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第48話

「こんなに笑ったのは何年ぶりであろうか。ああ、愉快だ」 「あっ、そ。おれは別に楽しくないけど」  ばっさり切り捨ててサンダルの紐革をほどいた。ともすると鋭い光を放つエメラルドグリーンの双眸が明るむと、月明かりが漆黒の闇を払ったかのごとくやけに眩しくて見えて、紐革が指の間をすり抜ける。  心の中に草原の端から端まで届く縄が渡されていて、それをたぐり寄せられているような感覚がなぜだか強まっていく。 「もっと早くに、ざっくばらんに話す機会をもうけるべきであった。そうしていれば……」  ためらいがちにだが、すこぶる優しい指づかいで髪の毛を梳きとられた。そう、あくまで優しい。それでいて油紙で包んでいても汁の類いがしみ出すことがあるように、狂おしいものが伝わってくる……気がしないでもない。 〝イスキア・シジュマバートⅩⅢ世〟という銘がある矢が突き刺さったみたいな痛みが胸を走り、そのくせ痛さの底に未知の何かがひそんでいるようで、髪の毛をいじられるに任せた。  ハルトは紐革をほどいて結んで、またほどいて結んだ。手をはたき落として作業に戻ろう。そう自分を急かしても下肢が逆らう始末では、もうどうしようもない。  イスキアの頭を膝の上に、ふんわりと載せなおした。 「借りを返し終わってないし、しょうがないからもう少しつき合ってあげる」  イスキアはらしくもなく、きょとんとした。膝枕続行だ、わーい、と手放しで喜ぶどころか、何か裏があるのでは、と疑念がもたげるあたり片恋をこじらせてきた弊害が生じたといえる。上目づかいに盗み見て、不自然なまでにぶすったれたさまを捉えた。そこで、これこそ奇蹟が起きた。照れ隠しゆえ、と直感が働いたのだ。  素直な子がツンツンしてみせると可愛らしいったらない。イスキアは頬の内側をきつく嚙んで、デレデレする寸前で持ちこたえた。 「せっかくの好意を無下にするのは野暮であるな。では、甘える」  それは、いつもの昼下がりの光景だ。親方が豊作を寿(ことほ)ぐ歌を口ずさみはじめると、ひとり、ふたりと加わって小島全体に響き渡るようだ。  水路に映る雲が小魚とおいかけっこして厨房では鍋がくつくつと煮え、満ち足りたひとときに彩りを添えた。  疲れが溜まっていたとみえて、イスキアはうとうとしだした。ハルトは麦わら帽子で陰を作ってあげた。  イスキア曰く、彼に安らぎを与えるのが「許婚の役目」。命令に従うなんて我ながら物好きというか。ただ、目の下の濃いクマが本土側の領主館で執務に忙殺されていることを物語っていて、小島に渡る時間を捻出するため無理をしたからだと思えて、言いなりになってあげる気になった。  それに、と思う。太腿にずっしりくる重みは安らいでくれている証しで、満更でもない。

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