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第55話
ハルトはナプキンを草刈り鎌の形に折った。故郷の村ではヤンチャがすぎる子どもにチムートの咄 を語って聞かせたあとで、脅し文句を並べるのがお約束だ。
──悪さばっかりしているとチムートが、あんたの首をちょん切って、ころん、ころんと蹴飛ばすのさ。
ちなみにチムートとは羊に化けた悪霊のこと。つまり水妖なんちゃらも悪戯を戒めるために創作されたものなのだろうが、眉唾臭いことにかけてはチムートといい勝負だ。
「了解、ほっつき歩いたりしません。ちゃあんと言いつけを守ります」
神妙にうなずいてみせる一方で、こう思う。領主館(別館)の主 ともいえる侍従長が、子どもだましの作り話を持ち出してまで牽制してくるようでは、正面玄関は見張られている可能性が高い。だったらサンルームに入るところを誰かにわざと目撃させて、生い繁るキュウリを隠れ蓑に裏門へ向かおう。
小一時間後、ハルトはまんまと館を脱け出して小舟を操っていた。正しくは転覆寸前でからくも持ちこたえていた。
水草が優雅にそよぐ日ごろの水路がせせらぎなら、どうどうと逆巻く今日は激流。懸命に櫂を繰り出しても押し流され、押し戻されながら根性で漕ぐ。
自慢じゃないがカナヅチだ。小舟から放り出されたが最後、あの世へまっしぐら。いや、ひと抱えもある流木がうねりにもてあそばれるような荒れぐあいでは、水泳の達人でさえおさらばだ。
「羊飼いの底力を見せてやるう!」
稲妻が銀 に切り裂く空のもと、しゃかりきになって漕ぎ進む。
英雄譚の主人公さながらの勇ましい姿は、イスキアをますます恋の虜になさしめたに違いないが、彼は同じころ領主館(別館)の地階へと足を運んでいた。
ともあれ根性と執念の勝利だ。ハルトは掌にマメをこしらえて、荒波に櫂をさらわれそうになりながらも、目的地にたどり着いた。馬蹄型に切れ込んだ南の入り江が、そこだ。
崖の下にぽっかりと口をあけた洞窟は隠れ家にもってこい、と目星をつけておいたのだ。狼の襲撃から羊たちを護るため輪番制で夜回りを務めていた経験上、野宿には慣れている。
曲がりくねって起伏に富んだ天然のトンネルを歩いて上り下りし、あるいは這い進む。やがて広場のように開けた空間に出た。
岩壁の一部が柱状に削り取られて連なるさまは、神殿のような雰囲気を漂わす。岩肌から清らかな水がしみ出して鉢状の窪みに溜まり、下は乾いた砂地で快適……、
「じゃない。じめじめの、べちょべちょだ」
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