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溺愛道の教え、その5 想い人を慈しみたおすのが己が使命と心得よ

    溺愛道の教え、その5 想い人を慈しみたおすのが己が使命と心得よ  何層も重なり合ったような、どす黒い雲が小島の上空を覆う。鈍色(にびいろ)に塗りつぶされた風景が時折、白銀の輝きを放つのにともなって大地が震動する。ひっきりなしに雷鳴が轟き、ざあざあと雨が降る。  その(ほとり)に沿って土地が拓けてきたウタイ湖は、ワシュリ領国内はもとより、世界屈指の透明度を誇る。荒天の今日は水晶の輝きは失せ、茶色く濁って渦を巻き、(みやこ)を流れる川の岸をえぐって氾濫騒ぎがいくつも起こった。  大粒の雨が櫛形の窓を斜めに走る。すきま風に煽られて、蠟燭の炎が横へ縦へと揺らめく朝食の席で、ハルトはパンをかじるごとに、キュウリのスープを飲むたびに注意を受けた。  誰からって? イスキアの腰巾着……もとい忠実なる(しもべ)こと侍従長のメイヤーからだ。 「よろしいですか、嵐が過ぎ去るまで決して、決してですぞ、(やかた)から出てはなりませぬ。殊に物見の塔へ通じる柱廊は危のうございます。ましてや水路に近づくなど自殺行為の最たるもの、彼奴(きゃつ)らめにつれ去られかねません」  と、いった内容の忠告をくどくどしく繰り返すと、ちっちゃな角帽を手で押さえて桑原、桑原と唱えた。  小間使いのパミラが紅茶をカップにそそいでくれながら、真顔で後を引き取る。 「しつこいと、げんなりなさいますよね。でも本当に危険なんです。活発でいらっしゃるハルトさまが出歩くのを禁じられるのはおつらいでしょうけど、我慢してくださいましね」 「駄目駄目って言われると、よけいうろつきたくな……」 「なりませぬ!」  両方向からの叱声が、耳を(ろう)するばかりの雨音をかき消した。キュウリのババロアが喉に詰まり、ハルトはカップを鷲摑みに紅茶を呷った。そしてウエッと顔をしかめた。  キュウリづくしの献立にはだいぶ慣れてきたとはいえ、紅茶にまでキュウリのシロップを混ぜるのはいかがなものか。こっそり爪で舌をこそげると、朝食の()の隅に控えるメイヤーのほうを向いた。 「土砂降りだもん、ポンチョのほころびでも繕って部屋でおとなしくしてるよ? けど危険、 彼奴めらって、どういうこと?」 「湖の底にのさばる水妖どもが、水位が上昇したのに乗じて(おか)にあがり、このときとばかりに狼藉を働くのです」 「水妖……初めて聞いた、なんなの、それ。ウタイ湖の固有種的な生き物だとか?」 「ワシュリ領国が今日(こんにち)の隆盛を築く以前から湖に巣食っていた種族なのですよ。あやつらの鳴き声はヒトを幻惑し、ぽうっとなっているところを湖中に引きずり込んで、活け造りに舌鼓を打つかのごとく、がつがつと貪り食らうのでございます」

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