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第56話

 残念でした、と嘲笑うようにため息が反響した。サンダルはぐじゅぐじゅと砂地にめり込み、闇に沈んだ遙か上のほうから雫がしたたり落ちると、幽鬼の気配を感じたように皮膚が粟立つ。びしょ濡れの衣服を脱ぎ去って絞り、()じける自分に活を入れた。 「寒い、寒いけど寒くないったら、ない!」  毛布にくるまって暖を取ろうにも、野宿の七つ道具を詰め込んできたリュックサックもびちょびちょだ。着替えまで全滅なのはともかく、マッチが湿気たのが痛い。火を(おこ)せないとなると、 「これを生のままかじるのか、う~」  厨房から失敬してきた貝の干物を油紙で包みなおした。それでもヒカリゴケがあちらこちらに生えているおかげで、周囲はぼうっと明るい。  椅子のようにせり出した岩に、ちんまりと座った。曲がりなりにも人心地がつくにつれて、ハルトの中の冷静な声がこんなふうに説教をかます。  ──短気は損気、ってな。嵐がおさまるのを待ってずらかっても遅くなかったぞ。  小島と本土を結ぶ快速艇──通称・領主号は、どうせ波が高いうちは港に停泊したままなのだから。快速艇にもぐり込んで本土に渡る計画は延期せざるをえないのだから。  だがイスキアが領主館(別館)に足止めを食らっている。退屈しのぎに話し相手をさせられるかもしれないし、廊下でばったり会うかもしれない。  気持ちの整理がつかないのに、困る。くちづけられた感触が、ひょっこり唇に甦るたびペンキをかぶったように真っ赤になるありさまでは……。  たかが初チュウ、されど初チュウ。明け方、下穿きがじっとりと湿った感触に飛び起きた。心身ともに健康な男子的には、溜まるものが溜まれば奔出する仕組みになっているわけで、単なる生理現象だ。  ただ、夢精へ至る過程というのが曲者だ。  秘められた願望に基づいて紡ぎ出されるものが夜の夢。郷里(さと)ではそう語り伝えられているが、嘘っぱちだ、とハルトは声を大にして言いたい。だって潜在意識が、とんでもない悪戯をしでかしたとしか思えない夢を見てしまったのだ。  馥郁と薫るキュウリの森でイスキアに狂おしく抱きしめられて、接吻をねだるように唇を尖らせるなんてキ〇〇イ沙汰だ。目が覚めたとたん塩水でうがいをせずにはいられなかったそれの、どこが願望の現れだというのだ。  しかも夢の中の出来事とはいえ、 「そなたを愛している」  熱っぽく囁かれながら唇が重なった瞬間、キュンキュンときめくわ、祝婚曲──正体は雷鳴だ──が高らかに鳴り渡るわ。  恐慌をきたしたあげく、お尋ね者さながらあたふたと逃げ出す。それもこれも、あの陰険で尊大でうぬぼれ屋で、だが優しいところもある許婚のせいだ。

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