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第58話

 洞窟に悲鳴が響き渡る、その二時間ほど前。イスキアは領主館(別館)の地階に設けられた霊廟(れいびょう)で物思いに沈んでいた。  ワシュリ領国の歴史を題材とする壁画が荘厳さを醸し出すここには、領国の(いしずえ)を築いたレキュントⅠ世にはじまって、代々の統治者の棺が納められている。  棺の蓋には、それぞれの(むくろ)のデスマスクがはめ込まれている。イスキアの父をふりだしに祖父、曾祖父と遡っていくにつれて口許に特異な変化が見られはじめる。  端的に言うと、幅広の(くちばし)めいて口許がせり出していくのだ。  鼻梁も同様に、八代前より十代前といったぐあいに、ヒトと異なる特徴が顕著になっていく。十五代前に至っては、もはや鼻があるべき場所にぽつぽつと(あな)が開いているのみ。  イスキアはランプを掲げ、ため息交じりにおろした。そして長衣の衿をかき合わせた。冷気が澱んでいるためではなく、寒気がした。  ハルトがうっかり霊廟に迷い込んだ日には、好奇心の強いあの子のことだ。無邪気に且つ、へどもどするのは必至の質問を矢継ぎ早に投げかけてくるに違いない。  ──デスマスクって死に顔を石膏で写し取るんじゃなかったっけ? けど領主さまの一族は、わざわざ気色悪い修正を加えてるよね、なんで?  煤が灯芯に触れて、煙が目にしみた。まんじりともできないうちに夜が明けたから、なおのこと。農園が舞台のが寝台の天蓋に繰り返し映し出されるようで、眠りを妨げたのだ。  厳密に言えば色ボケ大王ここに降臨す、というありさまだったのだ。ハルトに接吻しちゃった、くふふと笑って寝台を右に転がる。唇の感触といったらムース仕立てのキュウリも()くやという、やわらかさだった、枕をばしばし叩いて寝台を左へ転がる。  要するに嵐が迫りくるのをよそに、夜通しはしゃぎっぱなしだったのだ。  いわば思い出し歓びにひたると、棺の木目から壁画に至るまで、ありとあらゆるものが想い人の顔とダブりはじめる。今しも父親のデスマスクに無意識のうちに頬ずりする始末で、イスキアは棺の間を行ったり来たりして正気に立ち返った。  妄想劇場の幕が開いたぶん頭が蒸れて、髪飾り風の帽子を外す。そして毎度のことながら、鎧を脱ぎ捨てたような解放感を味わう。  ──イスキアさま、ようございますか。ここは、いつも必ず適度な湿り気を保っておかなければお命にかかわるのですよ。  乳母が子守歌を歌うように、そう繰り返し教え諭してくれたここは生まれつき円盤状にハゲていて、イチゴの(へた)を思わせる軟質物が縁取る。  真珠色の光沢を放ち、爪と同じく角質層から成るそれは、古来よりこう呼び習わされてきた。

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