53 / 143

第53話

「とか言って逃げるなんてサイテーだ! 人でなし、バカバーカ!」  ハルトは、大股で遠ざかっていく背中めがけて麦わら帽子を投げつけた。ハッと我に返ってしゃがみ、キュウリの残骸を拾い集める。土埃にまみれたものも片っ端から麻袋に詰めなおしながら、冥福を祈るように語りかけた。 「キュウリさん、ごめんなさい。お詫びに、きちんと食べます」    酸っぱくなった羊の煮込みを食べてもけろりとしていた、頑丈な胃袋の持ち主なのだ。  生温かい風が、イスキアのそれの感触があえかに消え残る唇を撫でていく。黒い瞳が怒りに燃えて、チクショー、と咆哮が迸った。  初チュウをかすめ取られるとは、不覚。くやしいやら、情けないやらで涙がにじむ。ただ、驚いたのも腹が立ったのも確かだが、吐き気をもよおすところまでいかなかったのが我ながら不思議だ。  だまし討ちの形じゃなくて、堂々と求めてくれていれば、チュッとするのは許婚同士のじゃれ合いと位置づけて、唇をついばみ返していたかもしれない……。 「ないから、絶対、金輪際! ないから!」  屈辱もののひとコマなんか、汗とともに洗い流すに限る。ハルトはそう思って四阿とキュウリ畑を結ぶ斜面を駆け下ると、今度は育苗箱を担いで駆けのぼった。  ちょこまかと行ったり来たりする様子を眺めやって、キュウリ組はそろって微苦笑を誘われた。おやおや、べたべたなさっていたのが一転して置いてきぼりを食わされて、奥方さま(仮)は拗ねておいでだ。  その夜、深々と更けていくにつれて風がびょうびょうと唸りはじめた。ワシュリ領国旗が尖塔から引きちぎられそうなほどはためき、鎧戸ががたつく。雷雲が急速に発達して、牙を剝きつつあったのだ。  一番鶏(いちばんどり)が時を作ったあとも墨を流したように暗い。湖面は不気味に泡立ち、湖底ではおどろおどろしく蠢く影があった。

ともだちにシェアしよう!