごと退散するようでは、あまりにも不甲斐ない。  拳を握った。気合を入れなおして、溺愛道の教本に記載されていた参考例を実践してみるのだ。額と額をくっつけて「熱が下がったな」。  ところが、よりによってというときに体内を流れる祖先の血がざわめきだした。何世代にもわたってヒトと交わってきて、それでも未だに躰の数ヶ所に異種の痕跡を留めている。  そのうちのひとつが、蜂の巣を髣髴(ほうふつ)とさせる六角形が連なる痣。  今、この瞬間にも背中の内側で何者かが粘土をこねているように、筋肉やら角質層やらが蠢いて、痣全体が楕円状に隆起していくのを感じる。  イスキアは長衣をはためかせて私室へと走った。生理食塩水を満たした巨大な水槽に飛び込むと、汗がどっと噴き出した。 「危うくボロが出るところであった……」  万一、痣が変化(へんげ)するさまをハルトに目撃されて、しかも質問攻めに遭っていたときは、はぐらかすのはなかなかに大変だっただろう。  髪飾り風の帽子を取り去った。痣が硬質化するにつれて、つるりとしたを縁取るひらひらは厚ぼったくなり、もう少しで帽子からはみ出すところで……桑原、桑原。

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